終章  答えの見えない問い

 

 

1、されどマンガ-在るものの価値

 

 若い世代との違いを一つ挙げよといわれれば、迷いなく漫画文化だと答えるだろう。恵二は、漫画文化で育った。

彼の精神的な成育歴を見ると小学校に上がるまでは、虫、とりわけカブトムシやカナブンに興味をもった。
 カブトムシは、幼虫から育て、その可愛がりようは特別であった。私には気味が悪かったが、彼は、幼虫を手のひらに乗せ、その動きを温かい目で観察していた。また、成虫を採るために、まだ、夜が明けぬ頃に起きて、近くの里山―雑木林に行ったりした。このため、周りから「虫博士」と言われたこともあった。

 小学生になると45年までは、プラモデルに熱中した。同時に、この頃から『ドラえもん』を愛読した。『ドラえもん』が手放しがたい本となったのは、後々まで読み返していたことでも伺える。
 私は、時折、それを読んだ。『ドラえもん』の魅力は、その人間関係、とりわけ友情に満たされていることであった。恵二が最も求めていたことで、しかし彼にとっては、内向的で、不器用な故に獲得の難しいものとして存在した。

 中学生になってからは、ファミコンが中心になる。そしてアニメに向かった。

 私の少年期は、とくに戦争が終わった直後、小学46年生であったが、野良仕事を手伝う他は、川で遊ぶことと読書であった。
 父の書庫は、仏教書ばかりで面白くなかった。母の実家にあった日本文学全集を借りて、『
金色(こんじき)夜叉(やしゃ)不如帰(ほととぎす)などを読んだ。
 これは、「おませ」ではなく、周りには、それしかない時代であったに過ぎない。だから貫一お宮の熱海の海岸や川島浪子「千年も万年もきたい」の名台詞以外何も記憶がない。だが、誰の作か
無花果(いちじく)は、そこに描かれた親子の情触れて、涙が流れたことを覚えている

それがきっかけになって、私の文学への関心が少しづつ形成された。文学が私に与えたものは、今、思うに、人の心の温かさや波乱に富む人生のロマンであった。
 そして、この頃からなんとなく、漫画は、軽薄なものという先入観をもった。成人してからは、娯楽であって、文芸ではないというある種の見方をもつようになった。
 これを変えたのは、手塚治虫の『ブッダ』と恵二である。

 『ブッダ』は、長編もので、第一巻を読み終えると次の発行が待ち遠しくなり、頃合いを見計らっては、書店を訪ねていた。
 私がブッダの生涯とその宗教思想、悟りの内容に、まとまった形で接したのは、後にも先にもこれだけである。まさに漫画本が媒体であった。
30代半ばの頃である。

 一方、恵二は、バイクの免許をとるのにも道交法のマンガによる解説書を買って勉強した。しかし、さすがそのときは、視覚と簡明さが彼の脳構造か?と思った。これで文学に必要な深い思索は可能か? 疑問でもあった。

 その免許取得だが、私は「アッシー君」として運転免許試験場に同行した。
 そこに直前までテキストを読み込む大学生らしき青年がいた。ひどく疲れている様子で、大丈夫かと気になったが、案の定というか不合格だった。
 その場限りの「やっつけ」に追われているのだろうか? バイトと学業の合間をぬった受験である。その点に限れば、親掛かりとはいえ、恵二は恵まれていた。比べたとき、有利に決まっている。

 世間では、「結果の平等」でなく、「機会の平等」があればよいとする論がある。特に新自由主義を信奉する者たちは、「鬼に金棒」のごとく振り回した。機会の平等もそれを享受する人たちの生活条件の大差なき同等性が重要である。

