第3章  追憶

 

 

1、       桜峠の衣

 

新聞に折込まれたチラシで、龍谷大学の社会人向け講座『歎異抄(たんにしょう)』があることを知った。親鸞(しんらん)の弟子・(ゆい)(えん)の書とされる『歎異抄』には少しばかり関心をもっていたので、妻と揃って聴講した。

龍谷大学瀬田学舎は、名張からマイカーで一時間半ほどの所にある。名阪国道()生野(ぶの)インターから信楽方面へ走り、東海自然歩道のコースともなっている湖南(こなん)アルプスを横目に、大戸川(だいどがわ)沿いに下って瀬田に着く。
 瀬田には日本庭園が素晴らしいびわ湖文化公園、
()(こく)傑出した画家・小倉(おぐら)()()(1895~2000)の作品を展示する県立近代美術館、図書館、そして公園の一等地を占めるところに(せき)(しょう)(あん)という茶室がある。この茶室で茶の湯の文化に浸ってみたいと思いながら通り抜ける。
 キャンパスはこの公園に隣接している

途中、伊賀焼の中心地・丸柱を経て、六古窯の一つ・信楽へ。あの愛嬌のある狸の焼き物が軒先を飾る市街地を通り抜ける。これがまた楽しかった。
 何回か通う中、「それは何だろう?」と気にかかるところがあった。阿山町・桜峠の道路端に整備された駐車場がある。そこは人家もない山中なのになぜ?と思いながら走り抜けていた。

講座からの帰り、時間があったので立ち寄った。
 駐車場には碑が立てられており、そこには「中興了源上人遺跡」と刻まれていた。
了源(りょうげん)(1295〜1335)は、仏光(ぶっこう)()中興の祖・七代上人、私が生れた寺の本山である。
 雑木林の中に細い道があり、
50
mほどのところに苔むす墓と別な碑があって、菊の花が供えられていた。
 説明板には、建武
2年(1335128日、伊賀地方布教の帰途、この七里峠(桜峠)において弟子の善了と共に殺害された、とある。
 碑文には、流れる血汐をもってわが衣の袖に「吾死宿業 コノモノヲ罪スルコトナカレ 回心ノ気アリ ヨク後生ヲ ヲシユベシ」としたためられている。

 宿業
(しゅくごう)
とはなんだろう。私の拙い知識では、宿は宿世のこと、業は行為を指し、この2語が熟語となって、いい意味でも悪い意味でも前世の報い、或いは、過去からの運命ということになる。それは私の理解を超えるものだった。
 
 それにしても、自分や弟子を殺めた者を、その場で、しかも激しい痛みに耐え、命の限りを尽くして説き、許すとは・・・。普通では考えられないことであり、そちらの方も私の理解を超えている。しかし、よくよく考えてみれば次のことに行き当たる。
つまり、全ての生き物は、生命の危機に対し、自己防御の意識やその力の働きを備え持っている。そして襲いかかる外敵に対しては、逃げるか、または相手を倒そうとする。それによって自己を守る。これが自然の生命の本質であり、人間社会では正当防衛とみなされる。当然のことながら犯罪に対しては、法に基づく追及と制裁がなされる。それが社会の在り方として近代に続いてきた。
 そこから考えると了源のこの態度は、その次元ではないといえる。

 伝わってくるのは、”吾の死は、吾の運命である。刺客は、己の所業を悔い、阿弥陀仏に救いを求める心の動きがあるので、罪を問わず、
生まれ変わることをよくよく教えよ”とした、宗門に伝えるその迫力、彼の揺るぎなき仏法の精神である。
 孔子に由来するといわれ、日本の格言となった「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味を持つ了源の態度、それは、人間再生を第1にし、阿弥陀仏の「衆生を救うという願い」に応えようとする仏教者の姿であった。

そこで、もう少し知りたいと思い、丸柱にある近くの寺を訪ねてみた。この寺は、石垣、白さが引き立つ練り塀、庭木、そして本堂、それが美しく、調和の取れた佇まいとなって、詣でる人々を迎えている。
 落葉を掃く住職がいた。用件を伝えるとにこやかに語ってくださった。

「地元の老人会の人たちが墓を守って、花を供えています。伊賀上野に了源寺というゆかりの寺もありますよ。遺骸はそこに運ばれ、葬られたといわれます」

 そもそも了源は、なぜ襲われたのか?
  この時代、日本仏教は大きな変化を遂げていた。法然、親鸞による他力本願の教義が確立し、その黎明から発展に至る跳躍の時期であった。中でも仏光寺の隆盛は目覚ましく、その中心に了源がいた。

 伝説によれば対抗する宗派的「集団」が、この機を狙って山賊の一味に手をまわし、刺殺させたとされる。実行犯は田中村の兵衛という者である。彼は、わが手で殺めた了源に教化され、罪を悔い、年が明けて、頭目の八郎とともに仏光寺に赴き、すべてを告白したという。40年7カ月余の惜しまれる生涯であった。

 人は、志半ばにして倒れる、運命に翻弄(ほんろう)される、悲劇の主人公などそこにあるヒロイズムを美学として受け入れる。私もその例に漏れない。了源の波乱に富んだ生き方―その結果は悲劇的であったが、それはまさしく殉教といえるもので、その布教活動のロマンに魅せられる。 
 
 後日譚である。そこは、町指定史跡・「了源上人遷化の地」とされた。なぜ、峠の地名が変わったかの理由を探ると次のようである。
 「この辺りが上人の鮮血に染まり、あたかも桜の散るのに似ていたので、人々はこの峠を『桜峠』と呼ぶようになった」、また、県境峠を三重県側に下る長い道は「『桜街道』と呼ばれた」(以上いずれも『伊賀の街道にまつわるお宝・風景』(伊賀びとのおもい実現委員会刊)。
 そこに立つと万感の思いに迫られる。。


    2 、 親鸞伝承

『歎異抄』講座は、年に前期、後期それぞれ4回、2年で計16回である。講師はS教授で、当時、文学部部長であった。本人自身僧職(そうしょく)にあったせいか話は絶妙で、機微に触れたものであった。
 以前、何かの本にこんなことが書かれていた記憶がある。宗教を論じる際、宗教学者と宗教家との間には捉え方に相違がある。これは、宗教を学問として扱う学者と信仰から捉える宗教家との立場の違いで、そこに注意が必要だというものである。

