第二章       自立

 

  なぜを問う

 

 恵二の「お別れ会」を開いたとき、正史が「インターネットで調べた」といって1冊の本を持ってきた。カーラ・ファイン著『さよならも言わずに逝ったあなたへ』(扶桑社)である。
 医者で、学会でも注目される研究者として、成功を収めつつあった夫の突然の自殺、その衝撃や悲しみといかに対処し、立ち直っていったかを綴ったものである。
 この本の特徴は著者自身の体験の上に、全米の自死遺族
100人の手記を重ね合わせ、自死遺族が抱える問題に迫ろうとする異色の作品である。

著書でカーラ・ファインはいくつかの問題を提出している。著者の意を汲みながら、それを私なりに列挙すれば、次のようなものであった。

1、夫や妻、そしてわが子、また、兄弟などの自死に対して“なぜ”というのは最初に出てくる問いである。そして、その原因がよくわからないまま、精神的にさまよう。

2、ついで、そんなに悩み、苦しんでいたのなら、どうして助けを求めてくれなかったのかという思いである。そして、さよならも言わずに逝ったことへの口惜しさと無力感にとらわれる

3、その結果から生まれる自責の念である。もし、私があの時こうしてあげたらなどと、思い出しては自分を責め、涙があふれ、悲しみに沈む。

4、さらに過酷なのは世間の冷たい目である。直接に何も言われなくともよそよそしさや非難とも取れる気配を意識してしまう。これらの無言の責めは、それを体験した者でないとわからない。

5、最後は、打ちひしがれた心の傷を(いや)し、立ち直る難しさである。「時が解決する」と人は言うが、故人に対する想いは時とともに深まり、時が良薬になるとは必ずしも言えない。自力で立ち直るには困難が多く、友人やセラピーなどの社会のセフティーネットが欠かせない。

以上のことは、私たちが遭遇したことと共通する。
 恵二に対し「なぜ死んだ」という問いの最初の難問は、彼の遺書と死に際して彼自身が取った措置である。
 遺書は「初めから居なかったことにしてください」、「私が持っていたものは全部捨ててくださいね」、「余計な詮索は一切お断りです」と述べ、本は回収業者へ、ゲームソフトは分別収集の燃やさないごみへ、テレビ、DVDも捨てるようにと細かく記した後、「私のパソコンはデーターを消してから壊しました」と書かれている。
 また、シュレッターで裁断されたものは、スーパーマーケットのレジ袋に詰め込まれ、
30袋ほどが置かれていた。つまり、生前の自己に関する記録、作品のうち、本人が所持するものはすべて処分されたことになる。

私たちは、なぜ自死したのかそれを知る手がかりをほとんどなくし、そのことが余計に心を整理のつかないものにしていた。
 恵二が「余計な詮索は一切お断りです」と親の中途半端な理解を拒否し、「初めから居なかったことにして下さい」といっているのは、単純明快な始末の仕方かもしれない。
 「あいつらしい」と思いながらも、しかし、親には親の生涯があるのだから、しかも私たちにとっては生涯最大の事件なのだから、その前に立ちすくむことも、そこから逃れることもできないのである。

遺書を前に長い時間がたった後、一つのことに気がついた。それは恵二が消したくとも消せないもの、つまり本人の生い立ちと親・兄弟、社会とのさまざまな関わりであり、そこに残る記録(記憶)である。
 そこを探ることによって恵二が何を考え、求め、努力してきたか、その輪郭がわかるのではないか? 
 これは、ノンフィクション作家の手法と似ている。事実を追いつつ、しかし、解明(?)のため、イマジネーションが入るのは避けられないかもしれない。

 

 

1、 最初の世界

 

二男・恵二が生まれたのは、1972年であった。団塊ジュニアと同じ世代である。
 働く女性と共働き家庭が増え、保育要求は切実だった。当時、「(郵便)ポストの数ほど保育所を」のスローガンを掲げたお母さんたちの運動が起こり、全国的規模で広がった。各地で新しい公立保育所が建設されていった。

私たちが住むY市においても保育所の要求は切実であった。が、長男・正史が生まれたときはまだ貧弱だった。
 個人の経営する託児所も細々と、しかし、親にとっては頼るべきところとして存在していた。
 正史はキリスト教教会関係の託児所にお世話になった。勤務の関係上、朝は私がベビーカーで送り届け、夕方は妻が迎えに行くというパターンである。
 同時に、公立保育所建設運動の高まりに私たちも参加していた。そして恵二が生まれた年、近くに保育所ができた。
 そこには、はじけるような明るさがあった。恵二は、0歳から入所できた。

だが、父母の熱心な運動が実ったという親の感覚と施設の管理に重きを置く保育所側の考えには大きな隔たりがあった。
 それは誰も好むところではなかったが、やがて紛争に発展してゆく。保護者会と保育所の対立、保母(当時の呼称)の中での考え方の相違と分裂、それは頂点に達した。
 所側との話し合いがうまくいかず、たまりかねた保護者会は、自分たちの要求と所の態度を非難した「壁新聞」を保育所玄関脇の塀に貼り出した。
 保護者会と保育所との対立は最悪の事態になったのである。保護者会からは、所との話し合いの席に参加するようたびたびの要請を受け、参加した。
 恵二を受けもつクラスの担当保母は、所側の強硬派に属し、父母に対してはむき出しの態度をとることもあった。こうして園児は不幸にも、この紛争の渦中に置かれることになった。
 恵二が生まれて最初に遭遇したのがこの社会的事件である。所長が転任し、表面上は収束した。

私は、保育所の運営・行事そのものには、多忙なこともあってしだいに遠ざかっていた。
 卒園後のある時、こんな話が耳に入った。恵二が保母にいじめられていた。おやつの時、皿にネジを入れて置き、口に入れるのを試す、節分の豆まきや“鬼ごっこ”の遊びのとき、意図的に鬼にし、園児から孤立するようにされていた、お昼寝の時間には、目に色セロハンを貼り付けて寝さす、などである。
 私は、怒りで身体が震えた。とくに、目に色セロハンを貼り付けて眠らせるなどは、もし、地震など突発的な出来事が起こり、所内が混乱したとき、目隠しの状態でどうなるのか、まったく度を越している。
 これは
1才前後の時なので、私たちには、この事実を確かめることが出来ず、風聞として扱わざるを得なかった。

これが事実なら、保母は、母となる人たちである。その時、わが子がこのような状態に置かれたとしたら、どう思うのだろうか・・・。
 人は、自分がした事を隠すことは出来る。だが、心の中から消し去ることは出来ない。その後ろめたさは、生涯付きまとうことだろう。 一度の人生だから、心は大切にしたい・・・。
「三つ子の魂百まで」といわれる精神形成期の出来事であった。

 

2、 親離れ

 

45才時の園児生活は穏やかなものとなり、無事卒園した。
 小学校は新しい世界への出発である。しかし、恵二にとっては生活環境の変化で、なじめぬところがあった。学校まで連れて行くのは私の仕事であるが、入学して間もないころのことである。
 校門に立って生徒を迎える女教師に挨拶をし、恵二を見送った。私が自転車で駅に向かって走り始めたとき、恵二が駆け寄ってきた。父と一緒にいるというのである。女教師が追っかけてきた。
 私は、学校には行かなければならないと話したが駄々をこね、しゃがみこんだ。それは甘えのように見えた。
 発達が遅れていたのか、幼児語がまだ残っているといわれていたので、早く親離れをさせなければならなかった。そのためには、まず親が子離れをしなくてはならない。

 私に記憶はあまりないが、幼いころ母から、お前は、いたずらで怪我をしても親に面倒をかけず、自分で手当てをしていた、とよくいわれた。
 そんなときの話として、長唄『連獅子』にある、ライオンがなぜ百獣の王になれるかといえば、生まれたとき千尋の谷底に突き落とす(草原の動物なのだが?)、そこを自分の力で這いあがってくる、だから百獣の王に成れるのだと聞かされた。また、石川五右衛門は泥棒だが、日本一だった=これは、半端な人間になるなというたとえ話。そして、孟母
三遷(さんせん)の教えや人生は重い荷物を背負って坂道を行くがごとという家康の人生などもよく聞かされた。

 日中戦争から太平洋戦争、そして敗戦にいたる暗くて、つらい思いが長く続いた時代であったから、私には親が子に語る童話などはなかった。
 母はどもに無理を強いることは決してしなかったが、心の持ちようを教えていた。私はその影響を強く受け、育った だから恵二には強くなってほしいという迫り方をして頬を軽くたたいた。恵二は驚いた顔で私を見た。

「おお、可哀そうに!」

先生はすぐさま間に入り、恵二を抱きしめた。そして、わが子をいたわるように立たせた。

「先生、お願いします」

しなやかな優しさをもつこの先生の下でなら、学校が苦になることはないだろう。親の足りないところを補っていただいた。
 恵二は、べそを掻いて、先生の後についていった。それ以後、こうした駄々っ子ぶりは二度と繰り返さなかった。

学校では、やんちゃにはしゃぐ兄とは違って、運動は不得手で、おっとりしていた。しかし、このころから彼独自の自我の発達が芽生えてきた。 小学3年のときであった。「かぎっ子」であったから、放課後対策として学校内にもうけられていた学童保育ですごしていた。
 母親が退勤するとその足で迎えに行く。ある時、担任のN先生が待ち受けていて、学校で起きたある事を話した。
 給食のときのこと、先生がいつものように食事の注意をしていた。ほとんどの生徒は食べ終わるとさっさと片付け、運動場に出たりして、遊ぶ。しかし恵二は自分のペースで食べ、いつも遅くなっている。

先生は、給食の管理もあって早く食べるよう促していた。この日は抵抗して食膳には一切手をつけず、座ったままでいた。
 それを見て「どうしたん?」と聞いた。
 恵二は、先生の言うようには食べられないと受け付けなかった。それがずっと続いて給食の時間が過ぎた。その後も椅子に座ったままで、午後の授業が終わるまで、そこから動かなかった。
 放課後になって、心配した先生は、学童保育の指導員に事情を知らせた。恵二は、おやつに出されるお菓子を普段以上にもらって食べ、寝転んでいた。
 先生は、これらの経過をやや興奮気味に話した。
 妻から話を聞いた私は、苦笑した。どこか私と似ている。 N先生はベテラン女教師であったが、管理に重きを置いたことから生じる摩擦現象であった。

恵二のこの傾向は、時として親との間でも起こる。
 私たちは、休暇が取れると家族そろってアウトドァ、とりわけ川へ遊びに行くことが多い。
 小学
5年のころ、金剛山の中腹にある千早川マス釣り場に行った。このとき、恵二はニジマスを2尾釣って機嫌がよかった。まもなく釣り場の終了を知らせるサイレンが鳴った。
 恵二は、もう少し釣るといって聞かない。そこで管理人に事情を話し、お願いした。
 この間、私たちは、金剛山ロープウエイ乗り場までマイカーを走らせ、周辺の谷に生息するアマゴ(渓流魚)の様子を見に行った。あまり時間をおかずに釣り場まで戻ったが、恵二の姿が見えない。
 あわてて下り道を走った。とぼとぼと歩く姿が見えた。母親が降りて車に乗せた。
 その時、私をにらみつける妻の眼が今も印象に残っている。釣りのほうは糸が木の枝にもつれてやめたそうである。

翌年の夏のこと、23日の計画で奈良県にある上北山川・池原ダムと十津川上流・(こう)(せこ)(がわ)渓谷キャンプ場に行った。
 第
1
日目は上北山川・池原ダムにある野外施設で泊り、2日目は川迫川キャンプ場で一泊する計画だった。
 池原ダムでは正史が主役で、ボートに乗ってルアー釣りをした。恵二もライフジャケットを着けるとそこに同乗し、遊んだ。
 2日目の川迫川キャンプ場は、西原から行者還トンネルを越える。そこは秘境だった。
 管理人から、夜は狐が出るので食べ物などは外に置かないように注意された。そんな自然に、私はわくわくしていたが、恵二はいやだったようである。