 人々は、経済の好・不況など社会に存在する支配的条件の外にいることは出来ず、個人の能力・資質を超えた貧富の差が根本にあって、それに左右されている。
 
したがって、高校・大学教育の無償化が、社会的要求として高まるのは必然といえ、差し迫った課題となるだろうとの思いをもった。

 もし、日本財界に心ある人々がいるならば、この現実を直視すべきであろう。彼らが、事あるごとに言い出す国際競争力の強化を言うなら、自分たちの利益だけに目を奪われて、法人税減税などというケチなことではなく、また、大企業には、とりわけ輸出企業には、大した影響を与えない優遇措置のもとでの消費税増税を、あたかも国民にとっては、救世主であるかのように言うのではなく、もっと大きな国家100年の計に立って、今崩れ去ろうとし、かつ、それが止まらなく進行する足元を見るべきである。
 でなければ、歴史の舞台から去るしかない運命が待っていることは、如何ともしがたい。

 日本が疲弊の極みになりつつある今ほど、財界・大企業の社会的責任が問われているときはない。
 「裸の王様」としか見えない「財界総理」と居並ぶ役員である。彼らをいさめる勇気をもった、今様天下のご意見番・彦左となる人物はいないのだろうか?
 こんな日本に誰がした・・・怨嗟の声が聞こえるようである。

 免許取得の数ヵ月後のあの日、家中が騒然としていたとき、正史は、恵二の部屋にある書棚から一連の漫画本に目を通していた。その中からあるものを見つけた。

「恵二は、この本の影響を受けているよ」

「なんだね。漫画のなぁー」

「落ち着いたら、読んでみて・・・」

「何が書いてあるの!」

「人生の成功という問題について、いろいろ論じているよ。多分、恵二はそこを注目したと思うよ」

 それは、題名を『天』とするコミック誌で、内容はマージャン界の話。

 マージャンの雄を争う東西決戦で勝ち、頂点を極めた男・赤木が、アルツハイマーに犯され、行動意識が確かなのはあと
3年と予想される。
 彼は、自己の栄誉を保つため、意思が自由な今の内に自分の手で死ぬと決める。 そこで親しい僧の協力を得て偽装告別式をおこなう。

 弔問に訪れた友人の中から特別に残した
7人に、この事情と経過を話し、自死の意思を伝える。これを通夜としている。
 友人は、自死を止めるため、さまざまに説得する。この舞台装置があって物語が展開する。結末は、
翻意(えいい)に失敗し、彼は毒死するこの過程で死生とその意味が論じられるというものである。

 この物語には二つのポイントがあり、それはいまの社会を映している。  一つは、赤木が自死を決めた直接の原因、即ちアルツハイマーに犯され余命いくばくとなったことである。そこで彼は尊厳自死とも言うべき願いを抱く。
 いま、世間では「ピンピン、コロリ」などと云う軽薄な言葉もあるが、作者は、病による哀れな終末を避け、有終の美を飾るようして人生を閉じたいという、誰しもが抱く願望をこの漫画に込めている。

 私の知人の例だが、彼女は年老いても気品のある美しさ、やさしさ、そして教養の持ち主であった。ところが認知症となり入院した。
 人を介して見舞に行きたいと家族に伝えたが、子息夫妻は困った顔をしたという。理由は、症状が進み、往年の面影はなく、見るに忍びない姿となっている。母を知る人には、かっての容貌・気品そのままに、それが壊れないよう、望んでいるというのである。

 私は、親思いの子息夫妻に心温かさを感じつつ、遠くから見守る他はなかった。この経験もあって、作者が描いた物語を
荒唐無稽(こうとうむけい)とか、突拍子もない話とは受け取れなかった。

 もう一つは、友人の一人との会話で展開される人生観である。友人は、関西に根城をもつ広域暴力団の組長で、彼とのやり取りを描いている。

 赤木は言う。(組長に対して)お前は成功を積み重ねすぎた。ある段階で成功は生の「輝き」ではなく、性質が変わって「(かせ)」になる。つまり成功が成功し続ける人生を要求してくる。そこに縛られ、当人を自由にしない。それは裏を返せば、いかに金や権力があろうと自己を喪失させた「みすぼらしい人生」なのだと諭し、勝ち負けに生きる世界の成功と幸せの関係を説いている。
 個の価値とその限界を見据えたこの説話は、事例が暴力団組長の人生だからある特殊性を反映している。そこを除けば、世間に通用する多くの内容がある。