 受講生は、自己紹介で、社会生活での人間関係やわが子を自殺でなくし心に迷うところがあるとか、寺に嫁いだが檀家(だんか)との会話で質問に答えられなかったという女性などさまざまであった。
 私の場合は、知識欲のほうが大きかった。特に、あの有名な「善人なおもて往生をとぐ悪人においてをや」という言葉である。 この解釈、評価には、他宗派の考えもいろいろあって難しい。特に批判の急先鋒をなしたのは、戒律を厳守し、「厳密の聖者」と云われた明恵(1173〜1232)である。
 明恵を無欲高潔の人と尊崇してやまない紀野一義(1922〜)は、あるエピソードを紹介している。時の執権・北条泰時が治世についてその要諦を明恵に問うたとき、「只、太守一人の心に依るべし。古人云はく、其の身直して影曲がらず、其の政正しくして国乱るることなし。此の正しきと云ふは無欲なり」と答えたという。
 紀野一義は、事のついでに「どこかの国の欲の亡者に堕ちた政治家どもは、この言葉を何と聞くでしょうか」(『明恵上人 静かで透明な生き方』PHP研究所刊)私は、そこに強欲な財界人や権益・利我にしがみつく高級官僚、金で動く御用学者なども付け加えておきたい。

 明恵は、現在、世界文化遺産となった京都・高山寺を再興し、「鳥獣人物戯画」や自身の、大木の枝に腰をかけた姿絵「樹座禅像」が有名で、どこかちゃめっ気な印象がある。
 私自身、高山寺には二回、そしてて映える夕日が美しい和歌山市・栖原海岸、その背後に小高くそびえる山の中腹に建つ施無畏寺には、観光がてらに訪ねたことがあり、思い出深い。
 その彼は、法然、親鸞を流罪にした後鳥羽院(1180〜1239)の信任厚き人物であった。
 後鳥羽院と云えば、『新古今和歌集』の編纂に尽力し、和歌の黄金期をなした人物、この時、藤原定家ら頭角、活躍する.後、鎌倉幕府打倒を目指した”承久の乱”を起こし、失脚、配流。彼は、野心的な政治家ではあったが、文人と云う方がふさわしく、この方面で世に役立っている。高山寺再興も後鳥羽院の勅命によるものであった。
 法然の考えを述べた『選択集』を呼んで頭にきた彼は、「念仏さえ唱えれば救われる」という主張に「悟りを求める心、菩提心を無用とする仏教者にあるまじき言葉」と論難する。もちろん感情的反発だけでなく、論を立てて批判した。
 どちらが真実であるかは言い難いが、要するに旧が新を否定する構図である。
 また、これとは別に世俗的な善悪論もからみついて頭の中が混乱する場合がある。法然、親鸞の真意、説かんとするところは何なのか? そこに教義の本質があるように思われ、この講座に足が向いたのである。

 短期間の勉強でわかるはずもないのであるが、“扉の前に立った”気がした。その扉を開ける事ができるかどうか、!その先のことはわからない。

 何回かの講義の後、S教授からある紹介があった。

「NHKの人間講座で、()史(サミヨン)さんが『現代によみがえる歎異抄』というテーマでお話をされます。こちらにも取材がありました。時間があれば、ぜひ観てください」

これは、200110月〜11月に放映された。高さんは、自分が『歎異抄』に()かれていった事情を話した。
 最初は知識として、ついで心の求める対象として、そして、それが今、自分の生き方の
(かて)、指針となっていることを語った。傾聴すべきことは多かったが、私が特に注目したのは次のことだった。

 高さんが『歎異抄』を生涯の宝ともいえる存在とした直接の契機は、一人息子の自死にあった。愛した子は、12歳のとき、身を投げてこの世との別れを告げた。親として、その悲しみは消えることがない。

講義は、この悲しい事件をベースにしながら、現代社会の様々な憂うべき状況を取り上げ、そこに親鸞の考え方、彼の説く往生への道を描くものであった。
 高さんが阿弥陀仏への信心こそが、自己を救う道となることを語ったとき、また、わが生の在り方であることを語った時、そこにわが子の自死による悲しみから立ち直った姿が見られた。素直に受け取れるものだった。


 NHK「人間講座」が終わった後、S教授は、みんなに感想を求めた。それぞれであったが、一人の婦人が言った。

「先生のお話のほうが、よくわかるのですけど・・・」

思わず笑いが起こった。和やかな雰囲気の中、そこには自分に素直で,飾らない彼女への励ましもあった。
 
勉強といっても知識で凝り固まることではない。人としての心や生きる力を育くむことが一番大切である。彼女なら檀家の質問にも向きあえるに違いない、そんな感想をもった。

繰り返しになるが、私にとって高さんの話のもう一つの注目点は、わが子の自死がこれほどまでに人生観を変えるのか・・・という感慨であった。それは、数年後に、私たちの身の上にも起こることとは思いもよらなかった。また、私が「自殺」でなくて、「自死」という言葉に接したのは、このときが初めてであった。

 講義の全日程が終わったとき、教壇の前で、お礼を述べた。

「新しいことをたくさん教えていただきました」

そして、甥が教授のゼミにいたことを伝えた。

「また、ご縁がありましたらよろしくお願いします」

軽く頭を下げた私にS教授は、なにか、話をしたいようであったが、私の後ろには、数人の方が列を作っていた。

 この講座で悪人正機説は理解できたかと問われれば、未だ半ばである、と言わざるを得ない。
 講義の内容から離れるが、そこに少しばかり言及しておきたい。

 「存在が意識を規定する」といわれる。生きた人間の、その時代における生活および意識はどのようなものであったか。その実体と抽象的にとらえられた煩悩との関係、それを親鸞はどう解明したか。そこはまだ私の勉強が足りないところである。
 私の関心は、煩悩というものの現代的内容をとらえる事、そして、その否定面だけでなく、積極的な内容―人々の生きる喜びをそこに描くというものである。
 つまり、煩悩は全く否定すべきものか、教育訓練によって自己改革すべきものかが、親鸞にたいする問題意識としてある。

 親鸞の言う煩悩が人間の本性によるものであるなら、それからの解放は、訪れる命運(平たく言えば「お迎え」、或いは自然のまま)に従って、此岸から彼岸へ渡ることしかない。そこに阿弥陀仏の働きがあり、称名念仏によって往生ができる。それが他力本願の根本教義の内容をなしている。

 これは、現世に生きる人々の、生涯のもつ意味、或いはその価値を否定しているのではない。その現世と宗教的来世の関係を、それへの方法をも含めて説いているにすぎない。それはまた、現世に生きる人間の心の救済そのものであった。

