許すこと・受け入れること    近藤 佐枝子

最近、長男とよくテレビを見る。アニメやクイズ番組ばかり見ていた長男も、ドキュメンタリーなども見るようになってきたので、私も話しながら見るのが楽しみになってきている。

 先日ある番組を見ていた時、長男が出演者の一言にものすごく怒り出した。おそらく誰が聞いても、気にならずに通り過ぎるような一言だと思うのだが、長男はすごく気になったようだ。確かに長男の言い分もわかるし、長男の目の付け所には感心したのだが…。

 その後、その人がテレビに出るたびに、「嫌い、嫌い」を連発し、こちらも辟易してきた。

「そんなに嫌わんでも…」と言っていた私も、「誰にでも好き嫌いはあるけれど、好きな人もいるのだから、あんまり人前では言わないほうがいいよ」に変わっていった。色々な人がいて、色々な考え方があって、自分が正しいと思うことが必ずしも、相手にとって正しいとは限らないという話もさせてもらったら、「僕が怒っていることの1パーセントだけ許してあげる」と言っていた。1パーセントだけでも伝わったのなら、ありがたいことだと思う。

 私も最近、友人に対してもやもやとした気持ちを抱えることがあって、ついつい愚痴っぽくなってしまったりする。『嫌い』とまでは思わないけれど、『もう』とか『何で?』とか思って、言い方がきつくなってしまったりして、後で落ち込んだりしてしまう。

そして、そんな時にはいつも自分に言い聞かせる。『この人はこういう時にこうすることが、人を傷つけたり人を怒らせたりと言うことを知らないのだ。知らないことを出来ないことは当たり前だから、怒ったり落ち込んだりしなくていいのだ』『色々な人がいるし、色々な人がいる。だからおもしろい』と。それが相手を許し、受け入れることだと思う。人と共に生きていくためには、それはとても大切なことだと思う。

ここからがもっと大切で、自分もそうして許し、受け入れられて生きていると自覚すること。そしてそういうお互いであるということを、すべてひっくるめて神様にお礼・おわび・お願いができる自分でありたいなと思う。


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