 時代の寵児(ちょうじ)となり、はかなく落したある人物が浮かんでくる。目先利害に追い立てられ、執着する「勝ち組」は出世にまつわる古来のテーマだが)の生き方として幸せか鋭く突きつけているのである。
 「勝ち組」のその先に空虚なものがあるとするなら、恵二がそこに何らかの影響を受けたとする推測は成り立つ
 実生活では「赤木」との類似性はないが、恵二がたどり着いた時点での死生観からすれば、きることの価値見失った点で共通する。
 赤木は、「成功を追い続ける人生」を否定しているが、恵二においては創作を夢見た人生の挫折であった赤木の死への引き金は難病にあったが、恵二の場合は社会からの疎外感にあった。
 つまり、人は人々の中でもまれ成長するが、彼はその条件に恵まれなかった、といえる。そこから「死ぬことにしました。理由は云いません。別に仕事につけないからとかではありません。悲しまないでください」(遺書)につながったと考えられないこともない。
 しかし、あえてば違いもあった。赤木の人生は、晩年を迎えていたが、恵二は(今日では消え失せた言葉だが)青雲の志を抱いた
時期(とき)青春の躍動期にあった。その根本を揺るがしたものはなにか? それは、未答えの見えない問であった。

 『天』の作者・福本伸行は、自作のストーリーが自死の美化につながり、真似る者が出るのではないかとの危惧を抱き、異例とも言える「あとがき」で釈明をしている。それによると「赤木の死について誤読されたらいやだなぁ・・・という気持ちがオレに強くあり、最後の最後(注・生を強調するラスト・エピソードの挿入)、どっちにしようか迷った。まあ100人いて99人、そんな風に取らないだろうが、1人か2人、要するにこれは、自分が保てなくなったら死ぬか・・・が人間として潔いというメッセージなのだ・・・と・・・。もしそんな風に取られるとしたら、違う」といっている。
 これは、社会的存在としての作家、或いは作品の「独り歩き」を意識してのことだろう。


 彼の作品の評価として、付け加えておきたいことがある。それは、私の注意をひきつけた言葉、「冷たい人間は、いつも傍観者だ」と云うものである。
 同じ意味でつかわれている言葉に、マザー・テレサ(本名・アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ1910〜1997)が言ったとされる「愛の反対は、無関心」がある。

 彼女は、インドでの貧民救済活動にその生涯を尽くすが、そこで痛感したことは、何が救済の妨げになったかである。その一つは、貧困と不幸に対する人々の無関心であった。

 テレサの考えを突き詰めれば、キリストと律法の専門家との間で交わされた問答「善きソマリア人」の例に行き当たる。

 そのたとえ話を紹介すれば、強盗に襲われたユダヤ人が、瀕死の状態にあった時、通りかかった1人の祭司は見て見ぬふりをし、避けて通った。二人目も同じことだった。三人目は、ソマリア人の旅人で、彼は、負傷者を介抱し,宿に運び、費用も渡し、もし足らなければ次の旅の時に支払うと告げた。

 当時、神の民と自負するユダヤ人から、しかも神に仕える祭司から軽蔑され、馬鹿にされていたソマリア人が、瀕死のユダヤ人を献身的な行為で助けたのである。

 この話は、何を示唆するのであろうか!人々の困苦に手を差し伸べることなく、無関心な態度をとる、そこに人としての愛はあるのか?と問うものであった。その例話を通して、誰に対しても親切な行為をもって近づき、善き隣人になれと、キリストは言っている。

 「天」の作者も同じことを説きたかったのであろう。社会において失ってはならないものが、今欠けたままになっている。様々な「負」の社会現象に対して無関心でなく、傍観者でなく、宮沢賢治の詩「雨にも負けず 風にも負けず」にもあるような、人としての在り方が求められている、としばし振り返った。

