第1章
葬送
1、
事件
それは、私たちにとって驚天動地の出来事であった。2004年9月17日午前8時30分ごろ、私は、二男・恵二に声をかけようと2階にある彼の部屋の前に立った。ドア-には張り紙がしてあり、怪訝に思ってよく見ると「お母さんは入ってはダメ。 お父ーさんを呼んできて」と書かれていた。
「恵くん」と呼んだが返事がない。ノックしたが応答がない。ドア-を開けると窓際のベッドに仰向けに倒れた恵二の姿が目に入った。顔色はなく、頭はベッドの端から落ちかかっている。
「どうしたの?」
急いで近寄り、起こそうとした。身体は冷たく、硬直していた。シャツが血に染まっている。足元には刃物が投げ出されていた。
「お母さん、すぐ来て、恵二が死んでいる」
台所で朝食の後片付けをしていた妻が駆け上がってきた。
「恵くん、何で・・・? どうして・・・?」
妻は、恵二の顔を抱きかかえるようにして泣き崩れた。
テレビのスクリーンに、遺書がセロテープでとめられていた。それはノート2枚にしたためられたもので、「死ぬことにしました。理由は言いません。別に仕事につけないからとかではありません。悲しまないでください」という書き出しから始まっていた。
この遺書によって死が自死であることを知った。ショックであったが、とりあえず警察に連絡しなければと110番し、告げた。
「あのー、子どもが自殺しているんですけど・・・」
「救急車を呼んで、病院に行ってください」
「いえ、死んでからかなりの時間がたっています。身体も硬くなっています。救急という状況ではありません」
「では、係員がそちらに行くよう手配します。しばらく時間がかかりますが、待っていてください」
私たちは、「こんな時だからこそ、親として、しっかりしなければ・・・」と話し合い、とりあえず、親族に電話をした。妻は、八尾市と川西市にいる2人の姉夫妻に、私は、京都市にいる長男に伝えた。
長男・正史は遅い夏期休暇を取っていた。前日の9月16日は正史・祝子夫妻の結婚記念日である。そこで17日から旅行の計画を立てていた。出発直前の訃報に大変な驚きで、「すぐ行きます」と返事が返ってきた。
N署から、男性3人と女性1人の係官が来た。現場検証は,外部からの侵入の形跡を調べることから始まった。懐中電灯をもって玄関、廊下、2階への階段と進んだ。
「土足の跡はありませんね。家の鍵はどうでしたか?」
「昨夜、帰宅したとき、家のドア-は閉まっていました。鍵もあります」
私は、恵二の部屋へ案内するとき、年配の責任者らしき刑事に訊ねた。
「血はあまり流れていないのですが、どうしてでしょうか。テレビや映画のシーンなどで見たりする知識しかないのですが・・・」
「まもなく検死の医師が来ます。T病院の院長です。聞いてみましょう」
警察は、家族や恵二に関する状況を簡単に聞いた後、自刃の状況を念入りに調べ始めた。立ち会っていたが、自分の感情を抑えるのが精一杯であった。
「席をはずしてください」
遺体の扱われ方に対する遺族の心情に配慮してか、2度・3度と云われた。
1階で待機していると責任者らしき刑事が降りてきて、中間的な説明をした。
「ためらい傷がありますから、自殺ですね」
しかし、なお外部との関連があるのか、どうかの確認をしたいようであった。
一方、私たちの方でも謎のような問題があった。10日前の9月7日に、恵二名義の普通預金口座を開設した。
その数日前、「カード会社か、銀行のカードを作ってほしい。20万円入れて置いて」と云ってきた。親元に帰ってきてから、このような要望は初めてであった。
そこで2人そろって銀行に出向いた。私は、自分の普通預金口座から、とりあえず10万円引き出した。
「20万円といっただろう」
「そうだねー。今はないので、年金が入ったら入れるよ。今日は口座開設だけにしよう」
恵二は、仕方がないなという表情をした。窓口での手続きも、行員には愛想よく応対していた。それが10日もたたない後に自死するなどとは思いもよらなかった。
だから、カードを作った目的は何だったのか。自死には関係がないのか、いろんなことが頭をよぎる。
後に確認したことであるが、銀行カードは一度も使われていなかった。