 連続するヘヤピンカーブの山道で車酔いをしていたこともあって、バンガローについてまもなく家に帰ると言い出した。
 いまさらという思いもあったので、何とかなだめようとした。言い出したら聞かないのが恵二である。
 私は困った末、「帰りたいのなら、自分
1人で帰ったらどうか」といった。すると彼は靴を履き、少しばかり身支度をしてバンガロ―を出た。
 私は高をくくっていた。地理も知らない山中で、しかも日も暮れ始めているときに当てもなく歩くことになる。だから、すぐにあきらめてキャンプ村に帰ってくるだろうと思っていたからである。
 しかしである。真っ暗になっても帰ってこない。このときもあわてて車を走らせた。妻は私に対し「馬鹿なことを言うからだ」と怒っている。
 2キロほどのところに、懐中電灯で道を照らして歩く恵二がいた。恵二は母に抱きしめられ、「キャンプ場に帰ろう」という言葉に素直に従った。

 こんなとき恵二は泣いたりはしない。いま、自分のする行動が未知の世界に入るという、怖さはないのだろうか?
 それは、親が考える「子どもの世界」の常識を超えていた。 私たちがよく理解できない一面であるが、やはりそこには親が立てた計画に沿って事を進めるという、子どもの意思や望み抜きの管理傾向が強く現れたことは否めない。

 

3、 友だち

 

桜の花が咲くころ、恵二が「自転車に乗りたい」と言い出した。兄の自転車を借りて、近くにある中学校の広場で練習をした。
 恵二がハンドルを持ちペタルを踏むとき、私が後ろの荷台を持って支え、前に押し出した。なかなか思うようにならなかったが、一度うまく走り出し、
10mほど乗れた。もう一度同じようにしたが、呼吸が合わないのか失敗した。
 恵二は「さっきのように押して」という。私は同じようにしているつもりだが、タイミングが取れなくて失敗を繰り返した。そうこうするうちに、恵二は「もうやめた」と投げ出してしまった。

初夏が訪れた。同級生のY君が「すぐ乗れるようになるよ」といったその一言が再び恵二をやる気にさせた。
 Y君に教えてもらった。本当になんでもないことのように乗り回すことができた。友達の力がいかに大切であるかを教えてくれた一事だった。

 この
Y君に対して、担任教師は付き合わないほうがよいといってきた。理由は、家庭の環境が不安定だという。詳しいことはわからない。あえて聞くこともしなかった。

 この年頃の子どもたちは、仲良しグループをつくって遊ぶ。その集団の中に力関係が生まれ、時にはいじめにもつながる。
 Y君は体格が頑丈で、直情的な感じの子だったから、先生は、いじめの発生を心配したのだろう。実際、その現場を見たのかもしれない。
 当時、「プロレスごっこ」がはやっていた。恵二は、家でもレスリングの「00締め」などよく話していたから、Y君らとの「プロレスごっこ」で、形の上では、いじめられている格好になっていたのかもしれない。

 しかし、不安定な家庭環境にあるというなら、そのY君にこそ手を差し伸べるべきではないだろうか。Y君は休日も遊びに来て、時には自転車の遠乗りをした。大和川や野池にも行き、魚釣りをしていた。
 遊びの主導権はY君にあったが、親としては自然のままに任せるより他はなかった。この態度は、間違っていなかったと今でも思っている。私の子どもの頃の「冒険ぶり」は、この程度のものではなかったから…。

このころから、恵二の内向的な性格がはっきりしてきた。プラモデルに熱中した。
 当時、人気のあったガンダム戦士など接着剤を使った細かな作業を手際よくこなしていた。だから、いつも親にねだるのはお菓子ではなくて、プラモデルだった。
 心配があった。プラモデルは
1人でできる遊びだから、友だちとの人間関係が疎遠になる。実際、当時は、そうしたことが指摘されていた。青少年期にどれだけの友だちがいるかは、彼らが自立してゆく大事な条件といえる。そこに一つの問題が生じていた。

一方、学校生活でも問題が起こってきた。授業になじめなくなってきた。いわゆる不登校の前兆である。
 朝、家からの登校準備がもたもたし、今度は、親から時間に遅れないよう急かされるようになった。

 56年生になると宿題が極端に増えた。そして宿題ができていないと登校を渋るようになった。

 宿題が多いのは担任教師の考え方も大きく作用している。同世代は、団塊ジュニアだから、進学にしても、就職にしても同世代間の競争は激しくなる。これに勝ち抜かねば将来は厳しい。そのために今からしっかり勉強しなくてはならない。宿題はそこから位置づけられていた。

 考え方が基礎学力を身につけるというよりも、現実への対応である。私たちもこの見方、考え方には多少、同調するところがあった。
 恵二は、塾には行かなかったし、宿題も苦痛であった。後になって知ったことだが、このクラスでは宿題ができないとその生徒の名前を黒板に書き、提出されると消される。教育的措置としてとられたことだが、厭な言葉でいえば「さらし者」にされたことと同じである。

 そこからつまずきが始まった。つまずきの根本に存在したものは、学校で決められたことは守るという規範が、強迫観念として生まれたことであった。

ある時、担任の先生をどう思うか聞いてみた。

「授業中でも、自分の成功話をよくしているよ。がんばったら成功するから、がんばれと・・・」

さめた眼で見ていた。やがてクラスが荒れてきた。「授業が成り立たないらしい」父母の間でも噂になり、不安が広がった。

 教室が荒れるとしばらくは収拾がつかない。それは教育現場の言葉でいえば学級経営の失敗であるが、より本質的には「もの言わぬ生徒」たちの「反乱」であった。教育は、人を育てることであるから、教師にそこから学びとることを教えている。

担任は、体育系の男性教師で、学校外では少年野球を指導し、一般に言われる熱血先生である。父母にとっては「先生!」と気軽に声をかけられる存在で、人気もあった。
 恵二も少年野球に誘われ、ユニホームも貸してもらって参加したことがある。よく晴れた日曜日だった。しかし、ベンチでの観戦や玉拾いしか出番はない。出かけるときは意気揚々としていたが、帰りはしょんぼりとしていた。
 もともと運動は苦手なこともあって、少年野球はこのとき限りになってしまった。

だが、プロ野球には関心をもった。彼はジャイアンツフアンであった。しかし級友のほとんどは、大阪の特殊性を反映してか・・・?タイガースフアンで占められ、プロ野球が話題になると少数派として孤塁を守っていた。もちろん両親と兄もタイガースフアンである。一家そろって甲子園球場にも行った。あの7回裏、名物イベントの風船もそれはそれとして一緒に飛ばしていた。
 しばらくするとヤクルトフアンに変わった。その理由は聞かなかったが、好きな選手がいたのか、応援をしていた。そんなことで、彼と周りとの関係では、常に少数派であった。

 世間では、少数派は好まれない場合がある。しかし、そこに問題があるというわけではない。世に功績を残した人々は、とりわけ学問の世界では、例外なく最初は少数派だった。

 もうひとつ例をあげれば、フランスに生まれ、絵画芸術の革命的転換をもたらした流派-その名称のヒントを与えたクロード・モネらをはじめとする印象派の作品に対し、伝統を持つ美術アカデミーは、「酷評」をもって応対した。が、近代を見る確かな目がどちらにあったかは、改めて言うまでもない。

 現代の特徴の一つが多様性にある今、少数意見・少数の好みは、それぞれの価値、生命力をもっていて貴重といえる。だが、恵二の場合は少し違っていて、孤立感と云う精神的圧迫を受ける可能性はあった。

恵二が登校を渋るようになってからは、先生の負担が急増した。
 私たちは共働きであったから、恵二が登校しないときは、学校に様子を伝えて出勤した。
 学校側では
1時限授業が終わると担任が自転車で迎えに来た。そんな時、恵二はあまり嫌がらず、先生の言うとおりに登校した。
 こうしたことが週に
12回あった。これが常態化すると、登校を誘うクラスメイトを決め、毎朝、雨の日も風の日も欠かすことなく迎えに来られた。

そうした中で修学旅行がやってきた。行き先は伊勢・鳥羽である。
 恵二がそこに参加するかどうかは微妙だった。学校も大変心配され、学校での集合時間ぎりぎりまで努力するよう要請された。。
 修学旅行には全員参加で、子どもたちに思い出をつくりたいという願いと緊張が伝わってきた。

当日の朝、やはり行かないと渋っていた。服は、普段着のままである。先生から状況を問い合わせる電話がかかってきた。

「様子はどうでしょうか」

「行くとは言わないのですが・・・」

「これから学校を出発します。駅での発車時間まで努力してください」

恵二は、不安な顔で電話のやり取りを聞いていた。私たちはもう無理だと判断していた。
 私は、駅で待つ先生たちに不参加を伝えるため、車で家を出た。

「いやなら行かなくてもいいよ。伊勢神宮へはお母さんが連れて行ってあげる」

妻は、涙を浮かべた。
 すると突然だった。恵二が「行く」と言い出した。多分、自分が行かないことで親を悲しませていると思ったのであろう。 
 出発までもう時間がない。妻は、普段着のままの恵二を自転車に乗せ、走った。必死だった。
10分ほどの距離だったので何とか間に合い、ほっと胸をなでおろした。

恵二は、修学旅行から帰るとお土産だといって、塗り箸を差し出した。

「お土産を買って帰れと、先生に言われたんで・・・」

「それ、恵君が選んだの?」

「そうだよ」

 「ありがとう。恵君が選んだお土産は値打ちがあるわ!」

恵二は、にっこりと微笑んだ。それが彼のもともとの姿だった。

しかし、不登校にまつわる精神的不安は相変わらずだった。体調も崩れてきた。皮膚にアトピー症状が現れた。また、スギ花粉への反応がひどく、医者通いが始まった。
  6年の3学期ごろには不眠症に陥った。病院で診てもらっていたが、ひどいときには薬を飲みなさいと、作用の軽い睡眠導入剤をもらった。時々、服用していた。こうした症状に苦しんだ彼が、勉学に集中できないのはやむをえないことであった。

小学校も卒業し、春休みに入ったときだった。恵二が遊びから帰ってきた。

「もう治った! 薬はいらんよ」

それまでのことがウソのように、元気な声で言った。私はとっさのことなので「治った」という言葉に戸惑った。

「でも、また、調子が悪くなるかもわからんし、そのときは・・・」

恵二の顔が少し曇った。私の一言が不安を与えたようだ。
「しまった」と思ったが、修正する言葉が浮かばなかった。

翌日、数人の友だちと一緒に中学校のグランドへ遊びに行った。桜の開花が告げられる暖かい日だった。

 

4、  中学校

 

T中学校に入って、一回り大きくなったように思えた。兄は中学3年生。高校進学を準備する年であった。
 しかし、勉学に励むより、体操クラブに熱中し、また、休日ともなれば、友だちとダム湖や川でブラックバスや鯉などの釣りを楽しんでいた。
 兄弟がともに遊び、過ごすことは少なくなった。

T中学校は、生徒数が1千人を超える過大校である。この地域は、高度成長期に、それまでの田園風景が失われ、田畑は住宅地となり、子どもたちが増えた。
 子どもの急増に対応して中学校が新設された。校区には同和地域もあって、当時の乱脈な同和行政が絡み、校舎は豪勢なものだった。
 広い校庭、大きな屋内体育館、設備の整った校舎・特別教室、そして同和加配という教員の配置-通常は
40人学級に1人の担任だが、ここでは学年毎にある数の副担任がついている。

そんな中学に入学したとき、恵二の精神的状態は、降ったり止んだりの空模様の中、時々晴れ間を見せる天気に似ていた。
 私たちの関心は、どんな先生が担任になるのだろうということだった。 入学式で知らされたのは女性の体育教師だった。てきぱきとした好感のもてる先生だが、恵二にとってはどうなのか、心配もあった。
 小学校には、中学校に申し送りをしてくださるよう、お願いをしていた。
 学校側も、親しくしていた友だちとクラスを組むなど、配慮をされた。

恵二は、普通に登校していた。しかし、中学校も小学校とあまり変わらないもので、そこに新しいものを見出せなかったのか、だんだんと気分が後退しはじめ、不登校の日が増えてきた。
 担任のM先生は、教師としての自負もあって、何とかよくしたいと考えていた。そして、親との対話にも努力していた。
 ある日、「お話がしたい」といって家にこられた。恵二は、私の横に黙って座っていた。様子から見てM先生に心を開いていないことがわかる。 先生には、勉学に励むことの意義を話して聞かそうという意図がうかがえる。それは親に対しても言いたいことであった。それを直接、言う訳にも行かないので、恵二に向かっている。

「もっと、自分を大事にしなさい」

勉強は、誰のためでもない、自分のためだ。M先生はそこを恵二にわからせたかった。しかし、話が一方通行となり、会話が作り出せない。

「勉強がいやだったら、こんなものいらないよ」

先生は、恵二のカバンから教科書やノートを取り出し、真上に放り上げた。その一部が自分の肩の上にも落ちた。
 教師としての体面、外聞をも省みず、自分の気持ちをぶつけ、この硬いカラを打ち破ろうとしたのだろうか?