 自分に極楽浄土と云う来世があるなら、死に際して不安を覚える事は、少ないか、或いはほとんどないと考えられるから…。
 また、「仏恩報謝」によるこの世の善行も、真に満ち足りたものになるであろうから…。
 そして、浄土の仏たちの微笑みの中に、つまり母の胸に抱かれた赤ん坊のように、この身が包まれるであろうから…。

 まさに、当時の仏教界においては、自力本願の悟りにとって代わる、成仏の道であって、革命的な事件といえる。
 鎌倉期以前は、エリートのための仏教で、名もなき民の宗教的救済は、まだ、確立していなかった。それに応えたのがこの他力本願である。


 法然、親鸞の他力本願は、それ自身在来の仏説を捉えなおすことによって生まれ、大乗仏教として新しく発展したものである。したがって、いずれの教義も、歴史の検証や充実・発展の求めが生ずることは避け難い。

 宗教とは、人間とその時代、その社会との関係で成立し、営まれる行為の一形態である。当然、その宗教的信念、その教義は継承されていくが、また、必要に応じて変化もしていく。天上の話(説)であっても、超歴史的なものは存在しえない。その行く先は、たとえ長い時間を費やしても、民衆によって選択される。

 法然、親鸞の時代は、旧来の教説・教団(南都・北嶺など〉と激しく対立し、後鳥羽院による弾圧・「承元の法難」(1207年)を受け、流罪にもなった。しかし、旧来の教説は、多くの部分が時代に合わなくなっていたので、その抵抗には限界があった。

 時の経過とともに他力本願は、民衆に溶け込み、民衆の仏教となった。現在、法然・親鸞の教義を巡っては、いろいろと研究、論評もされ、認識の深まりもある。
 その認識の在り方―民衆から見たとらえ方―は、時代の進展とともに、また変化・発展する。


 さて、親鸞の本格的理解、研究は、『教行信証』(正式な著書名は『顕浄土真実教行証文類』を研究することによって獲得できる、とされる。この書は、法然亡き後、明恵の批判に応え、自分の信念・教義を理論t的に解き明かそうとしたものであった。

 親鸞は、四年にわたる流罪の後・放免、しばらくして関東に向かう。これは、師とする法然が赦免後、京都に戻るが間もなく死去したこと、巻頭には、親鸞につながる九条兼実(1149〜1207)関係の人々が在住し、そこに頼ったとの説もある。
 
 親鸞は、常陸国(茨城県)下妻に住まう。42歳頃であった。それからの10年間、住居は変えるが、教義をまとめる事に多くの時間を費やし、『教行信証』を書く。
 この時期、親鸞に教えを求める門弟衆が増え、高田派・専修寺が起こる。60歳を超えたころ、京都に帰り、90歳にして大往生を遂げ、その生涯を閉じた。


  『教行信証』は、当時、字も読めない無学な人が圧倒的に多数であったから、、その人たちに向けた教説であったとしても…、譬えは悪いが、彼らには「猫に小判」のようなものであった。叡山をはじめとする批判者を相手にした、経典のため、気軽に、手にとって学べるという書物ではなかった。
 しかも漢文で書かれているため、なお、近寄りがたい。この点、物語性豊かなキリスト教『聖書』とは著しく異なる。

 親鸞は、後に平易に説明する『和讃』を表す。これは三部より成り立っており、一括して『三帖和讃』と呼ばれている。和文で、しかも七五調の詩的リズムで語られているため、親鸞の人となりと感性がそのまま伝わってくる名著・名文である。

 
 自力本願の核心が、悟りを開くことにあるとすれば、他力本願のそれは、弥陀の本願に帰依することにある。これも悟りの形だが、煩悩という厄介なものの解決を、そのままにしていることが問題なのかもしれない。

 親鸞は、難行・苦行を否定し、称名念仏・「信」でよいとする易行の立場をとった。、それは法然の専修念仏を継ぎながら、また、親鸞自身の学問的苦闘の末、新たな確信としてそれは浄土真宗であると説いた。浄土真宗は、法然の教義解説に使った言葉であったが、後に宗派を示す名称となった。

 しかし、衆生の往生には、称名念仏・信心を説く布教・伝道に携わる人がいなくてはならない。その媒体がなければ、いかに高尚な理念といえども無に等しい。

 教団(門弟集団)をまとめ、先頭に立つべき彼は、弟子たちの敬愛を受けながらも「親鸞は弟子一人ももたず」と云った。弥陀と衆生を直接結びつけるという、それ自体の内容は素晴らしいが、弥陀の本願をあまねく衆生に伝え、「念仏まふさんとおもいたつこころのおこる」(『歎異抄』第一条)には、その信心を持つに至らしめる方法、手段が必要である。

 門徒はまだ少数であり、当初、本願寺は寺というより庵であった。時代が進むとその伝道者の役割を果たす数々の人物が生まれ、室町時代に揺るがぬ基盤を築いた。
 室町期以前の先駆者には、了源がいた。、室町期以降の発展では、蓮如の功績が大きい。彼なしには語れぬといえるほどの存在である。

 了源(1295〜1335)は、名帳・絵系図を多用した。名帳とは、交名帳の略称で、『親鸞聖人惣後門弟等交名』といわれるものである。正当な念仏者の師弟関係、その名字を連ね、幕府に登録したもの。いわば今日でいう戸籍簿のようなものである。絵系図は、肖像画でもって教えの流れを示した絵巻で、今日でいえば、絵本をイメージできる。これは、識字もできない無学な衆生に対応した教本で、視覚と簡明な教義解説を旨としている。

 仏光寺は、「惣」(中世以降における地域共同体。そこにおけるみんなの意思と行動の一致を指して言う)を重視した寺経営であった。
 惣の民は皆等しくあり、民主的な思考があった。一方、法然、親鸞の人間観は、人はすべてみな同じ、差別はないとするもので、惣の感覚に合い、受け入れやすいものであった。
 
 これは、当時の政治・社会の特殊事情に対応し、権力に弾圧の口実を与えない対策も兼ね備えていた。この名帳・絵系図による説法は、民衆に大受し、仏光寺の繁栄につながった。惣と名帳・絵系図がうまく相互作用し、救いを求める衆生の願いに応えたのである。