もう一つは、自刃に使われた包丁である。初めは家のものを使ったのかと思ったが、台所にしまわれていた。では、いつ、どこで買ったのか。私たちにまったく気づかれないように準備されていたのである。
刑事が言った。
「これは、お宅のものですよね」
「いや、使っていたのとは違います。自分で買ってきたのでしょう」
それは真新しいもので、見ればわかるものだった。
訊ねていた出血が少ない原因について、説明があった。医学用語で「切傷性心タンポナーゼ」といわれるもので、出血が身体の外には出ず、心臓を圧迫して絶命したものという。
医学的なことはよくわからないが、そんなこともあるのかと思った。この絶命がいかに壮絶なものであったかは、後になってわかった。死亡推定時刻は16日未明だろうという。
こうして警察の検死は、恵二の自死に、幇助を含めて犯罪性があるのか、或いは自死の背景などについてもチェックしているようで、そして終わった。 後は、死亡手続きなどの要領が説明された。
刑事たちが帰った後、大阪市に住む弟に知らせた。遺書には「葬式も通夜もしないで。火葬したら骨は海に捨ててくださいね。・・・尊重してくださいね」と書かれていた。「これは尊重してやりたい。正史夫妻と姉夫妻だけで密葬し、後日改めて法要をしたいので、実家の寺にはこの事情を伝えておいてほしい」と依頼した。
2、
その時
恵二が自死に及んだとき、私たちは東海自然歩道・愛知コースを歩き、奥三河・設楽にいた。
東海自然歩道は、九州、四国、首都圏、東北の各地方長距離自然歩道とともに環境庁(当時)が策定し、1980年から3年の歳月をかけて完成したものである。
それは、東京の明治の森・高尾国定公園から大阪の明治の森・箕面国定公園までの全長1,697Kmという巨大自然歩道で、緑と澄ん大気の中に身体をおき、森林浴と歩く運動を通して心身ともにリフレッシュする、魅力ある山野行である。
コースは、西から大阪、京都、滋賀、奈良、三重、岐阜、愛知、静岡、山梨、神奈川、東京の11都府県にまたがり、四季折々の自然とともに沿道の名所旧跡を訪ねることもできる。
私たちは、1996年5月3日、西の基点である箕面から、夫婦2人で歩き始めた。私が61才、妻が56才の時である。
それから2004年9月17日、棚田の美しい愛知県鳳来町の四谷大代まで、約950Kmを8年4ヶ月の歳月をかけて歩いた。あと750Km弱である。
同僚であったMさんらは、仕事の傍ら18年余りをかけ、2000年11月に踏破している。そして、亀のように進む私たちに、自己体験を踏まえ、「体力があるうちに」、「交通の便が良いうちに」と急かすのである。
私たちも、2009年5月31日高尾山に到達、13年余かけて踏破することができた。
東海自然歩道は、私たちの感性を刺激する。芭蕉の旅を連想し、道すがら作句を楽しんだのもこの自然の贈りものだった。
このときから始めた初心の句作りは、「紅葉映ゆ鈴鹿の山や二人旅」、「雪煙り阿修羅の如く野辺に立ち」、「そよ風に回むれて舞うや蝶二つ」、「廃村に終の棲家とすみれ花」などであったが、この下手な句が今も懐かしい。
思わず足を止め、感嘆する、自然とその刻のすばらしさを、俳句という形で感性の中に取り込もうとしたのである。
そんな東海自然歩道でも、真夏には暑くて歩けない。そこで一夏一山を目途にアルプスの山々へ登ることにしている。
2001年の事であった。奥穂高岳や槍ヶ岳から見る常念岳の山容の美しさに、一度は登ってみたいと思っていた。その念願を果たし、山小屋で同室の人たち―登山歴も長い2組の夫婦―と登った山々のあれこれについて、また尾瀬沼の近況などに話の花が咲いていた。
私は、東海自然歩道を話題にした。彼、彼女ら4人は東北地方の人たちで、東海自然歩道についてはよく知らなかった。そこで、私たちは得意になって、すばらしいと連発していた。
すると若い方の女性が言った。
「じゃー、半月ぐらい続けて歩いたら、(全踏破は)一気ですよね」
私は戸惑いながらいった。
「4〜5日も歩いたら、足の方がどうか?動かなくなりますよ」
爆笑がおこった。
山小屋の楽しい一刻であった。振り返れば、自然歩道にまつわる出来事が走馬灯のように過ぎてゆく。
さて、今回の山行に戻って言うと、計画は、コースの途中で抜けていた2箇所を埋めるものである。
