神様を頂くということ 近藤佐枝子
長男の運動会の数日前、学校から運動会のプログラムを頂きました。そこには招待状がついていて、長男の字でこう書いてありました。
「おかあさんとおとうさんへ うんどうかいきてね。ぜったい行くまえに家のかみさまにうんどうかいで、ゆうしょうできるようにおいのりしてね。悠人より」
これを読んで、私は感動しました。この子なりに神様を頂いているんだと思いました。長男は「絶対、優勝したいもん」と張り切っていました。自分がこうしたい、こうなりたいと思ったことを一生懸命神様にお願いすれば、かなえてくれると言うことを、最近感じている様子です。
反面、私は怖くもなりました。長男も一生懸命お願いしているわけですから、もし、優勝できなかったら長男はどう感じるだろうかと。せっかく神様に向かっている心が離れていってしまったらと、今思えば、取り越し苦労だったのだけれど、心配しました。だから、運動会の最中も、せめて最下位にはならないようにと、変に祈るような気持ちで見ていました。
結果長男のチームは2位で、優勝できませんでした。何か言ってくるかなと思っていたけれども、本人は一生懸命やったこと、上級生の組み体操が格好良かったことに満足して、優勝したいという気持ちは、どこかに飛んでいってしまったようでした。神様にお願いしていれば、こんなところまでフォローしてくれるんだと、感謝の気持ちで一杯になりました。神様にお願いしていたからこそ、長男には優勝よりももっと大きなもの、感動、満足を与えてもらったんだろうなと、終ってから思わせて頂きました。
私たち大人は自分の都合や考えで、祈る・祈らないを決めます。自分の力でできると思ったり、自分の得意なものであったりすると、祈りをとばしてしまいます。でも、神様を頂くということは、子供のように純粋にどんなことでも祈るということではないでしょうか。長男の祈る姿を見て、再認識させられました。
先日、二人の子供たちがいつものように、寝る前のご祈念をしていたときのことです。丁度そのとき、私は体調をくずして横になっていました。お広前から二人の会話が聞こえてきました。二男「お母さんの病気が早く治りますように、よろしくお願いします」 長男「お母さんの病気治るわ」 二男「お願いしたから?」 長男「うん」 私は本当にうれしかったです。私も、こんな純粋な心で神様に向かえるようになりたいと思いました。
そして、二人がいつまでもこんな気持ちで、神様に向かえるようにと、毎日、神様にご祈念していきたいと思いました。【「和らぎ106号」平成13年10月号巻頭言】