「あたりまえ」という錯覚  近藤正明

 

 自分の命があと少しで終わるかも知れない。そんな覚悟と隣り合わせで日々を過ごすってどういう思いなのだろう。私の病気は難病であるが、幸い死の宣告は受けなかった。だから「来年は」「退院したら」と今日の辛さを未来の希望に託してきた。そうして何度も絶望しそうな気持ちを立て直してきた。(中略)明日があるとあたりまえに思う私たちは、時折簡単に「死にたい」などと口にする。(すべての「あたりまえ」は私たちの錯覚にすぎない。その事を私は病気になって少し知った)。だけど、そんな私たちの目に触れないところで、自分にはもう「未来」や「明日」がないかも知れないと思いながら、それでも「今日」を大切に生き、必死に闘っている人は確かに存在するのだ。』《「扶桑社」刊 『病床からのIN MY LIFE』 吉川みき著》

 これは、私の大学時代の先輩が著した本である。彼女は私の音楽に関する人生に多大な影響を与えてくれた恩人であるが、一昨年正月に「重症筋無力症」という難病にかかり、今も入退院を繰り返している。プロミュージシャンとして、またラジオのDJとして活躍し、将来を嘱望されていただけに、本人はもとより、私も含めて周囲の人たちのショックは計り知れないものがあった。この病気の詳しいことは、紙面の都合で割愛させていただくが、呼吸障害が起きない限り、投薬治療で命に障ることはない。治癒する事もある。彼女は、ひたすら治癒を信じ、2年半に及ぶ闘病生活をしている。不自由になった体をフルに使って、闘病日記を記した。ここには病気の原因となる胸腺の除去手術、全身の血液交換、大量のステロイド投与による副作用の辛さに耐えながらの、生への執念、命があることの喜びが綴られている。

 私たちは命あることが、「あたりまえ」という奇跡の連続であるということを再認識し、その命の根源である天地のはたらきに改めて感謝しなければならない。天地金乃神大祭は、そういう意味で仕えられる大切な祭典である。

『「ずっと」はない。あらためて一日を大切にしなくては、と思っていた。

(昨年12月29日、退院の日)誰だっていつでもやり直せる。その気になれば。幸せになるために帰って来た。そう思いたい。私はもう一度、チャンスをもらった。そうだ、きっとすごくラッキーな奴だったのだと思う。』

 彼女は今、再び病院にいる。病気のおまけについてきた骨粗鬆症と糖尿病とも闘いながら。彼女の回復を心より祈らせて頂いている。


【「和らぎ」113号(平成14年月)巻頭言】

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