9月15日にマイカーで出発、その日は、枝線の恵那コース区間である大多賀峠から伊勢神峠への尾根を歩き、夜は、段戸裏谷にある豊川市の野外センター「きららの里」に泊る。翌16日は、本線コースにあたる裏谷から宇連の清流公園まで6.7Kmを往復するというものであった。
第一日目は、晴れたり曇ったりの天気で山歩きには適していた。ところが思わぬことが起こった。
この日の終点である伊勢神峠に着いたとき、反対コースから柄は小さいが、2匹の洋犬がいきなり吠え、飛び掛ってきた。
大きいほうが妻に、小さいほうが私に対して。私は、スティツクで追い払い、犬が近づかないようにしたが、妻はパニック状態である。 そして、右太ももを噛まれた。
飼主が、遅れて駆け上がってきた。ズボンには2ヵ所に血が滲んでいる。
「これは犬歯でかまれた痕です」
妻が、興奮した声で指さしている。。飼主は、恐縮していた。
「こんなことは今までにはありませんでした。もしものことがあれば、ここに電話してください」
名刺を渡された。名古屋市内で造園業を営んでいることが記されている。夫婦2人でハイキングに来たようである。
私は、飼い主も気の毒だなと思って言った。
「ズボンが破れていないから大丈夫でしょう」
しきりに謝る飼主と別れて復路に着いた。しばらく歩いていた妻は「痛い、痛い」と繰り返している。
休憩し、持ち合わせの絆創膏で応急手当をした。7〜8センチほどの楕円状の蒼痣と犬歯の痕が皮膚を破って赤くなっている。すごい勢いで飛びつき、噛みついたことを示している。
「痛くて歩けないなら、中止して帰ろうか」
「うーん、せっかく遠いところまできたのだから、どうしよう。少し様子を見てみる」
「じゃー、予定どおり段戸裏谷で泊って、明日の朝の状況で決めよう」
私たちは、野外センターに向かった。
施設使用の手続きをしていたとき、犬にかまれた話をした。管理人は、奥の部屋から傷薬と包帯を出してきて、「手当てをしたら」と親切だった。
やっと落ち着いた。夕食後、トラ狂を自慢する私は、阪神―ヤクルト戦を携帯のラジオで聞きながら時を過ごし、「勝った!」と喜び、そして深い眠りについた。
このとき、恵二は、遺書を書き、死を見つめ、最後の決断をしていたのであった。親としてなんと言ってよいのか、悔やんでも悔やみきれない時であった。
妻は、後に、私の顔を覗き込んで言った。
「あの時帰っていたら、恵二の自殺はくい止められていたかもしれない・・・?」
「いやー、延ばす事はできたかもしれないが・・・。しかし、そんなことをするなど、わかってもいなかったのだから、どうだろう」
だが、妻が抱いたように、時が延びていれば思いとどまる機会はあったかもしれない。この思いはいつまでも続き、今も消えることがない。
翌朝、脚の状態は、心配したほどでもなかった。中止せず、午前8時に歩き始めた。
寒狭川のせせらぎを聞きながら目的地に着き、折り返した。裏谷に帰り着いたのは、午後2時少し前であった。
「きららの里」には、管理人の奥さんと娘さんが施設の片づけを手伝っていて、私たちを見つけると笑顔で迎えてくれた。
「たいへんお早いですねー」
「いやー脚がどうかと心配したんですが、無事、歩き抜きました。やれやれですわ」
私たちには、ささやかな満足感があった。そこを暇乞いして、足助の温泉・岩神之湯に立ち寄った。ここの泉質は大変よくて、今回で2回目である。汗を流してさっぱりした。
帰りのコースは、猿投グリーンロードを経由して東名・名古屋インターに入る。
途中、長久手は、道路工事が急ピッチで進められていた。2005年3月から開催される、愛知万博に向けた交通網の整備である。
世間では、高速道路の建設をめぐっては批判が強く、少し手控えもあるが、ここ名古屋では、“どこ吹く風”とばかりにインフラ整備が進んでいる。
この不況期、愛知県では伊勢湾岸自動車道、東海環状自動車道、中部国際空港と建設を進め、また、万博会場との交通アクセスとなるリニモや一般道路の整備も行なわれ、その風景は、かつての大阪万博に似ている。
名古屋の各種経済指標は、全国トップである。そんな中、車を走らせながら、長野冬季オリンピック(1998年)の後のように、当時とは、経済の基礎的条件に違いがあるとはいえ、愛知も今の活気は消えうせて、自治体の財政赤字も加わり、新たな苦しみに遭遇しなければよいが・・・、などと思いを巡らせt.
