大阪生まれのプロ野球ファンとして
  〜30年間阪神ファンやっててよかったなあ〜
    その1

 私は小学校三年生以来、30年にわたる熱狂的と言える阪神タイガースファンです。今さらに言うまでもなく、平成15年のプロ野球ペナントレースは感涙の中幕を閉じました。率直に「阪神ファンでよかったなあ。大阪で生まれ育ってよかったなあ」とこれほど思わされた年はありません。

  思えば18年前、私は大学生でした。あの伝説の「バックスクリーン3連発」は京都の下宿のテレビで見ていました。信じられない興奮と感動の中、あのにっくき読売を粉々に打ち砕いてくれたという爽快感は、今も忘れることができません。そして、10月16日、優勝の瞬間はやはり下宿の小さなテレビの前で一人で過ごしていました。この日は夕方から「今晩麻雀しよや」と友人から誘われていたのですが、「優勝が決まりそうなので今日は勘弁して」と断りを入れました。友人からは「阪神と友達とどっちが大事やねん。たかがプロ野球やんけ」となじられました。でも私はテレビの前を離れることはできませんでした。8チャンネルを見ていると、「夜のヒットスタジオ」のテロップが映った途端、神宮球場の映像が引き続き流れ、胴上げの瞬間を見ることができました。あふれ出る涙をぬぐいながら、心の中で「たかがプロ野球で何泣いてんやろ?」ともう一人の自分が、私に話しかけていました。そのもう一人の自分に「生まれて初めて、阪神優勝の瞬間を見てんねん。泣くぐらいええやろ」と叫んでいました。阪神のその前の優勝は昭和39年、私は昭和40年生まれ。6球団しかないセリーグで、21年間も優勝から遠ざかっていたのは、不公平だと思いつつ、とにかく目の前の画面で胴上げされる吉田監督を見て、夢心地でした。

 翌日早朝、私は下宿から近い阪急大宮駅の売店に走りました。当然スポーツ紙を買いあさるためです。しかし、買えたのはなんと「スポニチ」のみ。すぐに原付を反転させて、次は国鉄(当時は国鉄でした)二条駅に走りました。そこでサンスポと日刊スポーツをゲット。ついにデイリーと報知を手にいれることは出来ませんでしたが、私は十分満足していました。そして日本シリーズは4勝2敗で阪神の優勝。念願の日本一。この瞬間は、大学祭たけなわのキャンパスでラジオを通して知ることが出来ました。そして私は確信しました。「当面、阪神の猛打線による黄金期が続くであろう」と・・・。

 その後、秋までペナントレースを満喫できたのは翌昭和61年と、平成4年のみ。あとは知る人ぞ知る凄惨な成績の連続。でもその間も、タイガースファンをやめようとは、一度たりとも考えたことはありませんでした。むしろ、難儀なわが子をかわいくて仕方ないと思う、親のような心地でタイガースを見続けたように思えます。

  私は自分で自分を「幸運な人間」と思っています。それは大阪に生まれたこと。阪神を応援できること。もとより野球を見るのが好きで、しかも至近距離に実物をみることができる、球場があること。またいくつかの貴重な試合を観戦できたことです。中でも平成7年、私は目の前でオリックスの佐藤義則投手(現阪神投手コーチ)の、史上最年長ノーヒットノーラン(40才で達成)を、藤井寺球場で見ました。近鉄の応援席にいた私は、最後のバッター、近鉄のトレーバー選手(だったと思う)に「凡打して」って祈ってしまっていました。(ちなみに、私はパリーグは近鉄ファンです)トレーバー選手を空振り三振に仕留めた瞬間の、佐藤投手のガッツポーズ、めっちゃかっこよかった。
 
  そういや、プロ野球の開催球場もたくさん行きました(関西ばっかりですが)。甲子園はもとより、真新しい大阪ドーム、神戸グリーンスタジアム、西京極球場、今はなき西宮球場にも出かけました。。でも私はどこよりも日生球場と大阪球場に特別の思いがあります。日生球場では、近鉄、栗橋選手やブライアント選手のホームランが、私の見ていた外野席頭上はるか超えて場外へ消えていくのが壮観でした。間近でみた野茂投手の直球。少しナイター照明の暗い日生では、より速く目に映りました。ちょっとの雨でグラウンドがべちゃべちゃになり、降雨ノーゲームも体験しました。狭いけど、仕事帰りに原付で行ける手軽さが大好きな球場でした。鳴り物禁止の藤井寺とちがって、応援団の人を間近に、ラッパの応援を聞きながら声援するのが大好きでした。どこの球場よりも、観客と選手の距離が近い球場でした。

 昭和63年、この年は春先によく野球観戦に出かけました。日生・大阪両球場での「近鉄ー南海」戦の野次り合い。下品やけどとっても好きでした。相手選手ががエラーすると「南海電車ではよ帰れ!」「近鉄電車ではよ帰れ!」初めて聞いたときなぜかとても笑えました。日生で聞いたときは(ここから帰ろう思うても、地下鉄か環状線しかないやん)って一人でつっこんでました。大阪球場では、肩に抱えた大きなクーラーボックスから「兄ちゃんら、これ飲み」って缶ビールをくれた見知らぬおばちゃんがいて、「ええとこやなあ」と感激していたのがついこの間のようです。まさかその年に南海が身売りするなぞ、思ってもみませんでした。そしてその大阪球場も、日生球場も今はあとかたもありません。隔世の感しきりです。
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