 それはさておき、結論に至らないとしても私が今言えることは、恵二が自死に進んだ要因は、複合的であった。
 不登校をはじめとする彼の成育歴に悲劇の遠因があった。立派に立ち直る人も少なくないが恵二の場合、そこに諸々のことが絡まった。
 人生を導く自己の目的、また、数々のドラマを作った小中学生時代の友だちとの交流が途絶えていたこと。
 彼の特筆すべき人生模様の一つに、小中学校時代の友人関係がある。もし、A少年との交流が続いていればどうなったか? また、恵二にずっと付き添ってきたB君、高校進学から進路は分かれたが、その後も何かと励まされた。アニメ学園への入学を決め、その上京の直前、「頑張れよ、元気でな」と駆けつけてくれた。
 恵二が最も信頼を寄せた彼らとの交流が続いていれば、困難にめげない気力をもらったことだろう。
 小中学校からの級友との絆、それは先生方がづっと努力されてきた賜物だった。それが、「孤独には耐えられる」と云って途絶えたことが悔やまれる。

 人生の歩みの中で、いろいろなことから教わるということは、至上の恵みである。それからの歳月は、様相が変わった。
 インターネットサイトでのチャット―そこでの会話は、共感するものもある。だが、人間関係においては、副次的な関係が主たる関係になっているところに満たされぬもの―空虚さがあったのではないか。
 人の生涯で必須の条件は、(働くことに合わせて)友、師、伴侶、そして両親・兄弟・親族の存在だろう。そこに生きることの確かさと喜怒哀楽がある。
 「遠くの親類より近くの他人」といわれるように、人と人との物理的な距離は、さまざまに影響する。彼は、好むと否とに関わらず、毎日が顔の見えない相手、或いはバーチャルな世界に半身をおいた。

アイデンティティ―自分が自分であることの証(根拠)の一つとなっているもの、例えば、物書きであることの存在意義が喪失してゆく状況の中で書かれたと思われるメモが見つかった。彼の処分からもれた数少ない資料の一つである。

「いみのないことを考えてて、それがホントにいみがないのかと考えてしまう。しかしそれにいみがあるのかないのか、答えはなく、自分で答えを決めるしかない。形なきものを見るかのようなものだ」

 考えていたことが、どのようなものかを示す証拠は、探しても見つからない。しかし、彼にとって深刻なものであったことは確かである。
 ヒントとなるかもしれない1つのエピソードがある。
 思い起こされるのは、彼が中学生の時に受けた不登校に関する診断テストである。その1つ、指定画テストでは、太陽が月になっている、これは希望がないことを示すということだった。この希望がないという精神状態は、社会に出ても解消されず、根っこのところで続いていた。

 東京から帰省して1年ほどが過ぎたころだった。いつものように車で買い物に行く途中、私は周りの山々の紅葉に魅せられていた。

「きれいだな−、錦秋そのものだよねー」

 私は思わず口にした。
 恵二が言った。

「山が腐っているんだよ」

 その言葉は衝撃的だった。
 それは、彼の心の風景を映し出しているかのようだった。腐ってしまえば、そこですべてが止まってしまう。
 太陽が月のように描かれるのと錦織なす秋の山が「腐っている」と見えるのと、そこに共通する何かがあるのだろうか・・・? 一方で、私とは違った、予想もしない彼の感覚の鋭さもそこに感じられた。

 もしかすると山や木々の緑が自然の本性で、枯れゆく秋はその喪失と受け取っているのだろうか? 
 秋は悲しく、わびしいとする和歌も多い。 

 『百人一首』にも選らばれた歌をとってみれば…、二つ。

 奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声聞くときぞ秋は悲しき
                       猿丸太夫『古今集』
 自然と同化してゆく姿なのか。