実際、農山村の困窮は、いまだ出口が見えなくて沈んだ気分が漂っている。
私たちが泊る宿をとってみれば、平日が多いこともあってか、「今日も貸し切りだよ」とジョークを飛ばすことが少なくない。
交通機関はといえば、名鉄谷汲線、美濃町線につづいて、この年の春、猿投―西中金を走る三河線が廃線になった。存続を求める住民運動もあったと聞くが、かなわなかった。
路線バスも本数が少なくなり、町・村営バスがかろうじて、住民の「足」を守っている。それとて、町村によっては1日に2〜3本であり、日曜日は運行していないなどというのが多い。
こんなことがあった。
この年の春、恵那コース区間である伊勢神峠―旭元気村―矢作湖―明智を歩いた。そのアクセスとなる足助から伊勢神峠へ行く便は、通常、村営バスである。しかし、時間が合わない。そこでタクシーを使った。
案内のタクシー会社に問い合わせると、車は豊田市から足助まで行くことになり、それで4千円はかかる、そこから行先までは、また、メーター料金になる、それでもよいかというのである。とんでもないと断った。
そこで、親切な店のおばさんにいろいろ聞いて、ようやく地元のタクシーを見つけた。
目的地へのドライブ中、運転手に話しかけた。
「方々で『村おこし』事業をやっているが、たいていは失敗していますねぇ。そんな中でも、足助は成功例として、テレビで紹介されているのを見たことがあります。いいところですね」
「足助はいいところですが、しかし、それでもこの町は、産業が乏しく、やっていけません。食べていけないですよ」
この食べていけないという言葉が、妙に頭にこびりついている。
私たちが、東海自然歩道の道中で、村人と言葉を交わし、見聞してきた限りでは、彼らの素朴さと親切さと「まあー、夫婦2人で仲良く歩いていいわねー」と励まされる(?)だけでなく、秋には、畑の野菜をリュックいっぱいに貰い、春には、山蕗を「旬のおいしさだよ」と手渡され、また、私の好きな花・黄色い花弁の水仙を「好きなだけ持ってゆき」と声をかけられるなど、地方の温かさを肌で感じたが、しかし、どことなく疲れたところがあった。
その疲労感は、ますます深まっているように思えた。昨年(2003年)は、米の作況が悪く、米価が少し高値になった。
この年、別な地方だが、山間地で穫り入れに励む農家に声をかけた。
「不作とはいえ、米価が上がってよかったですよね」
「だけど、これは一時のことで、農業はもうやっていけないよ」
見知らぬ者に、力なく語った老農夫の姿が淋しかった。政府の農政は、「ノー政」と陰口をたたかれているように、道路をつくるか、減反を押し付けるか、能のないことをやってきた。
助成制度はあるが、最近では対象農家の見直しや専業農家を増やし、その農家の耕地面積を大きくするという大規模農業経営で窮状の打開を図ろうといった方向にある。
その条件をもつ者には、まだ陽もあたる。しかし、一方で、中小山間地農業の切り捨てが進むという冷酷さ、非情さを伴っている。また、大規模農業経営方式とて、その成否に疑問も出されている。
本当に地方経済は、産業が乏しく、飯が食えない。しかし、農林業は国の基幹産業である。地方は重要な担い手なのに、そこに生活の先行きが見えず、望みをなくしている。
国と自治体の膨大な借金、採算性のない「箱もの」作りや見込みはずれの企業団地造成などの失敗を背景に、また、「少子高齢化」、農村人口の減少に追い立てられて、自治体「リストラ」=市町村合併が進められている。
私たちが歩いた自然歩道沿線の町や村の名はすでになく、また無くなろうとしている。ある町の宿泊施設で働く青年に聞いてみた。
「どう思いますか?」
「合併でよくなるとは思いません。(合併特例債もあって)流行のようなものですよ。その特例債だって、将来は重荷になるものです」
彼は、あきらめている様子でこともなげに、だが、不安を隠さずに語った。
また、別なところでは、話し振りから見て営林署だろうか? 林野に働くその人は、私たちが定年退職後、山歩きをしていることに対して言った。
「いいですねエー。私らが定年のときには、年金はどうなっているのやら? 多分、もらえないと思う」
ちょっと羨ましげだった。この人が考える日本社会の将来は、悲観的だが、”頼れるのは自分の力だけ”という根性のようなものが感じられた。 安い外材に押され、国産木材の自給率はわずか18%に過ぎない。「儲けているのは商社だけだ」と言われる中で、「どっこい生きている」と言うのだろうか。戦後間もないころにできた同名映画の歌の一節に、確かこんなセリフがあった。
“雨や風にはひるみもせぬが、帰り待ってるガキ可愛い”
へこたれるわけにはいかない。農林業再生の議論は次第に高まりつつあるが、それは長い道のりのように思える。だからこそ日本の原風景をなす農村に、ミレーが描いた『種まく人』のような、土に生きるたくましい農夫の姿を再び見せてほしいものである。
そんなところから、愛知万博をメインにした建設の槌音を聞くと、どことなくちぐはぐに感じるのである。
3、 涙雨
