初心にもどって   近藤佐枝子

10月から「アルジャーノンに花束を」というドラマが始まった。原作を読んだが、かなり興味深くお気に入りの一冊だったので、このドラマをすごく楽しみにしていた。内容について、あまり触れるべきではないと思うのだが、知的障害者が知能を高めるために、脳の手術をうけたその後の経過を書いたものである。その中に、こんな事があった。
手術を受ける前は、まわりの人が自分を見て笑っているのが、自分のことが好きだからだと思いとても幸せだったが、手術を受け知能が高くなると、まわりの人は自分のことが好きだったのではなく、ただバカにしていただけだということに気づくのである。
この部分を読むたびに、なんか身につまされる思いになる。純粋で真っ白だった主人公が、賢くなったばかりにそれを失っていく。最後にどうなるかはあえて書かないが、人間は賢くなるたびに、嫌なことも少しずつ覚えていくのだなあと思った。それをいかに上手に自分の中で消化していくかが、大切なんだなと思う。自分も、そんな純真さを忘れてしまったなと思ったりする。
 ずいぶん前になるが、ある人がこんな事を言っていた。大祭などのお祭りで、祭詞奏上の時寝ている人がいるのが、腹が立って仕方がないというのである。祭主が参拝者を代表してお礼、お詫び、お願いを神様に伝えて下さっているのに、寝るとは何事かというのである。この人は、祭詞のお祭りでの意味をおぼえた。でも、それと同時に他人を否定することも覚えてしまった。私からすれば、神様はきっと祭主にすべてをゆだね、寝てしまっている人のことを決して責めたりはしないと思ってしまうのだが。この人は本当に気の毒だと思う。初めて神様を感じ、お道の教えに触れ、心からありがたいなあと思った感動をすべて忘れ、お祭りで本当に大事な祭詞奏上の時に、他人を責め、寝ている人を捜すことに費やされてしまっているのだから。しかも、勝手に腹を立てて、勝手に第三者まで巻き込もうとして。
 こういう事は極端だけれども、信心のけいこをさせて頂き、色々なことがわかったり、信心が進むにつれ、不足の心が芽生えたり、他人を責める心がわいて来ることもあるかもしれない。そんな時こそ、初心にもどって、初めて神様に触れた喜びを思い出して欲しいと思う。そんな純粋さが、お道のことを覚えたという賢さよりも、大切な場面ってたくさんあると思うから。
                        

【「和らぎ」118号(平成14年10月)巻頭言】

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