恵二は、その気迫に呑まれたようで、しかし、うつむいたままだった。 このことがその後、どのような影響を与えたかはわからない。学校へは行きたい、しかし行けない。そこに苦しみがある。また、行けないこと自体を気にし、それがまた苦しみとなっている。つまり二重の苦しみにとらわれている。その解決こそが大事だった。
 だが多くの場合、「話して、わからせる」というやり方になっている。それは単なる説教に過ぎなかった。先生は、肩の力を落とした。

一学期もいくらか過ぎた頃、家庭訪問があった。M先生は、学校での恵二の状況を伝えてくださった。

 「小学校の当時の担任に連絡し、話を聞きました。中学校での苦労をいろいろ話すと、そんなのは生易しいものだといわれました」

 申し訳ないと思いながら聞いていた。

 「クラスで、自分の尊敬する人は誰か、将来は何になりたいかを聞いてみました。恵二君は、お父さんといいました。最近、尊敬する人に父親を挙げる子どもはいません。珍しいですね。将来なりたいのは、共産党委員長だといっています」

「えっ、そんなことをいっていますか。別に、教えたということはないのですが・・・」

私は、意外な話を聞かされたとの思いだった。

また、先生は、親に聞いておきたいことがあった。学校をずる休みして問題を起こす生徒もいることから、不登校が非行化につながらないかという心配である。
 私は、恵二の倫理観について例を挙げて説明した。

「私がマイカーを運転するとき、恵二は、制限速度を超えているととがめます。また、路上駐車も容認しません。
 ある日曜日、Sデパートに買い物に出かけましたが、駐車場は満車で、待機する車が長い列をつくっていました。私は、近くの小さな公園の横に回り、そこに停めようとしましたが、恵二はダメだと厳しい口調で言い、車から降りません。
“待っていたら時間がかかるよ”と言ったら、“そうしろ”とたしなめられました。
 仕方なく駐車待ちの車の最後尾に回り、
1時間あまり待ちました。
 また、兄との間ではこんなこともありました。兄が近くのホームセンターに買い物に行ったとき、レジでは、金の計算と代金を受け取る係、買い物を袋に入れて客に渡す係の
2人がいました。買った品物を袋に入れる係員が、次の客の品物を誤って正史の袋に入れてしまったのです。
 兄は、それを持ち帰り、“どうしようか”と思案していたのですが、恵二は、すぐに返すべきだと強く言って兄を批判しました。
 兄は、気づいたとき返すべきだったと非を認め、重い足を運びました。 これは、兄が自分の反省として私に報告してきたものです。もちろん、恵二は、このことを親に告げ口することはしませんでした。 恵二の倫理観はしっかりしています」

M先生はうなずいていた。実は、その時はまだ、そこに潜む別な意味の問題点を知ることは出来なかった。

そうこうするうちに、学校で対策のための懇談会が開かれた。そこには校長、生活指導担当教員、クラス担任のM先生、そして私たち父母である。
 いろいろと意見が交わされたが、これといった方策はなく、ありふれた内容で終わった。
 生活指導担当の教員は、私の教師イメージからは外れていて、子どものころはガキ大将(力があるが、情もある)だったのではないかと思わせる人物で、生徒の非行対策が似合いの方だった。
 (校舎のガラスが割られる。卒業生が暴走族となり、彼らが放課後、学校に来て後輩を集団に誘い込もうとする。万引きをする)といったことが社会に存在する。どの学校もその圏外にいることはできない。他の中学校で起こることはT中学校でも起こりうる。先生方も実に苦労が多かった。 そうした多忙な生活指導の時間を割いて参加され、恐縮した。
 T校長は、温厚だがしたたかで、且つ、ユニークな人物だった。彼についてはこんなエピソードがある。

恵二が保育所に通っていたころ、保護者会に気の合ったある高校の女教師がいた。彼女が妻に語ったところによるとその話が面白い。
 彼女の子どもが、このT中学に在籍している。担任教師にいろいろと意見を持っていて、話し合うがどうしても折り合わない。そこで校長にねじ込んだ。
 話を聞いた校長が言った。

「あなたは教師の立場から言っておられる。どうでしょう、親の立場から言ってみては・・・」

そこで彼女は、改めて担任と話し合い、親としての意見を思いのたけ言った。すると、話がかみ合ってきたというのである。

このエピソードには、次のことが関わっている。つまり、現場教師の自主性と責任感である。
 教育現場は、理屈で割り切れるほど単純ではない。「ユネスコ・教員の地位に関する勧告」では、「教育の進歩は、教育職員一般の資格および能力ならびに
個々の教員の人間的、教育的および技術的資質に大いに依存している」ことを指摘している。

 誰でも教師としての理念・自負を持ち、自己研鑽に努めている。
 そして受け持つ学年やクラスの生徒たちの現状(目の前にいるその子たち)と問題を踏まえて進める教師の活動に対し、他からの教育理論を振りかざした注文に、抵抗心が起こるのは当たり前のことであって、むしろそれがなくては困るのである。

 PTA活動の形骸化など課題は多いが、親の当たり前の要求を大事にし、それに応え、知・徳・体の発達をめざした教育活動を、親と共同して進めるところに本来の姿があるのである。当事者間で、その関係を理解してほしいというのがT校長の願いであった。
 教師と親とが共同して子どもの教育と成長に関わる、それが本来の姿である。だが、さまざまな理由によって歪められている。そこが今日の教育の危機の根本にある問題なのだと私は思った。と

学校との懇談の後、しばらくすると不登校問題をサポートするカウンセラーを紹介したいといってきた。

 大阪府の出先機関である府民センターの一室に「教育相談窓口」が設けられていた。当時、不登校問題は今日のような広がりを見せておらず、その意味でまだ初期段階であった。過大校であったT中学校でも
1学年に12名ほどの生徒が不登校で苦しんでいた。

 折から、メディアも学童の登校拒否問題を注目し始めたが、教育機関による対策のノウハウはほとんど確立していなかった,といってよかった。
もちろん今でも確たる対策(処方)は確立していない。

専門的なことはわからないが、私たちの勉強が始まった。関係文献を読み、体験談を聞き、また、不登校問題を研究する大学教授のもとにも足を運んだ。

 そこで得た私の知識は次のようなものだった。
 不登校、引きこもりは、少年期から思春期にいたる精神的不安定期に起こる
(つまず)き、あるいは不適応による障害とする見方が一般的であった。
 そこにいじめ、仲間はずれなどの対人関係が加わると複雑にこじれる。また、長く尾を引いていく。

 この時、親の理解と援助が重要である。「怠けている」、「甘えている」、「しっかりせよ」、「世間体が悪い」などというのは一方的、つ的外れ事態を悪化させる。一番苦しいのは本人であり、そして立ち直るのも本人である。自立する力をつけるサポートが親の役目である。

 したがってまず、親が変わらなければならない。親が変われば子どもも変わる。子どもの目線で子どもの苦しみを見つめ、共に考えることが親の出発点である。
 子どもの人生に親が望むレールを敷き、その上を歩ませようとするなどは改めなければならない。

 子どもは成長する力を彼自身の中に秘めている。また、男児の場合、小学
4
5年までは母親も対応できるが、高学年になるほど困難も多くなり、父親の役割が大きくなる。これらの知識をもって事態に当たることが、親の教育力である。

私には、悩みながらのジグザグな過程ではあったが、これらのことが次第に受け止められるようになった。
 しかし、直面する現実に対応するには、心構えだけでは不十分で、専門家の手助けが必要となる。学校が紹介されたカウンセラーには期待を寄せた。

 カウンセラーは、
40才代の男性で、物腰が柔らかく、落ち着いた対応をされた。私たちは、求めに応じて恵二の状況を説明した。彼は、あらかじめ学校からも聞いていたようで、大まかに問題をつかんでいた。

「基本方針を立てて取り組みます。しかし現実にはすべてを掌握しているわけではないので、取り組みつつ必要な修正をしていきます」

先入見を持たず、現実に対応して取り組む立場を説明した。その後、学校や放課後には家にも訪れ、恵二と直接触れ合うことを試みられた。
 また、児童相談所で、恵二本人と両親の診断テストをされるよう勧められた。
1学期末のことであった。

恵二に意向を聞いた。不安な顔を見せた。

「相談に行くんだよ。話を聞いてもらえば、学校に行けるようになるよ。どうしたらよいか知りたいよね」

「行けるようになるの!」

恵二は、淡い期待を見せた。それは「お医者さんに行く」という感覚と同じであった。

夏休みに入って数日後、カウンセラーから、診断テストの結果が伝えられてきた、との連絡があり、妻が聞きに行った。

テストは6種類であったが、診断結果・判定もそれに従っている。 その特徴を簡略に挙げると次のようなものだった。

 知能指数は普通であるが、身体の成長には遅れがあり、経験学習が少ない。絵を描くと木が細く不安定なものをもっている。指定画テストでは太陽が月になっている。これは希望がないことを示す。また池が
2つあり、これは母親的である。性格は内向的だが、情緒面は問題ない。
 親子関係では、母親の態度に消極的拒否が見られる。両親とも物分りがよすぎ、子どものレベルにしか立っていない。だから、わがままも出ている。
 総じていえば、生活能力面がかけている。親子のダイナミックなかかわりが必要である。

テストは、要するに、子どもの発達度と親子関係の調査に過ぎなかったが、そこでの問題点も浮き彫りにされた。

 妻は、子育て問題を友人と話し、助言を求めたりする。そのとき、「それ甘やかしではないの」とよくいわれる。この甘やかしといわれるのが悩みになっていた。「消極的拒否が見られる」は、その意識を反映したものである。
 また、「両親とも子どものレベルにしか立っていない」は、私が追い詰められる一言となった。
 恵二に対しては、「話を聞いてもらえれば、登校できるようになる」といったことは、結果として、彼の思いとは逆の方向に進んだ。

夏休みには、起床、食事、遊び、学習などを通して生活習慣を確立することが努力目標だった。とくに楽しい体験―恵二の好きなカブト虫取りやキャンプなど―を多くもつようにした。
 しかし、恵二には、山や海に行ったことも「しんどかった」という思い出にしかなっていなかった。

2学期が始まった。危うい状態の出発であった。最初の1週間は登校できなかった。2週目から先生が迎えにこられた。素直に行く日と嫌がる日が交互にあった。
 本人の成長・立ち直りには、長い時間を必要とする。しかし、登校は毎日のことであり、どうしてもそこに眼が奪われてしまう。

 あるとき、妻の友人から不登校問題解決の手引きとなる小冊子をもらった。それはある婦人団体が発行したもので、体験談を中心に不登校児をもつ親の悩みに応えた、当時としては数少ないテキストの一つであった。
 そこには注目される一つのヒントがあった。専門家の助言によるもので、自主登校が基本だが、強制的に登校させ、それが契機となって登校できるようになるのであれば、それも選択肢の一つだというものである。
 学校では副担任の
A先生が「参考文献がない」と嘆いておられた。そこでこの小冊子を贈呈した。

そうこうするうちに、連続して欠席させない対策として、カウンセラーより、強制登校が提案された。提案には、学校、親、カウンセラーの三者が一致した。
 それは次のように進行した。

1日目、朝、男性教師2人が車で迎えにこられた。
 恵二を半ば強制的に乗せ、私も同乗して学校に行った。だが、恵二は車から降りようとしない。降りても車のドアーにしがみついて嫌がった。  しかし、結局は力負けして従った。その悲しい顔には涙があふれていた。授業には
2時限目からの出席となった。下校したときは心身ともに疲れ果てていた。