山之内夫妻が駆けつけてきた。主人の克一さんは普段から世話好きで、慶弔の知識も広く、頼りになる人だった。修子姉は献身的でよく気がつく。2人が来ただけでことが進んでゆく。ありがたかった。
遺体は、死期の時間も経過しており、思案しているとアルコールで身体をきれいに拭けばよいことなど、助言してくれた。
恵二は、自室の整理・整頓はよくなかったが、食べ物や健康管理には神経質なほうで、その点、きれい好きでもあった。普段は、サプリメントとともにアルコール除菌製品を常備している。妻は、これに着目し、台所からもって来た。
その後、妻と義姉夫妻は一緒に死亡届と火葬の手続きのため、T病院、警察、市役所などに出向いた。私は、その間に恵二の体を整えた。
彼は、外出用の一番気に入りのズボンをはいており、それは、死への旅立ちのささやかな装いだった。そのことに気がついたとき、涙が流れ落ちた。
チャイムが鳴った。気を取り戻して1階に下りると玄関の戸が開いて正史・祝子夫妻がみえた。
恵二と対面し、その姿に触れた正史は、「恵二!」と呼びかけたきり、後は声を上げて泣き伏してしまった。
幼い頃から双子の兄弟のように育ち、過ごし、時には競い合ってきた兄と弟である。祝子さんが嗚咽する夫の姿をやさしく見守っていたのが印象的であった。
葬儀社に来てもらって、諸事を打ち合わせた。無宗教で弔うことや霊柩車も質素なものにした。
このころ、お隣では、何かが起こったことに気づいたようである。この閑静な住宅地に、朝から警察や葬儀社の車、それに長男夫妻、義姉夫妻があわただしく出入りすれば当然のことであろう。
お隣のSさんは、おばあちゃんと若奥さんが揃ってお見えになった。
「何かお取込みのようですが、お手伝いできることがあれば言ってください」
「ありがとうございます。実は、二男の恵二が亡くなりました。遺書があって、葬儀・通夜はせず、火葬後は海に散骨してほしいと書いています。ですから、町会の方々にもお知らせせずに執り行いたいと思っています」
「それは、それは、なんと言ってよいか。お悔やみいたします」
日が暮れてから、班長のAさんが来られた。事情を説明するとAさんは「町会長とここの班の人たちを中心に、お見送りをさせていただきます。そういうことにさせてください」
「恐れ入ります。ご配慮いただいてなんとお礼を申し上げてよいか。勝手なことばかりで申し訳ありません。出棺は、明日の午後2時です」
翌18日、この日は土曜日だった。葬儀社が来て、みんなが手伝い遺体を納棺した。清楚な柩と花の中に埋り浮かぶ恵二の顔に、最後の別れの時を惜しんだ。
その顔は、モネが描いた32才の若さで逝った薄幸の妻・カミーユのデスマスクにも似たようだと思った。恵二も享年32だった。
妻は、惜別に耐えられないのか、何度も恵二の顔をなでては、泣いた。出棺の時間が来ても、そこから離れようとしなかった。
外では、それまで降っていた雨もやんでいた。霊柩車に柩を移すとき、近所の人々がお見送りに来られていた。遺影を持ち、深々と頭を下げて、私たちは車の人となった。斎場へ行く道は少し混んでいた。
運転手に問いかけた。
「時間どおりに着くでしょうかねー」
「余裕を持って着きたかったのですが・・・、奥さんがあまりにも悲しまれていたので、催促できませんでした」
「親が亡くなったときも涙は流しましたが、あれほど悲しむことはありませんでした。わが子を亡くすことは本当につらいです」
国道の渋滞を抜けて、やっと斎場に着いた。係員は待ちかねていたように「早く、はやく」といって柩を運び、遺影を所定のところに安置した。 このとき、葬儀社から言われていた[心付」を運転手と斎場の係員2人に渡した。霊柩車の運転手は礼を言ったが、斎場の係員は事務的な態度で受け取った。
それを見ていた正史は、公務員でありながら、受け取るとはけしからんと批判的であった。自分も地方公務員であるから、倫理や規律を意識していた。
「心付」は、渡す側も、受け取る側も本人の意思によって扱いが異なるのは当然だが、それは、社会習慣の一つとなっているため、面倒である。 いったん差し出されたものは、相手の体面もありむげにはできない。さりとて受け取り、礼も言いにくい場合がある。私の場合は、葬儀社から言われるままに、何の疑問もはさまず手渡した。
相手が公務員だから、正史の意見の正当性を否定するわけにもいかない。
「うーん、そうだねー、こんなことで余計な気遣いをしなくてよいようにしたいね」
一時間ほどして骨上げをした。念のために言えば、係員は一つひとつ丁重に助言された。そこでは仕事に自負が感じられた。
外からは、また、雨音が聞こえてきた。
帰りの車に乗るとき、克一さんが妻にそっと言った。
「涙雨と言うんだよね」
私は、空を仰いだ。この雨は恵二の涙か、天が流した涙か。天の涙ならこの悲しみを流してほしい。
4、 救い
火葬もとどこうりなく終わって、夜の張が下りる頃、勤めから帰ってきた町会長と副会長、班長の3人がそろって来られた。
町会とご近所からの香典と名簿が手渡された。それは、私たちの所属する班の全世帯と懇意にしている方々だった。
