見ること見ること自分をみること    近藤正明

 

 先日、テレビで元刑務官3人がパネラーとなって、世相について語る番組を見た。刑務所の収容範囲を大幅に越える服役囚の数に、日本の犯罪の多さ、また社会のひずみを語るとともに、刑務所の生活について紹介していた。

 刑務所は犯罪者にとって、分刻みの団体行動、労役など、もちろん「クサい飯」を食わされる本来の厳しさもあるのだが、ある意味快適な場所なのだそうである。というのは、3度のご飯を食いはぐれることがない。ふとんで寝ることができる。週に1〜2度風呂に入れる。体調が悪ければ医者に診てもらえる。時間制限はあるもののテレビを見ることもできる。など、これらすべて無料で提供されるのである。

 まれにこの「快適さ」を求めて、せっかく出所してもわざわざ刑務所に戻るために再び罪を犯す、ならず者もおるようだが、現実には刑務所がいくら快適になったからといって、多くの服役囚は当然「2度とはいりたくない」と思うそうである。

 その理由は、刑務所内の人間関係にある。それぞれが何らかの罪を犯して服役する。一つの部屋に6人が入る。つまりまったくプライベートな空間がない。しかも服役囚たちはそれぞれが自分の立場を強く主張しあう。例えば、自分は「人殺しをしてきた」とか、うそをついてまでも罪の自慢をする者もいるようである。後に入った人間はきついいじめに遭う。また「わいせつ罪」や「痴漢」の累犯で入った者は、その罪名がバレルと「コモノ」と呼ばれ、特に厳しい仕打ちを受けるそうである。

 さて、服役囚には「再犯者」いわゆる前科者の割合が多い。なぜ彼らは犯罪を繰り返すのか。元刑務官によると、再犯者の大半は、次の二つの性質を持ち合わせているそうである。一つは、非常に意志が弱いこと。もう一つは、すべて都合の悪い物事を人のせいにする、極端な自己中心主義であるということである。人の意見に流されやすいから悪にも引っ張られやすい。そして自己防衛が強いあまり、犯罪行為に走るという傾向である。自分が罪を犯したのは、社会が悪いから、誰々が悪いからと言う具合である。

 しかしよくよく考えると、犯罪に走るまでもないが、この二つの性質は、多くの人間が持ち合わせてはいないだろうか。自分自身はどうだろうか。流されやすい自分はないだろうか。いろんな何か自分にとって都合の悪いことが起きたとき、他人や社会を責め、文句を言うのは簡単なことであるが、本当に自分の方に全くの非がなかったといえるのだろうか。何かことが起きて人を責める前に、自分はどうであったか見直すことが必要であろう。

 先師、高橋正雄先生が「みることみること、自分をみること」という教えを残してくださっている。しっかりと地に足をつけ、自分を見つめる力を養い、よりよい人間関係を築ける人でありたいと思う。【「和らぎ」111号(平成14年3月)巻頭言】

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