2日目、前日と同じ状態だった。玄関までは出たが、迎えの車に乗ろうとしなかった。これではダメだと感じた。

「今日はやめましょう」

「いや、登校させましょう。中途半端にやめるのは・・・」

先生方は、登校させるという自分の仕事をしなければという顔であった。嫌がる恵二を抱きかかえ、車に乗せた。

学校に着いて車から降りるときの恵二の抵抗は、昨日にも増してすごかった。車のドアーにしがみついたその手のひらは、両手ともマメがつぶれたときのように皮がめくれ、血が滲んでいた。
 校舎の窓からは大勢の生徒が何事かと見ていた。こんなことになるとは思いもよらなかった。
 私は、その足で府民センターにいるカウンセラーを訪ね、状況を伝えた。

「そうですか。中止しましょう」

彼もまずいことになったと判断した。学校側もその後のケアに追われたようだった。
 私は、その日、下校後の恵二の顔を見るまでは気がかりだった。だが、彼の様子は前日よりも落ち着いていた。登校は気が重たいが、学校へは行かなければならないという意識はまだ消えていなかった。
 とはいえ、強制登校は、恵二の心に深い傷を与えた。後に、彼が「親と絶縁する」とした意識を持つ引き金となった。
 その
(とが)めは、親としての私たちが負うことになる。それはいまも、私のトラウマ(心的外傷)として残っている。

秋風がさわやかな頃、M先生に話を伺った。それによると緊張もだんだんと取れてきて、学校での表情は明るくなってきた。友達ともふざけあって、笑顔が見られるようになった、という。
 家庭でも変化があった。放課後は家に友達が来て、ファミコンゲームなどで遊んでいる。夜は就寝時間も早くなり、親に対しても、無理なことは言わなくなった。少しづつではあるが着実に立ち直ってきた。
 しかし、変わらないこともあった。登校準備が自分でできないこと。とくに宿題は気が重く、やる気がわかない。生活面では、偏食があり、朝食をとらないこともある。このようなことで、一日のうち、朝の状態が一番よくなかった。

ある朝、母親がたしなめて言った。

「そんなんだったら、1学期と同じようになるよ」

「かまわない・・・」

「でも、就職もできなくなるよ」

恵二は、ハッとした顔になった。
 これは意外な反応のように思えるが、理由はあった。少年の目から大人を見れば、大人は自分で物事を決め、動く、それは自由として映る。
 彼の心には、学校を終えると働きに出られる。そうなれば、自分の思い通りになるという思いがあった。現在の閉じ込められた空間から解放されることへの憧れとしてなのか・・・!

木枯らしが吹くころになった。体操の時間に学校の周りを3周するランニングがおこなわれた。
 大半の生徒が回り終えたころ、恵二はまだ
2周したところだった。走り方も疲れがひどく現れていた。
 M先生は、中止するように言った。しかし、恵二は最後まで走るといって続けた。
 回り終えたときは、ふらふらした状況で、まともに歩けなかった。このがんばりように先生も驚いたようだった。普段の恵二からすれば想像もつかないことである。

M先生は、この出来事を伝えてきた。
 オリンピックマラソンで、女性ランナーが体に故障を起こしたにもかかわらず、棄権せず、最後まで走りぬいたことが話題になり、感動を呼んだことがあった。恵二のがんばりはそれを連想させるものだった。
 この話を聞いた私も心の中では拍手を送りたかった。そこには、必死にやり遂げようとする姿があったからである。
 しかし、実際には、このことが恵二を苦しめていた。学校で決められたことを守り、実行するという当然のことが呪縛になっている。
 ある意味で恵二の生き方は、これとの戦いであり、そこから解放されることであった。それが
陶冶(とうや)―発達能力の獲得とどう関係するのか、私には、よく分からないが・・・。
 恵二の場合、クラスメイトがやることは自分もやるべき、というこの意識と努力は自分に対立するものとして、強制として働くのである。だから、この反動が来るだろうと心配した。 不登校の意味は、精神的疲労を癒し、和らげる防御に他ならないから、自己保存のネガティブ対応であった。恵二の体育におけるこの頑張りが一度のトライに終わったのは当然の成り行きだった。

 2年生に進級して間もないころ、副担任の先生から授業の遅れを取り戻すために、家庭教師をつけてはどうかとの話があった。
 不登校を繰り返していたために、授業について行けないことは明らかだった。
 以前、担任にこの不安を述べたことがある。彼女はそれに答えて説明した。

「修得すべき教科について、3回教えます。最初の講義でほぼ3分の1の生徒は理解します。2回目で3分の2ほどです。残りの3分の1ほどの生徒は3回目で覚えます。大体、そのようなやり方で授業を進めています」

「なるほど、そうすると恵二も1回は聞けることになるわけですね」

 私の不安は少しやわらいだ。ある時、大阪市内で教鞭をとる知人に、この話をすると彼は言った。

「学習指導要領では、3回も教えるなどそんな余裕はとてもありません。ついて行けない生徒には、半ば目をつぶって先に進まざるを得ない、というのが本当のところです」

これでは建前と実際が違いすぎる。この隙間(といっても天地の開きがある)を解消するために、副担任はそっと家庭教師を勧めたのである。

「そんな人!何方かいるのでしょうか」

「えー、心当たりはあります」

早速、無理を願った。6年ほど年上の大学生で「兄貴」分に当たり、恵二にとってはよい環境が出来た。週1回、親身になって教えてくださった。

こうして中学23年は、ジグザグな過程をたどりながらも少しずつ成長していった。
 
3年生の終わりに、家庭教師から感想が伝えられた。

「もう、お会いして話す機会はないと思いますので・・・。これからの進路をどう決めていくかは、本人の望むところに任せたほうがよいと思います。ですけど、過度の望みを持ち、そのことによって重い荷物を背負うことになるなら、それは、避けたほうがよいのではないでしょうか」

「お話はよくわかります。私たちも、まったく同じ考えです」

「そうですよね」

 彼は、念を押すように繰り返した。

 高校受験では、公立、私立を受け、両方とも合格した。
 公立高校は、新設間もない学校で、
T中学校と距離も近く、提携校として中学校側も力を入れ、そこへの受験、進学を奨励していた。
 合否発表の日、担任は恵二ともう一人の生徒に対し、そろって見に行くよう指示した。この二人は遊び友達で、我が家にも時たま来ていた。先生は、そこに着目したのか?ともかく複数で行かせた。
 結果、同行した級友の
I君は不合格だった。彼ら二人は学校に戻り、担任に報告した。

I君は涙声で言った。

「先生・・・僕、行くところがない・・・」

時代は、すでに高校進学は当たり前となっていた。“15の春は泣かせない”というのは、教育史にも残る名言だったが、彼にとっては、そこにある精神は、幻となり、悲しみの春となった。
 
I君は純朴で、その笑顔がとても愛らしい小柄な少年である。教育環境に恵まれなかったのか、勉学は不得手だった。親の代より以前は、いわれなき差別に苦しめられてきたが、そんな中でも彼自身は明るい子であった。 この場に立ち合わせた恵二は、帰宅して一部始終を母親に話した。彼は、級友の前途を我がことのように心配していた。

I君は、職業訓練学校に行くことになった。そこで身に着けた技能は、社会への出発に役立つ。笑顔が愛らしい彼なら「私のところで働くか」という企業家と出会うに違いない。”捨てる神あれば助ける神あり”という。世の中、まだまだ捨てたものではない。そう考えた。

 高校入学を目前にして、府民センターを訪ね、カウンセラーに報告とお礼を述べた。

「いつの場合も、お子さんの立場に立って対処されてこられました。ご両親の努力には脱帽です」

彼の評価は、私たちに励ましを与えるものだった。今日から新しい歩みが始まる。胸を躍らせた瞬間だった。
 しかし、危機は思わぬところに潜んでいた。

 

5、  挫折

 

 公立、私立のどちらを選ぶかは一つの悩みであった。妻は合格した私立高校に電話をかけ、事情を話し、学校にフォローする体制があるかどうかを尋ねた。「そのようなことはしていません」という。そこで公立高校にした。
T中学校では公立高校と連絡を取り、T中学からの入学者と恵二が同じクラスに編成されるよう要望された。登校も二人が揃っていくよう配慮された。

 クラス担任が決まった。新学期が始まってすぐ、話し合いの場をもち、私が参加した。
 物静かな感じの女性教員だが、不登校問題は知識としてあるのみで、経験そのものは持たないということだった。話し合いでは、必要なら相互に連絡をとりあうことを確認した。
 そのすぐ後で、
1年生全員を対象にしたオリエンテーションが、泊3日の日程で行われた。そこでクラスメイトとどんな会話が出来るのか。期待とともに不安もあった。

 勤めを終えた私は、オリエンテーションから帰り、自室にいた恵二に声をかけた。

「お帰り」

部屋をのぞくと様子が変だった。

「もう学校へはいかない・・・」

 怒りを満面に表していた。何があったのか? 恵二はそれっきり無言で通した。こんな姿は初めてであった。そして、数日がすぎた。

「もう、高校は退学する。手続きをして・・・」

 入学してまだ1ヶ月にも満たない。余りにもあっけない結末となった。

 どこで聞いたのか、知人のWさんは、恵二の退学には触れないで、こんなことを話題にした。

「一般的に言えることだが・・・」

彼は、前置きをして続けた。

「小中と高校には違いがあるよ。小中は義務教育だから、必ず卒業させなければならない。だから、学校は努力するけど・・・。高校は、生徒の志望によって入ってくる。だから、ついて行けない者は、簡単に切り捨てられることになる。本人次第ということで学校側の責任は問われないのよ。しかし、授業料は払っているんだよね」

彼の批判は辛らつだった。

「そんなものか?」

私は、妙に感心していた。問題が起こらなければ判らないのが常かもしれない。
 入学前に開かれた学校主催の父母集会が思い出された。

この高校は、大阪に初めて生れた革新府政・黒田了一知事が、時代の要請を受けて、高校増設プランを立てた中の、その一校であった。新設校は一般にレベルが低いと見られていた。生徒のよからぬ風評もあった。
 父母集会では、教頭が学校の運営について説明し、父母の理解と協力を求めていた。

「ご承知のように、この学校の歴史はまだ浅いものです。伝統のある高校には、その高校の校風があって、その落ち着いた雰囲気、環境の中に、生徒と教師の営みがあります。
 新設校は、その意味で新しい創造です。校風は、生徒、父母、教師が心を通い合わせ、努力して創っていく、新しい時代の新しい校風、そういう高校をめざしたいのです」

 熱っぽく語った。私は、その言やよし、と拍手を送った。だが、恵二にとって、そこに託した夢は、はかなくも消えた。
 高校に対し親として言いたいことはある。一方で、教師たちの描く学校づくりは、数々の困難が待ち受けており、そのことが分からぬわけではない。それが頭をよぎり、心境は複雑であった。

 恵二の挫折は、深刻だった。自室に入ったままで、1週間、時には10日ほど、風呂にも入らず、衣服は着のまま、窓のカーテンも閉められている。 その姿は、古き時代の物語に出てくる、黒衣をまとい苦行する若き僧に似ていた。
 僧は立派な人物・修行者であるが、名もなき若者をこのような姿にしたのは、誰に罪があると言えるのだろうか?胸がこみ上げ、眼は涙にうるんだ。


 
 「ほしい食べ物はある! なにを作ろうか」
食事の時間になると尋ねる。
 「考えろ…」

 突けんどうな、決まった返事が返ってくる。妻も私も頭を抱えた。
 考えろという意味は、直接的には食事のメニューだが、その背景には、彼の心の痛み、先の見えない苦しさ、自分ではどうすることもできないこの現実、そこを分かってほしいという感情が流れている。

 また、社会が敷いたどこでも見られるコースを、、自分の意志とは無縁に歩まされ、何度もつまずいてきたが、それでも言われるままに従った。今どうすると問うなら親のほうで考えろと主張しているようにも読み取れる。
 彼は、これでしか自己主張ができない。

 こうなっては、彼が望む退学はやむをえない。一つの苦い歴史的教訓がある。
 私が、あの戦争のさなかであった小学生のころ、将来の夢は、「陸軍大将になる」と胸を張って言う友達が多かった。しかし、それは後の歴史が示したように、前例を見ない破滅、災いの将来でしかなかった。
 そこから言えることは、時々の国民意識が、最良、絶対でないことを物語るものである。