普段、恵二が接することのなかった役員の方々に、妻は静かに語りだした。
「大阪から転居してきて丸4年になります。二男は東京から帰ってきて、この間、親子3人で、穏やかに過ごしてきました。恵二は作家を志望し、努力していました。実りませんでしたが、精一杯がんばりました。また、今回は、皆さんに善くして頂いてありがとうございます」
数日後、話を聞いたと言ってこの地域の老人会副会長をされている友人のTさんが訪ねてこられた。彼女は、「お経を上げさせてください」と言って『正信偈』を読経された。
また、市民運動を熱心に続けられているSさんは、若いころ、父から教わったと言って『般若心教』を読経された。お2人とも、人の心の痛みがよくわかる方だった。
習い事の先生が来られた。
「私にも悲しい思い出があります」
先生は、感情を抑えながら語り始めた。
「娘が嫁ぎ先の家族とうまく行かず、悩んでいました。よく親元に帰ってきたんですが、辛抱するよう言って聞かせていました。ある日、本当に突然のことです、ふわっとした感じで逝ってしまいました。なぜと考えても、理由はわかりません。そして、時がたつほど、あの時にこうしてあげたらと、いろいろ思い出しては悲しくなります。しかし、これも娘の運命だったのだと、思うようにしています」
だが、先生には悔しさがいっぱいだった。言葉とは裏腹に、どうしてそれが運命なのだろうと問うているようであった。
私たちも、恵二の死を事実として受け容れているが、それを運命として受け容れることはできない。それでは恵二がこの世に生まれ、自分なりに努力し、成功を求めてきたその人生の意味は何なのだろうということになる。
先生は、運命という言葉を使って、自分の心を取り繕っているのだろうか・・・誰をも恨むことのできない悲しみを抱えておられた。。
恵二の遺書に沿った弔いの儀式は、まだ最初のひとつを済ませたにすぎない。大阪の弟、そして実家の寺へは死亡のこと以外は何も知らせていない。埼玉の義姉、弟妹にはそれすら知らせていなかった。
そこで、事情説明と1ヵ月後の月命日に、近親者によるお別れ会を仏式で催したい旨を伝える手紙を出した。
手紙では、「なぜ恵二が自死したのか。これまでの恵二の歩んできた32年の人生からは、わかるようでもありますが、本当のところはわかりません。最近の、恵二の前向きな姿勢に、もう出口は近いと期待していたところなのに残念な思いです。遺書の文面には苦悩を思わせるものは何もありません。あまりにも淡々としたものです。それが書けるようになったことと自死を決断・実行したことと関係しているかもしれません。私たちの『なぜ』という問いの解明は、これからです。それがない限り親としての心の整理はできないような気がします」と書きしたためた。
私は、彼の自死に正面から立ち向かわねばと思いながらも、心のゆれに翻弄されていた。。
早速、大阪にいる弟からは心配して、「わからないことは多いよ。そんなに思いつめなくても・・・」といってきた。埼玉の妹は、電話の向こう側で 「たいへんだったね―」と言った後は、しばらく言葉も出ないようだった。そして、気持ちを静め、「こちらにいる兄・姉には連絡をとって、一緒に行きます」と伝えてきた。
一方、別な方面から、私たちの心を痛めることが起こった。妻の長姉が危篤状態に陥ったのである。
妻の実家は、河内の中心に位置する八尾市にある。長姉はそこで夫とともに暮らし、俳句を吟じ、この地方では名のある月刊俳句誌『河内野』にもよく載せられる才女であった。
また、革細工の腕を持ち、近鉄上本町百貨店で、年に一度催されていた『百軒横丁』に婦人物カバンや小物を出店する常連でもあった。
しかし、この年の初め、脳に静脈瘤があることが発見され、医師から、このままでは破裂し、死亡する危険があると告げられた。
2月に手術をした。経過は良好なように思われたが、出血し、再手術、再入院を繰り返した。
恵二の伯母にあたる優しい義姉は、電話をしてきたとき、電話口に恵二が出ると何かと話しかけていたという関係にある。その恵二の自死に大きなショックを感じたようである。偶然の重なりか体調が急変し、当夜、救急車で病院に運ばれることになった。
その後も病状は改善せず、一時は覚悟を決めなければならない場面もあった。
私たちも恵二の弔いが一段落した後、見舞いに駆けつけた。病床にうつろな眼で横たわる義姉の姿が痛ましかった。
そんなことで、川西市の克一・修子夫妻は「お別れ会」に出席できないことになるかもしれないと連絡してきた。
義姉は持ちこたえ、少しばかり胸をなでおろした。
徳島にある実家の寺からは甥の住職が来た。法要が終わり、会食後、妻は甥に、こんな場合はどう考えたらよいかと意見を求めていた。
それは、恵二の死を友人・知人にどう説明すればよいかというもので、この1ヶ月間、悩み、苦しんできたことであった。
こんなことがあった。
叔母から電話があり、「自殺なんていわんとき。おまはん(お前さん)な、こんなこともあるんよ」と諭すように話し出した。