 蓮如(1415〜1499)は、寺院を拠点とした寺内町を各地につくり、布教の飛躍的な発展を図った。その着想と経営手腕は並外れている。
 歴史学者でない私にはよくわからないが、蓮如の寺内町建設は、一向一揆の経験をも踏まえ、戦国・乱世にあった当時の教団の在り方を追求し、また、仏光寺方式を新しい形で発展させたもののように映る。

 もちろん、識者によると廟堂を主とする小さな寺を一大拠点寺として発展させたのは、蓮如の『御文』であり、教義を単純化し、あいまいなところを明確にしたことが根本にある。つまり、弥陀への信心を「後世を願う」に単純化し、その後の念仏を「仏恩報謝」と意義づけたことによって信者は、戦国の世の一向一揆など、目前の生存のために戦い、結果として落命することを恐れなくなった、といわれる。

 さて、『教行信証』、『和讃』は、親鸞が自分のなすべき使命を自覚し、生涯を通して完成させたもので、仏教教義の優れた遺産となった。この遺産をいかに受け取るべきであろうか!

 もしかしたら、親鸞の全思想は、生きとし生ける人間の善きことも悪しきことをも含めて、そのすべてを人格として認めたものではないか?
 そして、衆生にとっては、わが手の及ばない死後のことは、他力、つまり弥陀の本願が存在することを説いている。
 それは、間接的表現ながら、この世の雑念にとらわれず、かまうことなくわが道を生きよ、と云っているようにも受け取れる。これは、不安、苦しみ、悩みを、もつ人々にとっては、心深き人間讃歌・仏教的応援歌ではないか!ふと、そのような思いがした。、大学校門を後にした時の、あのホッとした気分と似たものであった。

 

3、     出会い(1)

 

青年時代、私にも死の意識と隣り合わせに過ごした時期があった。余り深刻なものではなかったが、今でも記憶として残っている。そのきっかけと解消が淡い感傷となっている。

17才の時であった。会社の寮で、夕食後の退屈な時間を過ごしていたある日、ラジオドラマが流れてきた。ツルゲーネフの『父と子』である。聞くともなく聞いていたが、しだいに引き込まれた。これがツルゲーネフの作品との最初の出会いであった。早速、書店で文庫本を買い求めた。

 作品の背景となったロシアは、19世紀の中葉で古い貴族文化と新しい民主的文化とが対立、拮抗(きっこう)した時代、農奴(のうど)解放新しい市民(ブルジョア)階級の急進的思想、気分が彼を取り巻いていた時代であった。
 作品の主人公・バザーロフは、父の後を継いで医学を身につけ、その研究に励むとともに、彼を導く科学の力を信奉し、それ以外の古いものや文化・芸術に価値はないと否定してはばからない人物で、その彼が自分を貫こうとする物語である。

 バザーロフは、自分の考え方がニヒリズムであることを主張している。ニヒリズムという言葉は、ツルゲーネフが最初に使ったとされるが、これには、「虚無(きょむ)主義」と恐ろしいほど苦しい訳語が当てられていた。私は、古いとみなされるものは一刀両断のもと切り捨て、否定する「虚無主義」に内容ではなく、その気分に共感していた。

「自分のいまとぴったりだ!」

そう思ったとき、安心感があった。

 バザーロフは、蛙や虫を材料にした解剖、観察など実験を重ねながら、当時の科学的知見を習得し、それに裏づけされた自分の世界観を追求した。その意味で進歩的だった。
 私の場合、そうではなく、肌で感じる日常の生活である。それは、貧しさと将来が漠然としていて、とらえどころのない不安な気分、そこにこのニヒリズムが寄り添ってくるように思えた。

物語は、伝染病で死に直面した若きバザーロフが、それと冷静に対処し最期を終えている。

 この作品が読後、私に与えた思想的影響は、人生の歩みで行き詰まれば、死ねばいい、それですべてが終わる。それ以上のことが望めないのであれば、それでいいといった開き直りである。現実性も、深刻さというものもなかった。

 ある意味では青年期によくある気まぐれ、昨日考えていたことと今日考えることとが、ガラッと変わり、明日になれば、今日のこの考えのリアルさはどうなるのかといった
(つか)み所のない特有の心理状態も作用している。

死の意識は、私のいまを映しているが、しかし今ではなく将来に関わって、脳裏を(かす)めていくものであった。
 そんないい加減なものでありながら、そこから抜け出すには、私の場合、自分の社会的存在を階級的・社会集団の一員として自覚する精神的作業が必要であった。そのエネルギーは、並大抵でない。

ツルゲーネフの作品では、つづいて『その前夜』を読むこととなった。 時代の移行を背景に、親子の情と世代間の対立を描いた『父と子』とはちがって、人生と社会に対しもっと積極的な生き方が描かれている。

 主人公エレーナは、知性に秀れた、貴族の家柄である青年たちに囲まれ、もてはやされながらも、選んだのは彼らではなく、貧しいブルガリア人留学生であった。その彼は、祖国をトルコの支配から解放するため、自分のすべてを捧げることを決意し、戦場に向かう。エレーナは、その心に打たれ、彼の後を追う物語である。

この小説も、私の現実の生活と重なって、私を社会運動に導く動機を与えるものとなった。
 それは私を捉えたニヒルな考え方から抜け出す力をもたらした。


  
   出会い(2)



私が、マルクスの著作と出会い、夢中になるのは、それからしばらくした後であった。
 そして、マルクスと「対面」したとき、私の意識に付きまとっていた死の影は消えた。また、貧しさは一家を苦しめ、つらい生活を余儀なくさせたが、私にとっては、社会の真実を突き止める動機となり、その意味でよかったと思えるようになった。

あるとき、書店で二冊の本を買った。
 一冊はヤスパースの実存主義で、イギリスのラジオ放送でなされたものの講話集であった。読みはじめたが難しさのあまり退屈になってやめた。

二冊目は、『弁証法十講』というタイトルのついた哲学入門書で、著者は柳田謙十郎である。
 彼は戦前、観念論哲学に傾倒していた。戦後は、民主主義の風潮に触れ、新しい思想への転換を遂げる。そして、マルクス主義に行き着く。
 この自らの思想経歴を語りながら、哲学、経済学、社会主義、そして社会の土台である経済とその上に構築される政治、法、イデオロギーなどの上部構造を統一的にとらえ、解き明かした史的唯物論、一般に社会発展の歴史法則といわれるものを分かりやすく説いている。