 今日、若者たちが描く、自分の将来とはどのようなものか。それが時代意識を反映しているとしても、恵二のこの様は、世間並みに、「右へならえ」は、もういい加減にしなければならないことを示している。
 自分に合わないことを無理に求め、合わせることはない。これからは自分の道、自分のやり方を見つけるのみである。親としての私の心は、そのように揺れて行った。

 手本とする言葉があった。

 「いずれの行もをよびがたき見なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

 親鸞が、阿弥陀仏への信心を、揺るぎなき確信をもって述べた、その中の一節である。自らの生き方(求道)の真髄を語ったものであったが、それは自分の求める道を歩むべしとの助言として伝わってくる。

 この言葉に習うなら、たとえ行き着く先が地獄であっても、自分の志に相違する運命に、翻弄されるよりはましである。こんな時、開き直るのも意味のないことではない。

  とはいえ、時は無遠慮に過ぎてゆく。”絶望は人生最大の障害”だと思いながらも希望の灯りはともらない。そんなことが交差する日々だった。

 ある時、たまたま見たテレビで恵二の好きなエビを使った中国風料理の紹介があった。簡単なものだが、見た目にも美味しそうだった。

「よし、これを作るか」

 早速、材料を揃え、食膳にのせた。

「うまいよ。これ・・・」

恵二の顔がほころんだ。それから「考えろ」の言葉は、だんだん少なくなり、消えていった。
 ほっとしながらも、「あれは、何だったのか」との思いは残るが、そこには、私の知識を超えた、何らかの真理(心理?)があるように思えてならない。

退学してから2ヵ月ほどがすぎた。中学23年のときの担任だったK先生と妻とが校門前でばったり会った。

「恵二君が退学したと高校から連絡がありました。そのとき連絡してくだされば、私も何かとお力になれたのですが・・・」

K先生は、残念そうだった。

「あれほどお世話になったのに・・・。申し訳ありません」

 妻は、程なく帰宅した私にこのことを話した。

「先生って、教え子がどのように成長するのか、気にかけているんだぁ。とくに問題児といわれる子たちには・・・」

 そこには、“これぞ教師”といった存在感があった。

これまでは、学校の援助が大きかった。これからは、親のみの責任と対応になる。いわば社会的な関係の中にいた親子関係が、そこから切り離され、狭い家庭環境の中に移った。

途方にくれる毎日が続いた。

「大教組が教育相談をおこなっているらしい。そこに行ったら・・・」

友人が知らせてくれた。

この教育相談は、大阪教職員組合が設立している教育研究所の付属事業としておこなっているもので、教育現場の経験を積み重ねた中学・高校の教員がボランティアとして参加、カウンセラーに携わっている。

妻と2人でそこを訪ねた。担当していただいたのは、高校で教鞭をとる現役の教員であった。彼自身、子息が不登校になり、立ち直らせた経験をもっていた。その経歴からか、親のすがる思いも正面から受け止めていただいた。

相談日は、土曜日の午後で、時間をかけて話す子どもの現状、経過にじっと耳を傾けられた。

「いま、親御さんとして一番大事なことは、恵二君の現状をありのままに受け入れることです」

最初の助言だった、「受容」。この言葉が重く響いてきた。この日は、初めてということもあって、相談所を出たときは、陽も西に傾きはじめていた。

1回の相談、この間の恵二の状態と変化の報告、そして助言、この関係が2年余り続いた。カウンセラーの指導理論は、受容、共感、導きの3つの段階に分かれている。受容の段階が一番長く、ついで共感、そして最後に、導くことによって自力による立ち直りを助けるというものであった。「後から背を押す」というのもその一つである。

1年を過ぎた頃、相談の中で共感という言葉が持ち出された。

「共感とは・・・そうですね。たとえて言えば、恵二君と一緒に屋外に出たとき、彼が“いい天気だなー”といったとする。“そうだよねー。気分のいい秋晴れだ”と応じるように・・・」

恵二に、親の感覚が自分と同じだということを、確信させること。そこが重要なポイントだった。
 それは、社会に出たとき、人々と自分との距離感を縮め、多くの問題で、共有する何かを獲得する力を養うことができる。先生は、そこまでは言わなかったが、そうした拡がりをもつものだと理解した。
 また、共感は、コミニケーションの大事な手段でもあった。

これは、私にとっても「眼からうろこ」の一言だった。
 助言は、結果から言えば、生活上の共感は、多くの部分で成功したが、なしえない垣根もあった。
 恵二が最後まで言い続けた「お父さんには、私の作品は理解できない」というそれである。
 私たちの親子関係は、いつもそこで立ち止まった。彼はその理由を語らなかった。私もまた、あえて聞くことをしなかった。なぜなら、恵二が自らの意思でその理由を述べたときが、この親子関係の真の解決の機会だと考えていたからである。
 だが、
いま思うとそれは“待ちの姿勢”でしかなく、チャンスを逃したのではなかったか? 悔いの残る対処であった。

この年、兄の正史は、R大学法学部に入学した。
 家から通学できないこともないが、その時間的ロスが大きい。ワンルームマンションに下宿した。
 時折、帰宅して中学時代の釣り仲間とあちこちのダム湖へバス釣りに出かけていた。その合間、恵二とのファミコンゲームにふけたり、また、大学生活の模様を話したりしていた。
 兄弟二人の会話では、ジョークが人気だった。

ある時、法学部学生の間でこんな小噺が受けていると紹介した。

ゼミの数人が喫茶店に入った。すると女子高校生らしきバイトのウエイトレスが、客待ちの間、タバコを吸っている。
 それを見て会話が始まった。

「未成年者の喫煙は、禁止されているよ」

「法を学ぶ者として、見過ごしてよいのかなぁー」

「そりゃー、注意しなければいかんよ」

「ここは、先輩が範を示すべきですよね」

そこで先輩は、立ち上がり、ウエイトレスに近づいて言った。

「あのー、お水をください」

 恵二は、くすくすと笑った。

見かけによらず気弱な男性、強くなった女性!この2人は、自分を振り返ってどう見たのだろうか。

こんなこともあって、恵二は、後にめざした作品に、社会風刺を取り入れる眼を養ったようだ。

夏が果てて、アキアカネが飛び交う頃。恵二の心も和らぎ、落ち着きを取り戻した。
 中学時代の友だち数人が遊びにくるようになった。たいていは下校時で、ファミコンゲームでわいわい騒いでいる。恵二は、友だちが来ると自分は控え、ゲームを見ている。
 彼らの格好の遊び場だが、中には親から志望する大学の受験準備をうるさく言われ、そこからのエスケープともなっていた。

恵二にとって、もっとも有益だったのは、彼らの会話にあった。
 高卒後の進路がつねに話題になっていたから、それに刺激されていた。高校中退という自分にどのような選択肢があるのか。不安の一つでもあった。一時は、大検という制度があり、そのための学校があること、資格を取れば大学の受験も出来ると兄から聞かされていた。その話を、明るい顔で伝えてきたこともあった。

やがて友だちの高校卒業にあわせるように、自分の進路を探った。大学はすでにあきらめていた。どこから情報を手に入れたのか、アニメーション学園の案内パンフを差し出して、行きたいといってきた。アニメ学園は、大阪と東京にあり、めざしたい制作部は東京だからそちらにしたいという。

「制作部ってなに?」

「アニメの監督だよ」

こうして、東京行きが決まった。

 

6、 新たな出発-上京

 

入学準備は、下宿探しから始まった。恵二の上京に兄が付き添った。学園から案内のあった斡旋業者の店に行くとそこには同じ用件で訪れた若者がいた。

「山川さんは、どなたでしょうか」

「はい」

恵二が元気よく手を上げた。兄は、出足は順調だ、とうなづいた。下宿先の下見に行った。そこは、学園から近い渋谷区幡ヶ谷にあった。
 手続きを済ませた兄弟は、街に出た。新宿界隈をぶらぶら歩き、そして帰ってきた。

3月、下宿での生活準備は、私と一緒だった。
 電気、ガス、水道、電話の手続きをし、寝具や台所用品、テレビの購入、銀行口座の開設など恵二の希望を聞きながらすべてを完了させた。
 帰り際、恵二は、ベットに布団を敷き、そっとなでた。すぐ来るよ、宜しくねといった素振であった。

 いよいよ入学である。式には、兄の2回目の同行である。
 前日、ホテルに泊った。恵二は、興奮気味で、寝付かれない。
2人は、ロビーに出て、朝方まで語り合った。
 これからどのような人生を歩むか、恵二は、自立を語った。ここで言う自立には、経済的自立は含まれていない。精神的なそれである。

「どんなことがあっても、孤独には耐えられるよ。これまでは、一人ぼっちが多かったんだから」

恵二が自立の要件として、一番に考えたのはこの問題だった。幼少の頃からのえもいえぬ体験から身についたものだが、生きる第一に挙げたのは鋭い洞察だった。
 というのは私が経験した、あることにつながっている。

ある青年と何気ない会話で過ごしたことがあった。

「僕は、いま孤独です。大学でも、就職した後も孤独な時はありましたが、大して気にすることもありませんでした。だけど、30を過ぎてからはとても寂しい。寂しさに襲われるのです」

 彼は人間関係に苦しみ、仕事も長く続けられず、自分の将来が見えなかった。不安に囚われた時、語る相手、心の友がいなかった。
 私との話の中で、「もう、この寂しさには耐えられない」の最後の一言は、押し殺されたままで、彼の口からは出なかった。
 しばらくして、自死したとの訃報が伝えられてきた。学歴上は、優秀な成績でエリートコースを歩んだが、躓き、苦しみ、そして辿った末だった。あの時の、彼のシグナルに注意が足りなかったと悔やんだことがある。恵二が、「孤独に耐えられる」と語ったのは自分の力を改めて確かめたかったのだろう。

次にあげたのは、親との関係である。

「もう、絶縁したいんゃ!」

 胸のうちにつかえていたものを吐き出すかのように、強い言葉で言い切った。兄は、驚いた。帰阪した時、その衝撃をつぶさに語った。

「そうだったの」

 私にとっては、驚くべきことではなかった。
 「親との絶縁」というと過激な言葉だが、彼には親に管理されているという「被害者意識」があったから、それを払いのけようとする衝動か、或いは、親への依頼心を断ち切ろうとする表現だろう。
 それは、自分との闘いのようにも見える。

 しばらくすると「家に帰る」とその日を伝えてきた。土曜日だった。この日は、兄も京都から帰ってきた。
 乗り物が苦手な彼は、少し疲れた様子で家に着いた。学校や在京の生活ぶりが話題だった。そして、翌日、「東京に帰る」と支度をした。短くてあっけない
2日間だった。
 彼は「親子関係の絶縁」といっていたが、その素振りは見えなかった。

「恵二は、言い残して帰ったのかなー」

「いや、もう帰ってこないから、といっていたよ」

 妻と正史が口をそろえた。

「そう、まったく気がつかなかった」

 恵二の意見や批判を、この際、聞こうと思っていたのに、なんだか拍子抜けだった。

東京での生活にもなれ、落ち着いてきた。時折り電話があるだけになった。
 しかし、学園は、恵二が描いたイメージとは違っていた。アニメ企業への労働力の提供―つまり手っ取り早い就職への通路の役割を果たすものだった。
 基礎的な知識をある程度習得した、便利に使える労働力―たとえば、韓国のアニメーターに委託すると、それを持って行く、出来れば持ち帰るという使い走りの仕事―メッセンジャーボーイである。

恵二が夢見た本格的な知識、技術の習得とは程遠いと感じたのだった。アニメへの熱意は、次第に薄らいだ。登校も少なくなり、2年目は、ほとんど行かなくなった。
 アニメ制作への道はあきらめ、SF小説作家に志望を変えた。

この時、小説の材題、ヒントとなるものは、たくさん浮かんだようだった。彼は、60ぐらいはあると兄や私に話したことがある。
 作品の特徴は、いわゆる硬派で、社会風刺的なものが多く、作品募集に応えて投稿もしていた。しかし、入選することはなかった。