脱サラしたある人が、好きな陶芸で身を立てようと新しく事業を起こした。しかし、この不況期にうまく行くはずがない。貯蓄や退職金を使い果たし、挙句に借金を重ね、行き詰って首吊り自殺をした。
気の毒なことだが、自分が選んだ末だった。しかし、世間はそうは見ず、早くから陶芸に打ち込んでいた嫁が、自分の夢に夫を同調させたもので、嫁が悪いといっている。
こんなこともあるので、病死ということにした方がよい。でないと親が白い眼で見られるだけだ、という。
そういわれてみれば、私たちの周りにも身内の自殺に対して、わざわざ遠くの地にある親戚で葬儀を執り行ったという話も聞いたことがある。
恵二の場合、なぜ、そうなったかの原因は抜きにして、心不全になったことは間違いなく、とりあえずそうしておこうと話し合った。
けれども、私たち夫婦の間で、意見が同一であるわけではない。私は、事実に反することを人に言うのは嫌であった。
妻は、友人にも子どものことで不安を抱えている人がいる。自死という事実そのものが否定的に影響する、だから言いたくない。また、恵二の自死に、心の整理もついていない、と反対の意見である。
この違いは、人との対応に微妙にあらわれる。そして口論にいたる場合がある。
「世間から、後ろ指を差されることをしたわけではない。自分の人生を、自分で閉じた。ただ、それだけなのだ」
私は、語気を荒げて言うこともあった。
しかし、妻は納得しない。その答を、甥から引き出そうとしていたのである。
甥の住職は心優しく話しだした。
「叔母さんの心の問題でしょう。いま、死の事実を言うことで悲しみが深まるのなら救われません。わが子を亡くしたとき、親はその悲しみからどう救われるべきか、そこに答えがあるのではないでしょうか。だから、心不全で亡くなったといっても許されてよいと思います。そして、この悲しみを乗り越えたとき、実は自死だったと説明すればよいのではありませんか。それで非難されることはないと思います」
簡単だがこの話に、妻は心に痞えていたものがとれたようである。甥と話ができてよかったとしみじみ語っている。
年の瀬も近づいた11月末、喪中ハガキを出した。妻と仲良くしていた元の職場の人たちは、休みを取り、連れだって来られ、丁重な弔意をいただいた。
彼女らは、妻を心遣い、死因については訊ねることをしなかった。そして、もっぱら気を落とさないようにと繰り返していた。
このことに接して、私は、映画にもなった『サンダカン八番娼館−望郷』の作者・山崎朋子のある回想を思い出した。
これは、マイカー通勤をしていた20年ほど前のある日、NHKのラジオ放送を聞いたときのものなので、記憶もおぼろげである。そこで話された山崎さんの回想はこうである。
山崎さんはこの物語の主人公となった「からゆきさん」の1人を訪ねて取材した。 1週間ほどだったか、寝起き、食事をともにしながら聞き取りをする中で、ふと一つの疑問がわいてきた。
私は、彼女についてあれこれ訊ねるのに、彼女のほうは私について、つまり、私の素性などについて何も聞こうとしない。そこでこの疑問をぶつけてみた。
彼女は、あなたが誰なのか知りたい、しかし、人には聞かれたくないことがある。だから聞かないでいるというのである。
これは私の解釈なのだが、彼女は、私のような社会から見捨てられた人間をこうも熱心に取材するなど、普通じゃない、自分と共通する何かがある、と思ったのかもしれない。
山崎さんは、彼女の口から出た言葉に心を打たれたという。そこには人を思いやる人間性があった。
戦前、異国の地で、貧しさのために身を売られ、家と国に背を向けられた「からゆきさん」が、数奇な運命をたどり、そこで身につけたヒューマンな心、普通なら、すねて世を恨んでもおかしくないのに・・・、である。 他人事には無関心な世情もある中で、この思いやりの心は素晴らしい。
私たちは今、わが子の自死を、人に聞かれたくないという感情があった。悲しみのドン底にある時、なぜ、どうして?と問われるのはたまらなくつらいし、また、答えようもない。そして、この心の痛手から立ち直るには、どれほどの時間がかかるのだろうかとの思いがあった。
そのことを暖かく包んだ友人の励ましに、人としての心の風景を見る思いがしたのであった。
5、 絆
遺書は、「火葬のあと骨は海に捨ててください」と記されていた。そこで葬儀社に照会した。最近、海への散骨もふえているようで、担当の女性社員は「私も、この分野の知識を広め、事業の拡大に取り組みたいと考えています。情報を集めてみます」と積極的であった。
彼女が、届けてくれた最初のパンフレットは、代理業者による散骨で、年2回、春と秋に催行される。遺族は出航する港までであって、後は業者が定めた地点に散骨するというものである。
私たちにとって、この方法はしっくりしない。親の手で直接散骨できないものか、と希望を伝えた。しばらくすると、新しい情報が手に入ったとの連絡があった。
恵二が幼少のころ、家族そろって海に出かけたこともある紀伊水道の近辺では、和歌山・田辺湾で出来る。しかし、船のチャーターが必要で、費用は代理業者による散骨の約5倍であった。その他、細かな取り決めがあるが、これに決めた。