 経済学では、社会の富を生み出す仕組み・所有関係、とりわけ富の源泉において、その役割を担う労働の意味を丁寧に説明している。そして投下資本と賃労働を結合し、商品生産と流通、そこで生み出される利潤(剰余価値)を追求するのが資本主義生産様式であること。

 資本主義は、社会発展の歴史からみれば画期的なものだが、未来永劫ではなく、その一つの形態にすぎない。それは、やがて制度疲労(生産力の発展と生産関係の矛盾が極度に達することや
恐慌(きょうこう)の発生、腐朽、投機マネーによる撹乱、その他、さまざまな条件による成長・発展の桎梏などとともに生命を終え、新しい生産様式、つまり生産手段の社会的所有の新しい形態が生み出され、移り変わる。

 その進歩において、生産力の主要な担い手である労働者、この社会的集団が、他の階層と組んで諸矛盾の根低にある搾取制度を変え、自由と平等な豊かさを実現する社会、つまり共産主義と名付けられる社会(もちろんのこと、別の名付けがあってもおかしくはない。それは、その時の社会が決める事であるから、我々は知の継承性とその価値を知的財産として大事にしているのである。また、その財産は、社会の発展に活用されるべきである)をつくる力となる。それが労働者階級の歴史的使命なのであると熱っぽく説き、この社会構造とその運動を、弁証法という概念論理を使ってわかりやすく解説したものだった



    出会い(3)



 後々のことになるが、ソ連の崩壊によって科学的社会主義は、まったく権威を失ったように見える。しかし、ソ連の崩壊は、それなりの理由があって社会主義を傷つけたことは不幸であっても、それは表面的なことに過ぎない。
 ソ連崩壊は、社会主義の学説を破壊するほどの力は持っていない。

 1960年代、私は、大阪・レニングラード青年友好使節団の一員としてレニングラード(サンクトペテルブルグ)とモスクワを訪問した。モスクワでは、レーニン廟に行った。厳粛な雰囲気の中、しばし黙して礼をささげたことがある。
 レニングラードでは、第二次世界大戦の焦点の一つとなった独ソ戦における反ファッショ・祖国防衛の英雄的戦いなどを聞いた。

  その延長線上に「エルベの誓い」があった。これは、ナチス・ドイツが敗北する2ヶ月前の1945年4月25日のことである。連合国・米軍が東から、ソ連・赤軍が西からナチス・ドイツ軍を追い詰め、両軍は、エルベ川(トルガウ)で出会う。その時米ソの若き兵士たちは、再び銃をとることなき平和を誓いあった。
 その後、不幸にも戦後の東西冷戦時代になるが、しかし、エルベで交わされたこの誓いは、世界史において消える事のない特筆すべき出来事であった。私は、その思いを受け止め、レニングラードを後にした。
 人々は、親しみやすく、特に、人類史上初めての宇宙飛行士となったガガーリンの「地球は青かった」の感動的な言葉で沸いていた後だったので、使節団も友好の一役を果たすことができた。

 だが、歴史は平坦ではない。ソ連共産党の日本共産党に対する大国主義的干渉が起こり、両党間の激しい論争が繰り広げられた。。

 私は、しばらくしてスターリン支配下のソ連の「ヤミ」を告発するいくつかの文書を読んだ。また、ソ連研究者から眉をひそめる話も聞いた。さらに、千島列島の不当な占拠だけでなく、戦後のシベリア抑留問題など日本人に対する酷使、虐待、死など理不尽極まりなく、社会主義にあるまじき事実に唖然となった。
 「誤りは、歴史によって正される」といわれるが、ここではソ連崩壊となった。

 そんなことでソ連崩壊は、歴史の1コマであって、私にとっては、難しい運命との遭遇ではなかった。少し複雑な気分もないではないが、私は日本に生きている、社会の立て直しは、主権者・ロシア国民の意志と努力によってなされることなのだ、と冷静にやり過ごせた。

 先の格言は、我が国自身にも当てはまる。先の戦争で、真珠湾を攻撃、アジア諸国を侵略し、多大な犠牲を与えたのはほかならぬ日本軍国主義であった。
 ボツダム宣言の要求する民主化を無条件に受け入れ、降伏した。
 日本国憲法では、か罪業を深く反省し、それを前文と第9条にうたい、武力で持って他国民を死に追いやる事件は、一度も起さなかった。それは、戦後日本の誇りとして今にある。



   4、  歴史の検証 (1)



 ところで、現在の社会主義への批判は、至極簡単な一言でもって終わっている。その際、論者が批判のモデルとして旧ソ連しか持ちだせないのは、思考の停止かと思わせるほどで、何とも情けないことである。
 旧ソ連を知るものは、旧ソ連を批判できる。が、マルクスを知らないものは、マルクスを批判できない。

 マルクスの学説は、ちょっとした噛付きで論破できるほど半端なものではない。
 一歩踏み込んで言えば、社会主義の学説は、資本主義の諸矛盾の中からその解決として生まれたものである。
 ただ、一つだけ注釈を加えれば、現代資本主義の「危機打開策」の、もうひとつの道として歴史上存在したのは、近代が築いた民主主義を根底jから覆すファシズム=日独伊防共協定などによる他国への侵略戦争と自国民への暴圧的支配であった。この歴史の教訓から、ファシズムを再びこの地上に許してはならない。

したがって、社会主義の学説に対抗したいと欲するなら、まずは、自らを変えなければならない。それができるのかが問われる。
 彼らにそんなことを要求するのは酷なことかもしれないが・・・?

 事実を見れば、その青写真はいまだ描けていない。
 ケインズもダメだった。新自由主義も弱肉強食で、貧富の差を大きくしただけだった。投機マネーは、世界経済を撹乱し、手に負えなくなっている。グローバリズムは、それ自体は重要な意味を持つが、歴史的不幸を背負った南北問題を解決する後進国バージョンなどではなく、アメリカ主導の競争力と大国有利を迫っただけで、処方箋とはならなかった。

 失業率は、高いレベルで慢性化し、少子高齢化は、先進国共通の現象だなどと云って、あたかも自然現象であるかのごとく扱い、政治の無策を表明している。年間、3万人を超える自殺現象は、人々を単に悲しくさせているだけでなく、その心を荒涼たる状況に貶めている。
 アメリカ、日本をはじめ先進国の国家財政は、とてつもない債務危機に陥り、しかも各国とも一時しのぎの他は、有効な手立てが打てないでいる。