「私の作品は、今の社会が求めているものではないんだ。そのときが来れば、評価されると期待しているんだけど・・・」

 彼は、それをしばしば口にした。私は、彼の作品は二つしか読んでいない。小説としての完成度は、まだ低い。そんな印象だった。
 独学でなく、本格的に勉強するか、名作といわれるものをよく読むか、そこに眼が向けばと見守っていた。

2年が過ぎた。恵二は、親元には帰らず、東京にいたいと希望を伝えてきた。そこにチャンスがあるならと了解し、仕送りを続けた。

正史は、恵二に対し、小説で身を立てるのは大変だ。働きながら創作に取り組むことを考えるべきだ、と説いた。働くことは、人々の喜怒哀楽にも触れ、創作活動のプラスにもなる、と妻や私もその意見には賛成していた。

恵二もその気がなかったわけではないが、人間関係が苦手だという彼の「垣根」を乗り越えるのは、なかなかのことである。その「垣根」が、常に恵二を苦しめていた。

恵二が上京して、早や8年が過ぎた。私は、すでに定年を過ぎ、妻も目前に迫っていた。
 住み慣れた大阪を離れ、自然の豊かな地方に住みたいとの思いから、その候補地を探した。あちこちにマイカーを走らせたが、落ち着いたのは、親しみのもてる三重県名張市だった。

名張の赤目四十八滝は、あまりにも有名だが、それに勝るとも劣らない香落渓(かおちだに)がある。香落渓は、室生火山岩によってつくられ、見上げれば天空に屹立する柱状節理が雄大なパノラマを構成しており、その眺望は人々をとらえて離さない。とりわけ新緑と紅葉の季節は、見とれて尽きない絶景と云う他に言葉はなく、それが延々と続く。降る雨は、青蓮寺川を潤し、渓谷でもまれた水は、やがて訪れる実りの秋を準備する。アユ釣りのシーズンともなれば、釣り人が絶えず、彼らは川に溶け込む。それは一幅の絵姿をなしていた。

 さらに上流に上ると奈良県に入るが、ススキが原と風のたわむれる曽爾高原が控えている。それはあまりにも素晴らしかったので一句を吟じた。
 幾重にも 葉裏返すや 風の波
 俳句に明け暮れる義姉に見せたところ、うまいとは言わなかったが、その風景にうーんとうなずいていた。一度は案内したいと思っていたが、その機会は訪れないままだった。
 また、名張は、地形的には盆地であり、気候も温暖であった。

 さらに付け加えれば、この地は歴史の郷でもある。古くは、東大寺最大規模の荘園・黒田の庄があったところで、今でも二月堂のお水取りに使う松明を毎年供給している お水取りの直前、翌年に使う桧材を運ぶ「伊賀一ノ井松明講」が、
750
年にわたって続けられている。

私たちもこの松明調進に、一度だけ参加した。このイベントは、名張青年会議所がバックアップし、世話をしている。
 
312日、東の空が白みはじめる少し前、出発地の一ノ井・極楽寺で安全祈願を済ませ、松明に使用される、荷貨された檜材を、昔ながらの天秤(てんびん)。そのあとを応募した80人ばかりの行列が組まれ、笠間峠を越え、奈良県にはいる。
 そこから先は、バスで奈良公園の近くまで行く。そこでまた、行列を組んで公園を通り抜け、東大寺へ。南大門で出迎えを受け、二月堂へ。奉納の儀を行い、寄進の行事が終わるというものであった。
 観光の外人が、何事かと珍しそうに写真に収めていたのが目を引いた。
 調進の道のりは、
30キロ余りで、はじめは山越えで汗ばみ、バスで観光気分にゆれ、東大寺境内の行進で達成感に浸る。この体験は、捨てがたいものであった。

皇位継承をめぐって争われた、古代史上最大の内乱といわれる壬申の乱(672年)では、史書によると天智天皇の死去を機に、その子・大友皇子の陰謀(軍事的封じ込めの動き)を察知した後の天武天皇となる大海人皇子が、彼を倒さんとわずか30数名の手勢を従え、吉野から名張に出た「隠駅家」に火を放ち、人馬を集め、挙兵しようとした。
 しかし、名張の国人は慎重で1人も加担せず、中立の立場を取った。失敗した大海人皇子は、美濃に逃れた。後に、戦略的位置をもつ不破道(岐阜)を抑え、近江大津宮に向け二手に分かれて攻めのぼった。
 大友皇子は、戦いに敗れ自刃し果てた。名張は、最初の挙兵地として、歴史に記されることになる。律令制国家が形成されるその過程で起きた事件であった。
 さらに時が進むと、織田信長が攻め入った三次に及ぶ「天正伊賀の乱」に遭遇する。

伊賀の国は、古くから「伊賀惣(いがそう)(こく)一揆(いっき)」と呼ばれる社会体制が成立していた。数少ない大名のいない国―それは、在地に根を下ろす国人(武士)を基盤にした自立的な連合で、選出した12人の評定人によって、合議と多数決による運営がなされていた。

ただ、隣国、甲賀(こうか)とは違って服部、百地、藤林による「上忍」三家の意向が強く働く合議であったといわれる。

域内の紛争は平和的に解決し、外部からの武力攻撃には共同して防戦した。
 戦国時代では、とくに軍事・防衛的側面が強くなり、『伊賀惣国一揆掟書き』では、他国が伊賀国に侵入したときは惣国一揆全構成員が一致団結して防戦せねばならない。、緊急時には
17才から50才 の成人男性が武装して侍大将の下知のもと、村落単位で敵の侵入口である「虎口」に出陣すること。僧侶は、惣国の勝利のため祈祷することと定め、惣国一揆防衛の総動員体制を敷いた。
 ただ、織田方に内通する者もいて、一枚岩の団結とはいえなかった。

そこに「天下布武」を掲げた信長が、大軍をもって攻め入った。
 第一次は、天正
年(1579)9月に起こる。これは、信長の次男・信雄の功名に駆られた独断的侵攻であるが、国人、忍者の反撃に遭い、惨めな敗退を喫する。
 第二次はその2年後の天正
9年2月、伊賀の人口・老若男女合わせても9万人といわれるところに今度は、信長が45千(『伊乱記』)ともいわれる兵を率いて四方から取り囲み、侵攻し、最後の砦、名張南西部にあった柏原城が攻められて、戦は終る。迎え撃った伊賀侍は4千人を満たず、わずか7日間で敗北する。
 『多聞院日記』は、「五百年も乱行われざる国なり云々 霊佛以下聖教数多、堂塔悉く破滅、時刻到来 上下の悲嘆哀なる事なり」と書き記している。
 
500年もの間、乱のなかったところで起きた、目を覆うばかりの皆殺し、焼き尽くしの惨劇であったという。その死者の数、数え切れず、今も語り継がれる恨みも深き、歴史となった。

3次(天正10年)は、「本能寺の変」の直後、この報が伝わるや「伊賀国一揆蜂起」(『勢州軍記』)が起こり、織田方の諸城が次々に襲われる。
 乱は、秀吉が実権を握った後、ようやく治まる。
その意味するところは,伊賀惣国一揆の崩壊である。

一方、経済では伊勢と奈良を結ぶ初瀬(はせ)街道の宿場町として栄えた。江戸時代、おかげ参りの往来がにぎわい、1日に1万人を超える時もあったといわれる。
 近代に入ると文学では、私が少年のころ胸を躍らせた『少年探偵団』や『怪人20面相』などの作家・江戸川乱歩を生み出した。
 古くは、持統天皇の伊勢行幸に随行する夫への思いをはせた万葉の歌「吾せこはいずく行くらむおきつ藻の名張の山を今日かこゆらむ」(当麻真人麻呂の妻)に魅せられる。
 ここに詠まれた「名張の山」は、どこかと思いめぐらした。それは、名張より伊勢に向かう、阿保(伊賀市青山町)への山越えの道を想定したが、どうも違うらしい。

 国学者・本居宣長の『菅笠日記』には、次の文がある。
「是よりなだらかなる松山の道にて。けしきよし。此わたり名張のほこり也。いにしえいせの国に。みかどのみゆきさせ給いし御共に。つかうまつりける人の北の方の。やまとのみやこにとどまりて。男君の旅路を。心ぐるしう思ひやりて。なばりの山をけふかこゆらんとよめりしは。(中略)此山路の事なるべし」
 『日記』は、宣長が弟子達と共に、吉野の花見に行く途中、阿保より七見峠を越え、新田宿の道をとおって名張に入った記述である。
「此山路の事なるべし」と指摘した地は、新田より倉持に至る一区間となる。
 持統天皇は、伊賀・伊勢・志摩をめぐり帰還している。したがって、歌がわが夫の往路とすれば、倉持より伊賀に向かう目前の山路となる。今そこは小高い斜面の新興住宅開発地で、往時の面影は全くない。
それはさておき、この『日記に』ある宣長の名張を語る情感の豊かさに、読む人の心は引かれる。
 また、諸説があることは後になって知ったことであるが、「観阿弥創座の地(小波田」)して能楽がはやされていた
 その諸説には、興味深いものがある。観阿弥の出生が伊賀か、大和かという論争である。事の起こりは、郷土歴史家・久保文雄が、目にとめた資料を研究し、問題を提起したことによる。
 伊賀説は、伊賀市の上島家(伊賀国浅宇田領主)に伝わるとされる古文書に準拠している。また、杉本苑子(『華の碑文』)や白洲正子らも加わって、それぞれドラマ化したり、論評してきた。

 対して大和説は、山田申楽で著名な桜井市山田が出生地であると主張する。その代表的な人物の一人・表章(おもて あきら)は、上島家文書とされる観世系譜の書写年代が近世末であることから、疑問を呈し、これは昭和期に書かれたものだと論断する。
 
 文献に即して、系統的に論証するその真面目さ、研究熱心さには好感がもてる。しかし、ところどころで感情をあらわにするあたりは、まことに人間的である。「文献学者、文献におぼれる」が如くといえる。
 文献資料が、第1級の貴重な史料であることは論をまたない。しかし、存在する文献が事実のすべてを記すものでないことは言うまでもない。記述が一面的であったり、ごく狭い範囲のものであったり、盗作・偽作であったりする。
 当時は、口伝、面授が主要な伝達方法であったから、文献として後世に残るものは少ない。
 この見地から見れば、観阿弥出生地論争は、まだその過程といえる。

 表章は、一見したところ文献以外の事に感覚がついていかない感がある。その一つは、「たかが伊賀の片田舎」という評言を、大事なところで2度も使っている。これは学問の態度ではない。この先入見が災いとならなければっよいが…。

 この論争に、梅原猛が加わる。彼は、伊賀にも訪れ、取材を重ね、2009年、大和説に挑発的論争を吹っ掛ける『うつぼ舟Ⅱ 観阿弥と正成』を発表した。これを受けて立った表章は、『昭和の創作 伊賀観世系譜』を新たに書き下ろし、出版。その特徴は上記に記した。だが、決着をみないまま、翌10年9月に没する。

 こうした学問上の論争は、決着がつくまでにはかなりの時間が費やされる。その最たるものは邪馬台国論争で、今も果てしなく続いている。そこには、我田引水的な、「付録」のようなものも含まれてくるのは、致し方のないことなのか?
 さる時代、「火事と喧嘩は江戸の華」と囃されたように、野次馬的存在である私などには、面白がって右を向いたり、左を向いたりである。

 ただ、表章が上島家文書の系譜に観阿弥を配したその人物は、相当な力量の持ち主だと評価しているが、それは誰なのか?私にはそちらの方に興味がそそられる。
 論争の決着は、どこに求められるのか?カギの一つとなるのは、表章の言う上島家文書の観世系譜が、誰によって書かれたのかにある。また、この問題に関する、上島家文書の全面的な公開が望まれる。それが判明するまでは、これからも続く霧の中の論争が、どのような姿、形をとるのか。楽しみ?とは言える。


 とにかく忍者の歴史をもつ伊賀の地は、他にも黒田(大江盛俊ら)と河内(楠木正成ら)の両悪党同士のつながり、時の権力者に対する抵抗などが、あれこれあって面白い。
 それは、ダイナミックな時代的背景(南北朝)をもち、作家・吉川英治の関心をとらえた。『私本太平記』の中で語られている。
 黒田の悪党の本拠地は、大屋戸と云うところにあった。それは現在の私の住所から1Kmほどの処で、驚きだった。時折、その地に立つと自然なままにというか、私を中世に誘ってゆくのである。それは、歴史のドラマへの、尽きせぬ心の高揚であった。

