対話する  副教会長
  

   最近対話することが下手な人が増えたと言われている。広くいえば人と人との関係だけではなくて、様々な物とよい関係を築くことが下手な人が増えたともいえるのかもしれない。確かに今は色々なツールが増え情報が入ってきやすいとはいえ、目にするトラブルやいざこざはどちらかの一方的なものが増えたような気がする。相手の事情などを理解しようともせず、目の前にある事象だけで価値観や正義感を盾に攻撃する。それで相手を傷つけようが自分が正しいのだからどうでもいい。そんな様子をつい最近も目にして、最近人が対話することが下手になったということも、あながち間違いではないのかもしれないと思った。そして理解し合おうという気持ち=対話する力こそが「あいよかけよ」につながっていくのではないかと思った。

 7月20日付の朝日新聞のザ・コラムに興味深い文章があった。あるシェフの話である。ある時期そのシェフはうまく料理ができないと感じ、野菜の気持ちになろうとシャベルで土に穴を掘って首まで土に埋まった。すると土の中の水脈の音が聞こえ、そちらに手を伸ばしてみようという気持ちになり、根が伸びる感じを理解した。そして地表に出ている部分で風と光を思いっきり感じたいと思った。また土の中にこだまする車の音や、いつもより広い空を感じ、自分の感覚が野菜の感覚になったという。それを聞きライターさんは「野菜と対話しているということですよね」と伝えたそうだ。

 この文章を読んで私はこのシェフの発想と潔さ、天地のお働きの的確さとありがたさに感動し泣きそうになった。そしてそれとは別にふたつのことを思った。
ひとつは対話し理解し合うということは、このようにじっくりと育むものなのだということ。そしてもうひとつは、私たちはいつも神様と対話しようと心がけているだろうかということだ。

一方通行で神様を頼るばかり願うばかりではないだろうか。神様が私たちに手を伸ばして下さっていると実感し、神様、金光様、親先生が私たちにかけて下さっている願いを理解し、成就させていただくためにも、しっかりと神様と対話させていただくように、願い問いかけていくようなご祈念の稽古をつんでいきたいと思った。




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