これこそお礼やと思うねん    近藤正明

新年、明けましておめでとうございます。本年も「教会だより『和らぎ』」をどうぞよろしくお願い申しあげます。

 

  年末に教会の大掃除をさせていただいたが、その前後に教職舎(教会家族の住まい)の大掃除と整理をした。使わない物や、着なくなった古着が大量にあり、2日がかりで「捨てる」と「残す」の分別作業をした。今まで「いつか着るかも知れへんから、もうちょい置いとこ」「ほかすのん面倒やから、奥にしまっとこ」で何年も過ぎていた。懐かしい昔の物や、着ていた服などがあり、想い出にふけることや、「ほるのん寂しいなあ」なんて思うこともあったが、思い切って、捨てることにした。その時、ふと自分が授業で生徒に話した内容と、最近参られた方の話が頭をよぎった。

 授業の話は、金光教のラジオ放送「心の散歩道」というシリーズの「お礼」がテーマになった内容で、こんな話である。

 「生け花教室の先生が、長いこと生けてあった、しおれた花をごみ箱に捨てる時、頭を下げてお礼をしながら捨てているのを見た。不思議に思ったけど、『長いこと、目を楽しませてくれてありがとう』という意味だったのだろうか。そういえば、朝日を拝む人はたくさんいるけど、夕日を拝む人は少ない。食べるものに感謝をする人はいるけど、食べたものが体から出ていくとき、そのものに感謝をする人は少ないなあ。」なんて話が続いていく。

最近参られた方の話は、車を廃車にする時、きれいに洗車して業者に手渡したという話であった。

 いずれも的をえた話だなあと思った。服をごみ袋に詰めていく時、それらの話を思い出し、心の中で「今までありがとう」とお礼をしつつ、できるだけきちんとたたんで詰めていった。後で袋の中でまたくしゃくしゃになっていたけど、大きな袋5つに詰め込まれた古着を、直接処理場に運んだ。そしておじさんに手渡すときに、手を合わせて「お願いします」と言って渡した。おじさんはニコニコ笑って受け取ってくれた。

 「終わりよければすべてよし」というが、物に感謝する時、一番大切なタイミングは、物を片付ける時、あるいは使い切って捨てる時だ、と改めて思った。

 新年を迎え、初詣に行く人は多い。しかし、大みそかに一年のお礼参りができる人は少ないのではないだろうか。金光教では、越年祭というお祭で、ゆく年一年のお礼を神様に申し上げ、そして元日祭を迎える。「一年の計は元旦にあり」も大事だが、その計は大みそかに結果が出ることを忘れないようにしよう。〔1月号(109号)巻頭言)