10月30日、長男の正史と私たち夫婦の3人で出かけた。田辺には、日本におけるナショナル・トラスト第一号となった天神崎がある。業者から紹介された宿泊予定のリゾートホテルはその近くにある。
少し早めに着いたので、天神崎を散策した。潮風が顔を撫でて通り抜ける。岬の景色も印象深い。
対岸には、この地で生まれ、大成した南方熊楠の記念館があり、その岬が見える。父のもとで修業に励んだ若かりし頃の武蔵坊弁慶も、この浜辺に立ち、何を夢想したのであろうか!そんな風情をもつこの海と浜辺は、人をもてなす何かを備えている。
翌朝、天候は曇り時々雨で、風もあった。湾内で1〜3メートルの波があると知らされた。波が高いと船酔いが心配される。しかし挙行することにした。
午前10時、チャーター船に乗り込み、沖に向かった。乗ったのは船長の他、儀式を進行する役目の人、東京から出向いてきた業者、そして私たち3人である。波風が強くなり、規定では沖合い2Kmの地点が散骨の場所であるが、少し手前のところに変更した。
船が泊り、「これより散骨の儀式を執り行います」と宣告された。汽笛が鳴った。一同、敬礼(直立)の後、粉にされた骨を海に撒くと風に舞った。次いで赤・白・黄の花びらが献花され、波に美しく漂う。黙祷、号鐘があり、船は、そこを中心に3回まわり、最後の汽笛をもってセレモニーは終えた。
儀式をとりもった年配の人は、本人の話によれば、この湾の海難救助員で、海を知り尽くしていた。携帯電話は、肌身離さず、夜は枕元においており、いざというときに備えているそうである。実際、緊急出動はしばしばであるという。こうした頼もしい、気位をもった海の男たちによって散骨は無事におえた。
業者の話によると、今年・春の催行は、依頼者が3百人余であったが、秋の催行では5百人を超えたという。いってみれば急増である。しかし、散骨を業者に委託するのみで、儀式には参加しない人もいるという。
この一事は、今の世相のある面を覗かせたもので、その遺族にはそれぞれの事情があるに違いないが、思わず眉をひそめてしまった。
昼前、私たちは田辺と別れを告げた。思い出の場所がまた一つ増えた。
遺書には、「海に捨ててください」の文言に続いて「墓には絶対に入れないで」とあった。
“絶対に“、これをどう扱うかは難問だった。数年前、法要で兄弟が集まった際、寺から出た者たちの共同墓を作ろう、と話が持ち上がり、境内に建立した。すでに3人が納骨されている。
こういった事情もあって、親としてはそこに納骨したいのである。この世の暮らしは別々であっても、人生を終えたなら、その骨は同じところに納めたいというのが共同墓の趣旨であったから、したがって、ここは親の思い通りにしたいと考えた。
人はこんな場合、「あの世で逢ったら、“ごめんね”といったらいいのでは」と言う。それも一つの理由づけである。もし、あの世があるのなら私の心も安らぐであろう。
しかし、私は、あの世の存在を信じていない。社会において宗教が生まれる必然性やその有用性は認めるが、それは彼岸のことではなく、“此岸のこととして”である。
この世で行うことはこの世の事であり、宗教行事は、先人の顕彰、敬い、追悼、そして現世に生きる者の心の安らぎや救われ方に関わっている。墓をメモリアルとするのは、死者のおくり方、追悼の形式であるに過ぎないと考えていた。
だが一方で、私の心に付きまとうものがあった。仏教にしても、キリスト教にしても2千年余の歴史をもち、今もなお、営々と続いている。文明の歴史で、これほどまでに世界の大勢の人々をとらえた思想は、宗教という姿・形であるにせよ、他に存在しない。
仏神を信仰し、それを日常の心の糧としている広範な人々の存在・・・、宗教がこのような社会的存在である以上、この動かし難い事実といかに折り合うかべきか・・・。
一方で、信ずるも信じないも個人の自由としてあるのだが、私にはまだ明確な解答がない。
取りあえず 死せる者に了解を求める術はないから…、その意味で“ごめんね”と云わなければならない。
偽らぬところは、墓前に花を供え、手を合わすことは、自分なりに懸命に生きようとした恵二への消える事のない親としての想いであり、そこを大事にしたかったに過ぎない。
もし、親鸞上人が今、私のそばにいたら「それでいいんだよ」と声をかけられるにちがいない。そう思った時、私は前に進むことができた。
年の瀬を目前にした11月26日、納骨の法要をおこなった。参加は私たち夫婦と正史・祝子夫妻にとどめた。祝子さんは、義父の実家であるこの寺を訪ねるのは初めてのことであった。
夫の従兄弟でもある住職一家との親交を深め、そして翌日、彼ら2人は、私たちの勧めもあって「うだつのある町」で有名になった脇町や天然記念物の土柱、そして鳴門の渦潮を見物し、住処の京都に帰った。
恵二の弔いはそれ自体の意味の他に、恵二に関る人たち、親子、親族、友人間の絆を強めるものとなった。
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