 この危機打開で、議論されている二つの方法―大増税・歳出削減の路線か、はたまた成長戦略=規制緩和・構造改革、経済成長による税収増かは、未だ結論を見ない。これらには二律背反的なところがあって、高度成長期ならともかく、長期デフレに悩む現在の日本において、その「首尾よく解決」を命題にするのは、高根の花を求めるようなものである。
 この議論において両者に共通しているのは、民生への破綻のしわ寄せで、それだけは隠せない。

 1970年代に言われた「ジャパンアズNo1」は、遠き過去のものとなり、今や、日本の存在感は、消えかかると灯火の如くである。これは日本だけでない。戦後、華やかなりし頃、軍事力とともに世界の金の7割を保有し、「パックスアメリカーナ」と云われた彼の国は、見る影もなく、落日の時代を迎えている。
 戦後をリードしたはずの先進国首脳会議は、力を失った。そんな中で辛酸をなめているのは、常に名もなき民である。

 結論として言えば、近代経済学は処方箋すら描けなくなった。そこにあるのは、現実の諸問題に対する汲々とした姿だけなのである。
 それが悪いと言っているわけではない。少なくない人々が、資本主義が抱える諸問題を改良・改善したいと涙ぐましい努力をしていること、それを知らないわけではない。ここでは、それしか出来ないことを問うているのである。

 社会主義はダメだ、旧ソ連の失敗がいい見本だというだけでは、、問題は何も解決しない。もっと根源的で、リアルな主張をもって論争するのが、歴史と社会の進歩のためには有益である。

 私は、資本主義の歴史的役割を正当に評価しているが、しかし、今や終末を迎えつつある、とみなしている。
 どのような時代も、最後は、進歩と反動の激しい戦いの段階が生じる。それは、明治維新やフランス革命などを想起するまでもない。  現在の民主主義政治体制のもとで、それがいつ、どのような時間を費やし、どのような展開をたどるかは、だれも予測がつかない。
 ただ言える事は、歴史は変わる(移行する)という単純な事実である。私は、この歴史的発展に関わる幅広い論争・国民的議論が起こることを待ち望んでいる。
 なぜなら、社会主義への移行には、この両者の真摯な論争が、絶対に必要だから・・・である。
 この論争は、やるなと云っても自然・必然的に起こる性質のものである。社会主義への批判論に対し、受けて立つて立つ側は、その批判に応え、自らをきたえ、豊かにしなければならない。
 逆説的だが、その批判論は、社会主義への正しい移行を助ける客観的な役割を担う可能性を、彼らの意図に関わりなくもっている。
 また、その成果は、批判者をも恵む。

 この資本主義と社会主義の両者の論争が、国民の政治的成長に良い結果をも田rすであろうことは明らかである。
 大事なことは、国民の一人ひとりがいかに生き、そのための社会的条件をいかに作るべきかを考え、歩む、そのことである。もし、親と子のきずなを結ぶ会話の中に、一つのテーマとして取り上げられるなら、そこから明日を信じる希望の一歩が生まれてくるかもしれない。
 自己の社会的役割を自覚した進歩勢力は、その民衆に奉仕すること、ただそれだけが歴史の発展にかなう名誉ある仕事である、と先達者たちは様々な言い方で伝えてきた。


 話が、少し横道にそれたが、本題に戻りたい。資本主義という言葉は、幼いときから耳にしていた。母は、この社会は資本家と労働者から出来ていると時折、話していた。私の生まれたこの片田舎で、まわりを見ても、このような言葉が日常会話に出てくることはなかった。

 
郷里には、戦前から特殊な雰囲気があった。それは、教育勅語を制定した時の文部大臣・芳川(よしかわ)顕正(けんしょう)が、この町の出であったこと、しかも彼の実家がわが寺の檀家でもあったから、その影響は大きかった。

『山川町史』(吉野川市(よしのがわし)による芳川顕18411920)の略歴をみると、貧しい医師の五男として生れ、青少年期に苦学、優れた才をみせる。21才で養子に出され、そこでは荻生徂徠(おぎゅうそらい)に傾倒し、政治への関心を高める。長崎に留学。医・理化学修業。このとき伊藤博文に英語を教えたことが中央政界進出へつながる。
 伊藤博文の訪米に請われて同行、後に彼の命によりイギリス留学。理財・紙幣製造を研究する。官界に進み、山形有朋の下で内務次官となる。東京
(
当時)知事を兼任し、4年後に政界入りを果たす。
 明治
23年、榎本武揚の後をついで文部大臣となり、明治天皇の命により、懸案となっていた勅語作成に取り組む。検討チームの推考幾十回の後、天皇の意を汲み入れ、成案。時の総理大臣・山県有朋と共に天皇に召され、「教育ニ関スル勅語」として賜り、これを頒布、文部大臣訓令を発した、とされている。

この2年後、帰郷した時の状況を、町史は次のように伝えている。

「徳島線川田駅に下り立った芳川は日の丸の小旗を打ち振って迎える多数の小学生や村民に潮光寺まで送られた。寺では幼ななじみの観瑞和尚に迎えられ、その日は、数百人の故旧、村民が錦衣帰郷の彼を一目見ようと押しかけた。昼は心のこもる歓迎の宴、夜は盆踊りが催された」。
 まるで
凱旋(がいせん)将軍のようであった。

 
芳川が帰郷の最初にこの寺を訪ねたのは、観端が少年期の芳川を教育したという謂れがあったことによる。、
 また、吉野川の度重なる氾濫(はんらん)に際し、曽祖父は、救援・復旧に動いたが芳川はこれを助けたと言い伝えられている。さらに、越山(えつざん)の雅号をもつ彼直筆の詩文を寺に贈っている。寺の床の間はその掛け軸の占有場所となり、今も続いている。
 私と思想的立場は、まったく正反対であるが、ハングリーな人格の持ち主であった。近代化の渦巻く激動の時代が、彼に働く場を与えたといえる。
 その評価、是非は後の歴史によって下された。近代の影響を強く受けたこの町の風土には、学を重んじる人が少なくなかった。

両親は、このような環境が受け継がれる中で私たちを育てた。私が長じて20才を過ぎた頃だった。
 帰省したとき、母は、他人には明かさなかった自分の生い立ちを語ったことがある。それは単なる懐古談ではなかった。