 夕されば門田の稲葉おとづれて 芦のまろ屋に秋風ぞ吹く
                      大納言経信『金葉集』
 その暮色がわびしい。

 極め付きは、藤原季道で
 事ごとに悲しかりけり宣しこそ 秋の心を愁いといひけり
                             『千載集』
 言葉遊びがお好きな歌人の典型である。

 恵二の表現はストレートだからドキッとするが、違った見方をすれば人々が感じる紅葉の美しさの裏を突いた言葉なのかもしれない。
 そうした感覚、見る目を作品の中に取り込めば、或いは彼流の新しい文学を創り出せたかもしれない。
 「山が腐っている」に彼が見たもの―紅葉は、冬に備え、そして萌黄色の春を迎えるための、季節と云う自然に立ち向かう木々の、生命活動の在り方である―それは長い進化の到達であることに辿りつけば、きっと天地が開けたであろう。

 四季は必ず巡り来るように、人の世にも、また個々の人々においても、めぐりくる運命がある。それが新しい命運のチャンス(吉)か、ピンチ(凶)かは予測できないが、一つの転換の契機になることはある。だから様々な事柄を一つの見方だけでなく、柔らかいし思考と対応で処することが大事になってくる。彼の思考がそこに至れば、或いは違った世界が開けたかもしれない。

 未練がましいことだが、私が期待したいことだった。この延長線上で「メモ」の内容を考えられないだろうか・・・? 「メモ」の抽象的な表現を裏付ける根拠を、具体的にイメージできないことが親としては悲しく、心残りである。

 今となっては、どうしようもないことだが、弔辞となる君への「おくる言葉」は、人生の行き詰まりを、自分だけのものとして捉えず、多くの若者たちもまた、行く手を阻む様々な社会的障害に苦しんでいる、そこに目を向け、この障害を取り除くことに挑戦して欲しかった。

 そうすれば、人が求める新しい文学創造の「宝物」をそこに見つけ出せたかもしれない。 生前、君自身が言ったように時代が求める文学、その価値とはそういうものだから・・・。

 もしかしたら「山の彼方の空遠く」で始まるカール・ブッセの詩の意味も、そこにあるのかもしれない。

 人間は、「社会的諸関係の総体」(マルクス)であるから、人の幸せは、社会歴をもつ彼と彼の周りの身近な状況の中に存在する。しかし、その身近にある現実は、苦悩や悲しみが多く、そこに見出すのには難しさがある。そんな環境の下では、幸せは遠い存在となり、憧れとか願望として探し求めることになる。こうした現実と願望の乖離がカール・ブッセの詩の背景にある。
 君は、そこに挑戦しようとした。君が父に感想を求めた作品―青年たちが行なった集会とデモ行進の意味を問う会話―は、自らを社会の主人公として、不条理に対する異議の申し立て、或いは、諸々の要求の実現のためのその行動は、「社会の深部の力」(マルクス)、「(神の)見えざる手」(アダム・スミス)に深く関係している。
 それは、社会現象の基底で働いているところの法則的な力、或いは事物の矛盾を解決する力の働き等をさす言葉である。それは人々の行動を、社会そのものが促している力といえ、人々の生き方、一つのドラマとなってゆく。

 長い時の流れで見れば、歴史は民衆によって動かされ、決められる。この過程においては節々に時間が費やされ、また、ジグザグもあり、さまざまな犠牲も生まれ、時には血も流される。だが、最終的には民衆の意志と力に従わざるを得ない。これに反する歴史的事実は一つもなかった。

 そうした社会的事象を創作に取り込んだ感性は、とても素晴らしい。ヨーロッパの「怒れる若者たち」の行動に比べて、日本の若者はおとなしく、「無気力」と云われたりする。果たしてそうなのか、それは表面的に過ぎないのではないか。権力の思い通りに操れると思うほど彼らはひ弱でなく、また、甘くもない。君の作品もそこを問うていた。
 