 また、隣りの街・上野市は、松尾芭蕉の生誕地で地域的交流も深い。
 さらに、日本3大仇討ちの一つ、川合又五郎を討った渡辺一馬と荒木又衛門の「伊賀越鍵屋辻ノ決闘」がある。3大仇討ちとは、赤穂浪士の討ち入り、富士のすそ野での曽我兄弟の仇討ち(1193年)そして鍵屋の辻の決闘(1634年)である。
 事件は、岡山藩主池田忠雄の主名による仇討ちとなり、それまでの複雑な経過が絡み合って、旗本と大名の対立を生みだす。
 決闘は、川合勢付け人含め11人、対し渡辺方は4人の小勢。闘いが始まると藤堂藩の役人が駆けつける。仇討ちと知るや一切介入せず、行方を見守った。激闘5時間余と言われる。

 そこは名張から車で一走りのところにあり、現在は、小公園と歴史資料館と数馬茶店(数馬らが待ち伏せた店。後に今の名前に変えられた)があって、往時の面影を偲ばせている。

 伊賀地方は、こうした文化の香り、歴史と伝統が息づき、人々のロマンを誘うには十分である
 高度成長期からは、大阪のベットタウンとして開発が進み、生活上の便利さもあった。
そして、何よりも緑があって、空気の汚れを気にしないで過ごせるのがよい。

 これらのことは、住めば都となって、私の名張・伊賀賛歌となるものかもしれない。私たちは、これらにつられて・・・、いや、虜になってしまったというべきか、この地に移住することにし、そして、恵二を呼び戻すことにした。

久しぶりだから、夫婦揃って東京に行き、顔をあわせて話をした。

「手紙でも書いたように、半年後には、新しいところに移ることにした。これからは、年金暮らしになるから仕送りの負担が大きい。
 作家を目指すのはいいけど、それは、東京にいなくても出来るだろう。心機一転し、新しいところで努力するのもいいと思うよ・・・」

「うん、話はわかるよ。だけど、もう半年待って欲しいんだよ」

「そうだねー。別に急ぐことではないから、いいよ」

恵二は、残る1年の間に、東京での最後のチャンスをかけたようである。

 

7、 心のスタイル

 

新しい生活が始まった。恵二の気分も新鮮だった。彼は、外出のとき、常にメモ帳を持ち、風景や買い物に行った店などを観察し、書き込んでいる。その動く姿がいきいきとしている。

 大阪から、おばぁちゃんがやってきた。妻の母は、そのとき94歳で、介護を必要としていた。
 長姉夫妻が、長らく世話をしていたが、負担を分散させようと相談、
3人の娘たちが交互に引き取ることにした。 
 おばぁちゃんは、「たらい回しにされている」と不満であった。しかし、ディ
-サービスなどの施設の世話になるのは、慣れないこともあるのか、「気ばかり使って」もっといやであったから、やむなく我慢をしていた。

 恵二は、そんなおばぁちゃんに同情し、話し相手になっていた。耳が遠いので、ホワイトボードを買ってきて、筆談を始めた。だが、これは面倒なことだった。

「補聴器を使うようにしたらどうかなぁー」

 恵二の提案で、耳鼻科医を訪ねた。恵二は、その時も付きっ切りで、診察室にも入り、生活状況を説明していた。
 補聴器は、値段の高くないものにしたが、会話やテレビを見るのには、不自由はなかった。
 だが、慣れないことは永続きしない。おばぁちゃんにすれば、そこまでしなくてもよかったのである。

「せっかく買ったのに・・・」

少し残念そうだった。

 恵二とおばぁちゃんの会話は、少なくなっていった。しかし、買い物に出かけたとき、好物のお菓子や果物を買い、時には料理も作って食べさせていた。
 そんなおばぁちゃんが突然、脳卒中で倒れ、帰らぬ人となった。
96歳であった。天命とはいえ、悲しい出来事である。

 恵二の小さな正義感は、この頃、特に目立った。いつものようにスーパーマーケットへの買い物の途中だった。

「あのー、YN店の牛丼を食べたいんだけど。どう!」

「えっ、いま、なんと言ったの。牛丼?」

 恵二は、偏食が強かった。肉は鶏、魚は鮭、漬物はキムチ、寿司はエビかイカに決まっていた。とくに牛肉は、すき焼きでも食べなかった。
 それが、YN店の牛丼といったので、わが耳を疑った。

「うん。今、BSE(牛海綿状脳症)で風評被害にあっているんだ。大変だというよ」

「そう。それで!」

その時は、夕食までにまだ時間があったので、次にしようとなった。私は、しばらくそのことを忘れていた。
 あるとき、ふと思い出して言った。

「YN店へ行こうか・・・」

「もう、いいよ」

「どうして?」

「うん、経常収支が黒字だそうだから・・・」

 弱者の立場から社会を捉える視点は、恵二のもつ良さであったが、意外なところでそれが出た。
 これは、環境保護をめぐっておきた業者間の割り箸論争のときから続いている。

 食卓で使用される箸をめぐって 割箸派と合成樹脂派のちょっとした論争があった。
 合成樹脂派は、割箸は、木材の乱用で環境保護に逆行すると批判した。対して割箸派は、間伐材を材料としている。間伐は、森林保護に欠かせないもので、その結果出た木材の有効利用だ、これは環境保全そのものだと反論した。
 合成樹脂派は、その認識はなかったとして、この件は落着した。お粗末といえばそれまでだが・・・。

 これに刺激されたのか?そのときから割箸に固執して今も変わらない。食事ごとの使い捨てだから、年間を通すとどれだけ消費されるのか。たぶん間伐材一本分にもならないだろう。
 “割り箸は使い捨て文化だ”、“外材も使われている”などの話もあるが、森林を大切にしたい、小さなことでも役立ちたいという彼の発想は立派だと私は支持した。
 彼が
このような心のスタイルをつくりあげたことに、喜びを感じた。



8  社会への目

2004年、参議院選挙が話題になり始めた頃、新聞を読む恵二の姿が目立った。
 妻が言った。

「選挙はどうするの?」

「共産党には、入れないよ」

 恵二が意識しているのは、民主党で、二大政党制論に傾いていた。

「なんでなの? 自民党も民主党も、使い道や時期は少し違うけど、消費税を上げるといっている。10%とか、15%とかにすべきだという議論もあるのに・・・」

「そんなことを言っているから、ダメなんだ」

 論をもって、親の考えを真正面から否定したのは、初めてであった。そこにはいら立ちのようなものがあった。

消費税率の引き上げは、国論を二分する鋭い対立となっている。逆進性が大きい大衆課税で、特に貧しい人々の現実の生活に与える影響は、破壊的で、社会をさらに傷める。
 税の公平性は、応能負担、つまり所得に準ずるべきものであって、消費税には大きな矛盾がある。妻は、その問題を指摘したかった。
 だが、このときは、そこまでの議論にはならなかった。


  恵二の主張は、消費税増税を肯定しているわけではない。政権選択には、もっと大きな問題があるという考えであった。また、小泉政権は、消費税増税を当面の施策としていなかったこともある。

彼の関心は、むしろ次のことにあった。不況と小泉「構造改革」からくる、見通しのつかない社会状況、弱者が弾かれるその不安である。

小泉「構造改革」は、「平成の打ち壊し」といえるものであった。「打ち壊し」は、「米騒動」(大正7年)にも見られるように、もともとは民衆の自然発生的な暴動を言ったものだが、小泉・竹中路線は、規制緩和(注・規制には、良いものと悪いものがある。逆に緩和も同じことが言える。その基準は誰にとってメリット、デメリットなのか、である)を手段に、また、「不良債権処理」、「改革」のシンボルと称賛する「郵政事業の民営化」、国・地方自治体間における「三位一体改革」という名の地方自治体財政縮減、医療費国民負担増、法人税減税は元に戻すことなく、庶民には定率減税の廃止による増税、これらを総称する「小さな政府」小泉版を指している。
 「小さな政府」論の元祖は、古くまでさかのぼる。その一人、ラサール(
1825~1864ドイツ)は彼が生きた時代、19世紀の資本主義を指して「夜警国家」と名付けた。
 
これは「安価な政府」とも言われた。国民国家の概念からすれば聞くも情けない名称である。それが現代に甦り、新自由主義国家論となった。

いま言う「小さな政府」は、1980年代にケインズ政策の破綻からの転換として生れた。ケインズ理論は、1929年の世界大恐慌以後にとられた国家によるインフレ政策、財政支出による需要と雇用の創出を主な内容としてきが、それが財政破綻等で行き詰まった末、「小さな政府」論に席を明け渡すことになる。それはレーガノミックスとか、サッチャリズムとして、一時期はもてはやされた。しかし経済的矛盾・困難は何ら解決できなかった。
 その流れを汲む小泉「構造改革」は、権力による「上からの改革」で、それだけに広範囲で、徹底的な「打ち壊し」であった。

政・官・財の利権構造「打ち壊し」なら、公正な社会へと進むことも期待できるが、「年次改革要望」などを受け容れたアメリカ仕込みの「構造改革=規制緩和」は、財界・大企業への手厚い応援歌だった。

日本経済は、1987年~90年代のバブルとその崩壊から、深刻なデフレ経済に突入した。
 大企業は、グローバリゼーションを叫び、また、「
3つの過剰―設備、雇用、債務」があるとして、リストラクチャリング(事業の再構築)をすすめ、人減らし、賃下げ、雇用形態の変更を強行した。下請企業への単価切り下げも、容赦なくおこなわれ、倒産が相次いだ。
 これらの推進を「創造的破壊」だと飾った評論家もいた。この言葉は、ピーター・ドラッカー(1909~2005)も使ったりしているが、彼よりも先達のヨーゼフ・シュンペーター(1883~1950)に由来する。
 彼は、学者としては破天荒とみなされる振る舞いがあり、時にはひんしゅくもかった。が、学問的には俊才で、ケインズと並んで20世紀を代表する近代経済学の双璧と称された。
 一部の者たちが使った「創造的破壊」の意味は、私の知る限りでは、シュンペーターのそれとは異なる。緻密な議論を積み重ね、事柄に迫るスタイルの
彼の名誉のために一言付け加えれば、次のようなことであるる。

 簡単のために『大月経済学辞典』を援用し、それを分かりやすく述べれば、『経済発展の理論』、『景気循環論』等の著書で、それまでの西欧経済学の主流―経済過程であるところの「静態的循環」、つまり、独占=停滞という見方―を批判し、新しい理論体系の構築を試みた。
 
 それは、独占的競争のもたらす意義・役割を狭い意味ではあるが肯定的に捉え、産業活動の創造的発展を法則化しようとしたものである。。
 その独占的競争によるダイナミックな動態的発展を生み出すには、生産諸要素の新結合、つまり新しいやり方でそれらの過程に挑戦する企業家がいて、その彼らを動態的発展の原動力である、とした。その事業活動の本質を「創造的破壊」と表現したのである。
 そこでのキーワードはイノベーション、新機軸、革新である。具体的には新商品、新生産方法、新市場、新資源、新組織の開発等の取り組を指している。
 さらに、この動態的発展は、資本主義の一般的特徴の一つであったが、究極の到達として、社会主義に移行する内在的傾向をもつ、と説いた。

  一方、シュンペーター理論に対しては、プラグマティズム的な経済論だとする批判も根強く、その評価は分かれている。
 とはいえ、20世紀における資本主義の停滞と発展を鋭くとらえ、その型を描き出した。当時においては、画期的ともいえる。
 この経済循環が、機能している間は、資本主義体制を維持できるだろう。だが、そこにも限界がある。それをどう超克するかを模索したことは注目に値する。
 こう見てくると同じ言葉でも小泉「構造改革」の破壊とは、似て非なるものである。
 小泉「構造改革」によって何が起こったかはいうまでもない。大企業は、空前の利益を上げ、巷には、「大企業栄えて民亡ぶ」と言った怨嗟(えんさ)の声が聞こえた
 その矛盾・破綻の現象として、失業、ホームレス、借金苦、それに自殺―年間
3
万人を超え、それが毎年続いている。
 かって政府高官が「人の命は地球よりも重い」と言って、よど号ハイジャック事件の超法規的な解決に立ち上がった時、世論は喝采を送った。いまは、人命が軽く扱われ、その薄情さに時の移り変わりを感じさせる。
 職はあってもパート、派遣労働などの非正規雇用、サービス残業という賃金不払い、また、過労が常態化した。

