天地の間におっておかげを知らず   近藤 正明 

  「神さまってどこにおるん?」という疑問は、子どもでなくとも、大人でも感じることがあるだろう。その「神さま」という観念について、私たち現代日本人の解釈は少し間違っているのかも知れない。「神さま」と聞いてまず頭の中をよぎるのは、「願い事をかなえてくれる存在」という方が大半ではないだろうか。
 
 神さまがいるかどうかは別として、「地球は誰が作ったんやろ?」「太陽は?」「宇宙は?」などと考えていくと、とにかく人間が作ったものでないことは確かであることはわかる。科学が発達していく過程で、この疑問だけは解決しなかった。「自然にできたもの」としてとらえたとして、その自然にできていく過程を、ある科学者は「神さまのお仕事」ととらえざるをえなかった。ここで「旧約聖書」の『創世記』の冒頭と合致する。
 その昔、神さまは「大きな光を」といって、まず天に光を与えた。「天地創造」の始まりの部分である。
 150億年前、大きな光とともに宇宙は誕生し、それから宇宙は膨張し続けているのだそうだ。多くの科学者が語る「ビッグバン」からの宇宙膨張説である。
 
 どうであれ、人間が作り出したものではない。その人間が作り出したものでないものの恩恵を受けて、私たちは生きているのである、いや、生かされているのである。空気、水、太陽の光は、すべて無料で、しかも無量の恵みを私たちに与え続けている。私たちのいのちに欠かせないものを、タダで与えて下さってるのだから、日々お礼を申して暮らすのは、当たり前のことではないか。その無料かつ無量の恵みを、金光教では「天地金乃神」という名前の神さまとして、頂いているのである。私たちがまず、その神さまにしなければならないのは、「願う」ことではなく、「お礼を申す」ことなのである。
 もちろん、自分の体さえままならない。自分の体の中にある心臓を、一定の時間、自分の意志で止めることなどだれにもできまい。胃腸の働きも自分の意志でしているのではない。ましてや、「産んでくれ」と頼んで生まれてきた人など、誰一人いない。
 
 「天地金乃神大祭」は、そういう天地のはたらきによって私たちひとりひとりが生かされているということを自覚し、そのはたらきを下さる「天地金乃神様」にお礼を申しあげる、お礼中心のお祭である。私たちも人に何かしてあげて、お礼を言ってもらえるだけで嬉しく感じ、また人に喜んでもらえることをさせてもらおう、という気になるであろう。神さまも同じである。
 神さまは、「願い事をかなえてくれる」存在だけでなく、「命の根源を与え続けてくれる、私たちがお礼をし続けるべき」存在であることをしっかり認識し、この天地のはたらきを体一杯に受け止めて、感謝の毎日を送らせて頂かねばならない。

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