 君は、かって「お父さんには、私の作品は理解できない」と云ったことがある。父としてのその答えは、残念だが今しか言う機会がない。

 君の現実との格闘は、今、ここに終わった。そこで君は負けたのか。それとも生きとし生ける人間の、その成功を支え、実らせることが、日本国憲法にうたわれた理念であるといするなら、それができないこの社会の在り方そのものが、すでに生命力を失いつつあるのか。
 ならば、閉塞状況だといわれて久しいこの社会そのものを、変えねばなるまい。
 君は、そんな宿題を残して逝った。

 

 

2  メッセージ

 

 親として出来れば触れたくない問題―彼の最後の姿を言わなくてはならない。それは、自死の方法にまつわるものである。

 その日、警察の検死が終わったあと、私は、恵二の身体を整えた。その時に分かったことであるが、両手とも指の第一関節が内側に曲がり、指先は、十指とも強い打ち身のときに現れる蒼ずんだ症状とまったく同じで蒼く、そして硬直化していた。
 これは、力を入れて出血を押さえ込んだことによるもので、その一点に渾身の力をかけたことがわかる。それがタンポナーゼという心臓圧迫を起こし、死因となった。

 ずっと後になって、自刃をシミュレーションしてみた。アインシュタインも使った思考実験(演繹推論)である。私なら、傷口を手のひらで押さえたのではないか。こんなとき、平静でいられるわけがないのだから、反射的な行動としてそれが普通だと思った。
 だとすれば抑える力が弱く、ベッドの上は、血の海になるはずだ。しかし、事実はほとんど汚れていなかった。自刃の方法についての予備的知識と事に当たっての冷静さがなければならないことになる。そうしたことをすべて踏まえたうえでの決行ではなかったか?

 「お前にそのような意志の強さ、苦痛に耐える力があったのか! 死と云うただ一つの目的のために・・・、それは、余りにもいたわしい。命はテストするものではなく、二つとないのに・・・」

 これまで、恵二に対する漠然としていたもの、彼が備えていた力が、はっきりとした姿で見えてきた。“時すでに遅し”だが・・・。

 「引きこもり」を起こしたとき、カウンセラーの先生から受容、共感、導きの3つの段階における処方を教えられた。そのときは「受容」が一番難しく、「導き」は多易いと思っていた。
 振り返ってみれば難しかったのは「導き」であった。それが事実として目の前に突きつけられたのである。

「あのさぁ−」東京弁が混じって、人懐っこく話しかけてくる彼の姿は、いまや追憶の中にのみ存在することとなった。

ある朝、日が昇り始めたとき、私の心にテネシーワルツが泉のように湧いて出た。なぜか?意味・対象が違うこの歌が・・・。おそらくそれを超えたもの―失ったものへの哀愁―がそこにあって、私の心を捉えたのかもしれない。

 静かに流れる美しいメロディーが、傷ついた私の心を包んだ。

 なぜ?を求めてきた私の作業は、もう終わりに近い。遺品の整理に当たったとき、伝言の張り紙にハッとし、釘付けになった。それは、彼の部屋のドアに張られていたもので「お母さんは入ってはダメ。 お父−さんを呼んで来て」である。
 清書された遺書とは違って、
文字がすごく乱れている。

 また、この「−」は筆跡からみて、いったん書いた後で、付け加えたものであることがわかる。「お父−さん」の一語に、なにかのメッセージを込めたのだろか?

この張り紙は、自死を知らせるためのものであることに違いはない。そこでの「お父−さん」は、“さようなら”といっているように伝わってくる。
 だが、そのとき思いもよらぬことが浮かんだ。自死を決行する直前、助けを求める心の動きがあったのではないか・・・。「本当は、死にたくない」という、救いを求める最後の叫びのようにも受け取れる。
 誰もいない家の中で、遺書とともにこれを書いた姿を目の当たりに見るようだった。

「許してくれ・・・、すべてが遅かった。一緒に暮らしていながら、なんでこんなことに・・・」

涙が(こぼ)れ落ちるのをどうすることも出来ない。
 恵二には、私の涙では測れない人生の辛さがあったのだ。




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