 娘時代に、叔父の医院で看護助手として働いたこと。この叔父は、医者なのに漢字の簡略化の研究をしており、論文も書いていた。そういう新しい考え、改革の人で、その影響を受けたこと。
 また、一番尊敬していた兄が、進歩的な運動に加わったことで、特高警察の監視下に置かれ、母の生れた寺の周りには、彼らのうろつく姿がよく見られたという。
 母は、兄の人柄をよく語っていたが、その中にネガティブな面として深酒に酔いつぶれる、といったことがある。屈服させられた言い知れぬ苦悩があったのである。
 私には驚きであった。母は、この寺に嫁いで三十数年の歳月、胸の奥底に秘めていたものを、初めて明かしたのである。そのときの母は、
(さわ)やかだった。

しかし、私の驚きの余震は大きかった。母を親子の関係ではなく、民衆の一人としてみたとき、民衆は、権力から受けた仕打ち、その悔しさを何十年もの間、心の奥底に留め、機会があれば表に出して語る、その凄さである。
 これは、大げさな言い方をすれば、母が私に与えた最大の衝撃だろう。その数年後、病に倒れ、他界したため、今にして思えば、これ以上のカルチャーショックはなかった。
 戦争の「語り部」や少し意味は違うが「火事七代」といわれる怨みと似たものを、そこに見た。

柳田謙十郎の著書に出てくる資本家・労働者の言葉は、母の面影とともに懐かしくもあった。そして、この本にある労働者階級の歴史的使命に心が揺さぶられた。
 それからというものは、社会主義理論の解説書を求めて、難波や梅田の地下街に在った古本屋をよく訪ねた。『資本論』第一巻も手に入れた。難しいものを読みこなそうとする意欲は、自分でも驚くほど強いものであった。
 そして、それを励ましたのは同じ頃読んでいた山本有三の小説・『女の一生』のこんな場面であった。
 解説によれば時代の背景は、昭和の初期、満州事変から
515事件・犬養首相の暗殺があり、8年には作者自身が特高警察の政治的狙いをもった検挙を受けるという事件があった。検察の意図は、朝日新聞連載のこの『女の一生』を中断させることにあったとされている。

小説の主人公・充子は、一人息子の充男が左翼思想に走り、それが心配のタネだった。どうしたらよいものかと思い悩む。
 教員である夫は、押さえつけようとしたり、頭から排除するのは逆効果を招く。息子と話題を共通させ、コミュニケーションが成り立つ関係の中で助言していくことがむしろ有効ではないか、という。
 そこで充子は、書店に行き、K博士(河上肇のこと)の『資本論入門』を買い、読み始めた。しかし、難しくて理解できないところがある。
 そこに夫がきて会話がはじまる。

「あたくしには、この文章があんまりむずかしくって、・・・今の人には、これでもほんとうにわかるんでしょうか。」

「そりや、わかるらしいね。・・・今の若い人たちは一つひとつのもじで読んでいるんじゃない、時代で読んでいるんだ。時代ののみこめないものには、文字だけたどっているものには、どうもあたまにはいりにくいらしいよ。」

 時代が彼らをして読ませる。作者は、すばらしい表現でこの事態を言い当てており、勇気を与えるものだった。山本有三がこの箇所を書いた時、特高警察の弾圧を受けたのであった。
 時代の
趨勢(すうせい)―その力はとてつもなく大きい。一方でそれを阻もうとする力も凶暴化する。そんな時代の雰囲気を伝えるものであった。

私の青春期である戦後日本は、混乱から立ち直りつつ、激しく動いていた。
 19
50年代は、労働運動が新たに高揚し、米軍基地反対や教職員に対する勤務評定の導入に反対する闘い、「オイ・コラ警察」の復活といわれた警察官職務執行法の改悪反対の闘いなどが起こる。

 そして石炭から石油へのエネルギー政策の転換による「合理化」、その象徴となった三池炭鉱争議、歴史を揺るがした
1960年の日米安保条約改定反対の闘いへと進んでいく。
 当時、日本中では来る日も来る日も、どこかで集会が開かれ、どこかでデモ行進が行われていた。

 心揺さぶられた私も、この流れに参加していくことになる。まだ見知らぬ存在で、将来、妻となる人もまた、この流れに加わっていった。
激動する世相に向き合ったという意味で、“時代の子”であった。
 だが、川面に揺れて流れる木の葉のように、その先は、瀞場なのか激流なのか、訪れる運命を知る由もない。
 ただ一つ、自らの立ち位置を見失うことはなかった、とだけは言えた。

 

4、  自分を創る

 

今、振り返ると10代後半から30代前半のこの時期は、私の半生の中で、山あり谷ありの道とはいえ、最も充実した時代であった。
 これは、恵二が引きこもりから抜け出して、上京し、そして親元に帰って暮らした期間とほぼ同じ年数である。この時期に体験し、得たものは、その後の歩みに大きな影響を与えている。
 それが自分づくりのいくつかの心構えとなって、今に活きている。主なもの
3つあって、いずれも10代後半から20代前半の頃である。

一つは、名作といわれる小説を読むこと。会社の得意先で、商社マンである人から、私が手にしていた本を見て「何を読んでいるのかね」と問われたことがある。

「人の心の動きを知りたいと思って・・・。関係する本です」

心理学ですとは、ちょっといいにくかった。彼は、本を見て言った。

「学問として否定するわけではないが、人間心理を会得したいのなら、学術書よりは、日本や世界の名作といわれる文学を読んだほうがいいよ。名作は、人の心、その動きをドラマとして描いているから。超一流の人が語る人間ドラマ、それは勉強になるね」

 人を理解する力を養う上で、名作は「宝の庫」だという彼は、そのとき輝いて見えた。

二つめは、私が所属していた青年団体が、高校生を集めた夏期合宿を計画したとき、「学ぶこと」について何かをしゃべれという要請があった。

準備のため材料を探していると、新聞のコラム欄にこんな記事があった。噺家の師匠の芸談義である。
 師匠は、机を例にそれぞれの隅、つまり手前左をA、右端をB、その上をCとし、さらに左上をDにして話をしている。いうまでもないことだが、机は長方形である。Aを出発点とする。C点は名人、D点は上手である。
 名人になろうと思えば、A−B−Cに至るコースが王道だが、この道は長い。とくにA−Bは基礎的力をつけることであり、地味で長くかかる。ところがこの労を避けて、いきなりD点、すなわち、上手に向かおうとする人がいる。しかし、DからCへの道はない。結局、上手になっても名人にはなれない、という趣旨の話であった。
 私は、これを材題にして、学ぶ心構えを彼らに投げかけ、“芸や学問を究めるに近道はなし”と話した。後で、担当者から「感想文では、委員長の話が一番よかったと好評でした」と聞かされた。

