悲しみの中から    近藤正明

 上野親教会三代教会長夫人、近藤初子先生が、去る6月21日午前8時20分、ご帰幽になりました。享年74才でした。(金光教では、人が亡くなられた場合、帰幽[きゆう]と言います)

 私にとっては、父方にとって唯一の叔母であり、もちろん父にとってたった1人の妹であったことから、父も大変なショックを受けたようです。

 叔母は私の祖父母、近藤照道・照子(小阪教会初代教会長夫妻)の長女として生まれました。祖父母には、6人の子供がいましたが、そのうち4人を幼いままに亡くし、体の弱かった二人の子供が残りました。それが私の父、明(小阪二代教会長)と叔母でした。祖母も9年前に、92才で帰幽しましたが、生前祖母に聞かされた話を紹介したいと思います。

 父は虚弱で、なかなか首が据わらなかったことや、よく病気をしたこと、叔母はさらに虚弱だったそうです。少し大きくなって、祖母は甥にあたる清次郎さん(後の松本清次郎先生、岐阜県垂井教会前教会長)を一緒に預かることになりました。清次郎さんは「せいちゃん」と呼ばれ、祖父母は自分の子供同様にかわいがって育てました。また同級生同士でもありました。父とせいちゃんは、本当の兄弟のように仲良く、けんかをすることはなかったそうです。小学校へ通うようになった頃、叔母が生まれました。叔母が生まれた年は、小阪教会の開教の年でありました。当時は祖父が訳あって、よく近所内で引っ越しをしていたそうです。

 体の弱かった叔母は冷え性で、また頭に「くさっぱち」ができたそうで、祖母は、父と清次郎さんに、薬局へ懐炉灰と軟膏を買いに行くよう頼みました。仲のよい二人は、叔母の薬を買いに行くのに手をつないで、買う物を忘れないように「おまえは『リスリン』言うていけ。僕は『かいろばい』言うていくから」といって、交互に「リスリン」「かいろばい」と声を掛け合いながら、薬局へ行ったそうです。

 叔母は、布教まもない小阪の地で、いろいろ大変な中、家族の慈愛を受けて育てられました。

 

 晩年の叔母のイメージは、いつも広前で信者さんと一緒にご祈念をし、対話しているというものでした。なによりも、祈り続けて下さったのは、私たちの二男のことです。二男は「先天性心房中核欠損症」という、心臓の壁に穴の空いている病気で誕生しました。実は叔母が、これとまったく同じ病気だったのです。そのこともあって、特に二男に対する祈りは、はんぱなものではありませんでした。

 二男が5才になったときの精密検査で、お医者さんから「心臓の穴が見当たらない」との所見を受け、そのことを叔母に伝えた時、叔母はすぐに神様にお礼をしてくれました。

 私は叔母が、二男の難病を、身をもって持っていって下さったと信じています。また、私たち夫婦が名張に赴いてからは、私たちと、教会の立ち行きを昼夜祈り続けて下さいました。80年記念祭まで、いてくれなかったことは本当に残念です。叔母の一生は、人のために願う一生だったと思います。少しでもその余徳を受け、私たちも御用のおかげを蒙ってまいりたいと思います。

 


【「和らぎ」115号(平成14年月)巻頭言】

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