この非情なまでの破壊に、国民がかろうじて持ち堪えたのは、貯蓄率の高さにあった。
 だが、それに対しても、長期にわたるゼロ金利政策によって、受け取るべき利息はなく、金融機関への「所得移転」が起こった。
 デフレで所持する金銭の値打ちが上がったとしても、それは鳴くスズメの涙ほどで、銀行が得る利益に比べればはるかに小さい。
 
 その一方で、“貯蓄から投資へ”と煽り立て、ハイリスクを背負わせた。無貯蓄世帯は大量に増えた。


 勝ち組、負け組が日常会話に登場する。彼らには、市場万能・競争至上主義の下での自己責任が突きつけられた。こうしたことは、貧富の差が拡大する「格差社会」と名付けられ、流行語になった。

 日本経済は、シュンペーターの言う「静態的循環」、つまり停滞状況にあり、悪循環を重ねていることは、経済指標や新興諸国の成長に比べればよく分かる。

 人々を迷わせた「小さな政府」論は、対をなす大企業・財界やり放題の隠れ蓑に過ぎず、社会を痛めるものだった
 庶民が、「改革は痛みが伴う」と少しだけの正直に寛容だったのは、その後の成果を期待したからに他ならない。だが、激痛は今も続いている。
 「失われた10年」は、10年で終わるのか? 先が見えない。

先行き不安、希望喪失の閉塞感が立ちこめる中、参議院選挙が訪れた。恵二もそこに関心をもち、新聞をよく読んだ。
 夜になれば、相変わらずインターネット掲示板に、書き込みをおこなっている。そんな彼が、自・公政権の対立軸としての二大政党制論に傾いたのは、やむをえないことだったのか?


 政治家・小泉純一郎を総括すれば、戦後の日本政治史における、まれにみる特徴がある。小泉は、自民党総裁選挙で“自民党をっぶっ壊す“と叫び、これを党内抗争の具として使った。それは彼の政治的感覚の鋭さを示す一面であった。
 時すでに自民党政治は、終焉を迎えつつあったのであるが、結果は、目を見張るほどの成功をおさめ、つづく総選挙でも大勝した。こんな手法を使った政治家は他にいない。

 ある人は、政治家としては小物なのに大きな仕事をした、と云った。小物が大きな仕事をするなどは、本来あり得ないのだが、庶民は口さがない。歴史は、時折、悪戯をするものである。
 小泉現象は、2つの意味をもった。
 ① 自民党を蘇生させた。だが、同時に自民党の社会的基盤を修復不能なほどに破壊した。
 ② 政権交代という国民意識を呼び起こし、それを阻止しがたいほどに醸成させた。
 以上の意味で、戦後日本の歴史を彩るものであった。

マスメディアは、世論の動向を背景に自民党の後退、民主党の躍進を基本にした報道を続けた。開票速報の初頭は、この予想でにぎわった。

恵二が、二階からトントンと音をたてて降り、私たちがテレビを見ているリビングに顔を見せた。

「小泉は、終わりだ!」

 珍しく興奮していた。

「そのようだなー」

しかし、結果は、自民党が議席を大幅に減らしたものの、与野党の逆転には至らなかった。彼は、悄然(しょうぜん)として自室に戻った。このときは、私たちもまだ、3年後を予測することは出来なかった。また、さらに進んで政権交代それ自体は、衆議院議員選挙を必要とし、さらに遠い先のように思えた。

恵二の政治への関心は、次第に失われ、彼が抱いた「光」が、また一つ消えていくようだった。。若い「支持政党なし」層がどのように動いていくのか、その姿をリアルに示したものであった。

この世代は、生涯の確かな基盤をこの時期に築かなければならない。彼らが持つ人生の時間は、多いようで少ないのである。

 恵二も後に言われる「ロストゼネレーショ
」の仲間であった。この言葉は、朝日新聞が2007年の新年特別企画として連載し、大きな注目を浴びた。 それは、25歳~35歳(当時)の置かれた状態を社会問題として捉えたものである。彼らは「日本が最も豊かな時代に生まれた。そして社会に出た時、戦後最長の経済停滞期だった。バブル崩壊を少年期に迎え、『失われた10年』に大人になった若者たち」としている。

 彼らは次の社会を担う世代である。超氷河期といわれた就職難に遭遇した彼らは、言葉どおりの意味では、「失われた世代」であるが、その実態は、この世代の個々の若者たちが歩んだ、ままならない生き様からすると「さまよえる世代」、世俗な言葉でいえば、行く末の定まらない「難民世代」であった。この先、何処へ向かうのであろうか。

現実逃避か、変革への道か! ネロ(古代ローマ帝国の暴君)の圧政と戦い殉教した使徒・ペテロに習えば、その彼には遠く及ばないとしても、「クォヴァ ディス ドミネ(主よ何処(いずこ)に行き給う(ヨハネ福音書)と言って欲しいところである。
 日本は、仏と八百万の神々が生活の中に住む国柄なのでよく知られていないが、これは、キリストの筆頭弟子・ペトロの使命感を呼び覚ます逸話で、それからの彼の運命を決めた故事である。

2003年、シングルベルが流れ、歳末商戦が盛んなある日のこと。

「小説の方はどう! 書けている」

「いや、全然だよ。来年は、力を入れようと思っている」

 彼が、東京から帰省してきたとき、「こんなのを書いた」といって差し出したことがある。

内容は、青年たちがある要求を掲げて、集会を開き、国会に向けてデモ行進をした。そのときの会話が中心で、集会やデモにどんな意味があるのか? 疑問を抱く青年の問に、会話が始まり、その顚末を書いたものである。

恵二が上京して、集会やデモに参加したという話は聞いたことがない。

 これは、多分、少年時代の体験を下敷きにしたものか、マスコミ報道を目にしての話だろう。
 彼が小学生のとき、大阪城公園で開かれたメーデーに連れて行ったことがある。その後のデモ行進にも参加し、初夏を迎える暑さの中を最後まで歩いた。
 この時、よく歩いたと褒めたものである。また、母親が労働組合の集会、デモがあったときも、連れて行っていた。

この短編には、そうしたものが投影している。どこかに投稿したらしく、「もっと、話を膨らませたらどうか」とのコメントがついている。

「短くてすむものを長々と書くのは、売文的だよ。一行でよいものは、一行で十分なんだ」

彼は、コメントを批判し、受け入れなかった。

「短編ものは、長編ものに比べて難しいといわれているよねー。短いのはいいのだけど、読者が理解できるというか、大事なところはきちんとした説明にしないと・・・」

 私は、文章道なるものはよく分からない。ただ、俳句に親しんでいるうちに、その奥行きの深さを、少しづつわかり始めている。
 
17文字の表現だから、省略があって、読み手の想像に任せてよいことになっている。だけれども、これは、読み手に一定の前提、つまり知識や経験を多少なりとも求めることに変わりはない。

「たとえば、芭蕉の句に“夏草や兵どもが夢の跡”という有名なのがあるよね。(つわもの)どもの夢の跡とは何か。これが頭に浮かばなければ、何のことやらわからないよね

一般的常識では、武将たちの合戦や(うたげ)を思い浮かべるだろう『奥の細道』では、義経主従や藤原氏三代の栄華を偲んでいる。高館(たかだち)の風景は、夏草が生い茂っているだけだった。かっての栄華も夢のように消え失せている、というのが芭蕉の見たものであった
 それを句にした彼の表現の鋭さが人々の心をとらえる。なお、その句の前には国破れて山河あり、城春にして草青みたり」持ってきて、紀行文の効果を上げてい
 この詩は、杜甫の作・「春望」の一節で、その終わりのところは「草木深し」である。高館一帯には木々が生えていなかったのだろうか?芭蕉は引用のを変えている。

 吉川幸次郎は、芭蕉の「記憶のあやまりであろうか、わざと改めたのであろうか」(『新唐詩選』共著・岩波新書)とコメントしているが、そこにある彼のよき人柄に、つい惹かれてしまう。要するにこだわりがない。
 だが、『奥の細道』解説者としては、第1人者と評価の高い蓑笠庵梨一は、著書『奥細道管菰抄』において「青みたりと換骨せし也」と手厳しい。
 私は、実を捉える芭蕉のリアリズムがそうさせたのだろう、と思った。専門家ではない私を含めて、合わせると三者三様である。

 だが、少し考えてみると、高館の状況に即するなら、芭蕉がこの詩を引用したこと自体に、無理があったのではないか? また、文を変えなければ句の「夏草や」につながらない難がある。苦心の結果なのか・・・?

 芭蕉にしてみれば、杜甫の詩は、国破れてて山河ありが、基本的な事柄であり草木深しも、草青みたりもその状況を変えるものではなく、風景の一つ過ぎない。
だから、大胆にも変えたと解釈できないこともない。
 私なら絶対にしないことなのだが・・・。

「文章は、短くても深みのある表現はできるよ。だけど、普通は説明不足になりがちになる。材題からみてダイナミックな展開にした方がよいと思うけど・・・、どうかな・・・」

 強調したかったのは、、一般の作品を読んでいて、ある場面で、これはまだ書ききれて(描き切れて)いない、と云う事に出会ったりする。そんなとき、満たされないものがそこに残る。完成度が低いということだが、そんな描写は、作品としては失敗につながることがある。

 しかし、出版社のコメントは、彼においては解決済みのことで、作品の内容―青年たちが交わした会話―そこに大きな社会的意味、注目すべき思想や文化があるのかどうかについて、父の感想を求めたのに対し、私の方は、「膨らませる」に気をとられ、彼の問い、知りたいことからそれてしまった。
 それから創作に親子の話が及んだのは
3年ぶりのことである。

 新しい年が明け、恵二は、単車の運転免許を取り、行動の自由度が大きくなった。買い物も、私が運転するマイカーに便乗することが少なくなった。

「旅行もいいよ。一緒に行こうか。見聞を広めることは、創作条件を豊にするよ」

「ウン。だけど単車で、近くでの日帰り旅行をやってみたい」

 彼は、胸を膨らませていた。そうこうするうちに、B社から電話がかってきた。用件は、自費出版をしないかというものである。

「自費出版ですか?」

「はい!」

「読んでどうでしたか!」

「私は、営業なので読んでいません」

「読まなくて・・・、どうして出版といえるのですか・・・?」

相手は、返事に詰まってしまった。

「私が出版するかどうかは、書いたものが面白いかどうかが基準で、それによって決めます。ですから、読んでどうだったかを聞かせて欲しいのです」

「話はわかります。他に作品はたくさん書いておられるのですか」

「いや、書いていません」

 恵二は、少しムキになっていた。やり取りはそこで終わった。

「自分の会社が、儲けることだけを考えているんだ」

「で、どうするんだよ。もし、自費出版をしたいというなら、お父さんとしては、(金を)出してもいいよ」

「なんで、そんなことをせないかんのか? 出版なら自分で金を作ってやるよ」

 恵二のその一言は、彼がたくましく成長した証しだった。それは親からの経済的自立を述べた、最初の表明だったのである。
 その後、B社からは音沙汰なしだった。いや、それは親が知らないだけで、恵二のことだから直接、自作の評価を問い合わせたかもしれない。多分、そうだろうという思いは強い。

爽やかな秋が訪れた。私たちは、東海自然歩道への旅を計画していた。

「いつから行くの。日が決まったら言ってよ」

「えっ」

私は、思わず問い返した。

「ごみ収集の日があるだろう。忘れないよう出さんといかんし・・・」

「そうやなー。出してくれると助かるよ」

 私は、その日の早朝、行き先、日程、泊る宿と電話番号、帰宅時間の予定などのメモ書を、食卓の上に置き、妻と出かけた。恵二は、家事にもよく気を使うようになった。そんな感慨に浸りながらの出発であった。しかし、これが最後の会話になった。

 

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