「そうでしょう。私も、師匠のたとえ話には感心したのだから。褒められたのは、師匠の話でしょう」

 ただ一つ付け加えれば、初心から物事を極めてゆくには、必要な過程がある。それを心得ておけば、失敗したときに大いに役立つ。

作家の井伏鱒二が「釣魚記」で、知識と経験の相互関係と技量の習得について、味わい深い話をしている。
 要約すると、初心者が鮎の友釣りでベテランの手ほどきを受け、そのとおりにすると釣れる。しかし、経験を重ねるうちに自分で工夫を加えたくなる。すると今度はだんだんと釣れなくなり、スランプに陥る。だが、いろいろ試しているうちに釣りの勘所がつかめてくる。

「つまり初めに習った原則に帰って来て、結局は自分でその原則を発見したほどの自信が生れて来る」と指摘している。
 借りものが名実ともに自分のものになったのである。哲学では、それをビギナーからベテランへの、実践をへて獲得され、到達する認識と技量の弁証法的な発展の産物だとされる。それは一つの物語である。

三つめは、喫茶店でコーヒーを飲んでいたとき、隣のテーブルに男女二人がいて、議論が盛んであった。その話は否が応でも耳に入ってくる。男は大学生らしく、女は受験生のようだった。

男性が、次のようなことを言った。

「学問は、進歩する。だから、既存の学問を学ぶだけでは足りないね。そこに新しいものを付け加えることに意義があるんだよ。その役割、その志をもって進学すべきだし、将来を見つめるべきだよね」

彼らは学者・研究者を念頭においているようだが、このアドバイスに女性はうなずいていた。常識的と云えばそれまでなのだが、後輩に伝える熱意は、見ていてすがすがしかった。
 かって私が読んだ本の中に、エンゲルスの「マルクス葬送の辞」
がある。

エンゲルスは、マルクスの業績の主要なものとして、史的唯物論と剰余価値学説を挙げた。
「一生にこのような発見を二つもすれば十分であろう。幸いにもこのような発見を1つでもなしえた者は、それだけで幸福である」
 少しだけ年下に当たるこの男女の未来のために、知ってほしい言葉であった。

 彼らの会話が耳に入ることによって,ささやかな憩いのひと時は何処かへ行ったが、だが、飲み干したコーヒーはうまかった。

以上に上げたこれらの心構えは、私にとって、言うほどにはやさしくない。そして、普段は、忘れているが、なにか大きな問題に直面したとき、不思議と思い起こされる代物である。
 そのとき、これまでの知識や経験のその先に「在る」もの、そこに考えが及び心は躍動した。
だが、同時に、それは神経を限りなくすり減らすものだった。

最近になって、もう一つ付け加えるべき事柄に出会った。それは、正史との世間話に出たもので、彼の職場の出来事である。
 上司と酒を酌む機会があり、その席上で部長が愚痴をこぼした。地方自治体はいま、いろんな問題が山積している。懸案となっている事業の改革で資料を集め、研究した。その成果を関係者に説明、意見を聞いた。しかし、予期した賛成は得られず、残念だというのである。

正史が言った。

「最近、読んだ本にこんなことが書いてありました。新しいことを発見した。しかし、それを認めてもらうには、発見に費やした以上の労力がいるというものです。新しいことが認知される難しさに、戸惑うことがあるといいます。部長は今そこに行き当たっているのではないでしょうか・・・」

「そうだよ! そうなんだよ」

 このいきさつを披露した正史は、私に「部長は喜んでいたよ」とにこやかに語った。

 私は思った。環境の変化に対し、人々の認識が遅れるのはやむをえないことだとしても、それだけでなく、そこには―どこでも見られることだが―お役所流の縄張り・利害の意識があって、状況をいっそう複雑にしているのではないか、と。
 このときチラッとよぎったのは、マルクス
の「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝心なのはそれを変えることである」。また、人づてに聞いた話なので表現はあやふやなのだが、主旨は、「変化を止める事は出来ない。出来るのは(変化の)先頭に立つことである」といったドラッカーのかの言葉だった。

社会が歩む限り、変革は永遠のテーマである。真理は変化の中に存在し、その認識は(研究を含め)実践によってのみ得られる。この立場から見ると、かの部長の感性はすばらしい。

 いま、人々の前にあるのは、変化が早く、複雑になった社会の動きである。そこでは、自分の意思、考えを人に伝える力、説得力が大きな比重を占めている。

 人に伝える力は、この場合、正しさ、或は価値の証明ができ、それを発信する意欲にかかっている。結局のところ、基礎的知識と現実をリアルに捉える力を研ぎ澄ますことが前提となる。
 振り返れば、恵二はそこが足りない。

彼に話しかけた。

「大阪に、文学学校というのがあるんだけど、どう!いまは故人となったが、詩人の小野十三郎が主宰(しゅさい)していた。そこから田辺聖子など秀れた作家が世に出ている。行ってみては

 彼は、関心を示すと期待したが、意外な言葉が返ってきた。

「なんで、オレより下の者から・・・、教えられなければならないんや」

 私は、あっけにとられた。

 恵二は、そんな親をチラッと見て、にやりと笑い、そのまま2階へ上がっていった。ドンドンと踏みしめる足音を残して・・・。思わず、妻と顔を見合せた。

 恵二との会話の中では、その専門的知識はどこで習得したのかと思わせることがしばしばある。独学によるものであった。
 修学の基本は学校だが、そこは、彼においては、拒否感の強いところとなっていた。恵二の不幸の一つは、その点にあったといえる。
 だが、それは、彼だけにとどまらない。いじめ、不登校、引きこもり、自死などの悲劇を大量に発生させている日本社会、それはどう見たって病んでいる。

 遠い昔、イギリスの詩人が詠んだ。

そはわれもまた 人類の一部なれば ゆえに問うなかれ ()がために鐘はなるやと そは()がために鳴るなれば 

ジョン・ダン

この詩は、ヘミングウエイの小説・『誰がために鐘は鳴る』の巻頭を飾り、世に広く知られた。

詩は何を語るのか。弔いの鐘が鳴るのは、決して他の人の事ではない。あなたの身の上にも起こることだから、自分のこととして受け止めなければならない。深い憂いを込めた警世である。
 この先、何が起きても不思議ではない社会状況だから、心に留めて置かなければならないことであった。

 

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