先覚先師の思いを知る  教会長
  

新年明けましておめでとうございます。
本年も『和らぎ』を、どうぞよろしくお願い申し上げます。


昨年12月17日(日)、教会で布教功労者報徳祭を奉仕し、その後「信心勉強会」をさせていただきました。教会で「報徳祭」を奉仕したのは、初めてのことだったので、まず、この祭典の由来と意義について勉強しました。報徳祭は、教団独立前に、教祖様ご帰幽の後、厳しい御修行を積んで、明治26(1893)年に帰幽された2代金光様、また教団独立前後より、各方面との折衝などご功労くださった一世管長、金光萩雄様をはじめ、金光家の諸霊神様、また全国各地に布教に出られた先覚の先生方に対し、お礼をさせていただく祭典です。
 次に、教団独立前の明治27(1894)年に設立された、神道金光教会学問所(後の金光教学院、金光学園)の設立由来についての勉強をさせていただきました。

昨年1月の近藤藤守先生百年記念祭の際に発刊された、『伝世 近藤藤守』214ページ以降に、先生が学校創設に腐心された内容が記されています。以下に紹介します。

 
藤守の生涯をみわたすと、梅子(夫人)の死以降、青少年育成に力を注いでいるのが目にとまる。その一つとしてまず挙げられるのが、金光中学である。事の発端は、梅子の死から八ヶ月ほどさかのぼる。
 川合萬吉は、自宅でいささかひまをもてあましていた。ここは伊賀国上野町である。
 萬吉は裕福な家の長男であり。慶應義塾で学んだ。しかし、これはという仕事がなく、家でぶらぶらしていた。そんなある日、それは起こった。
 時に明治二十七年二月、萬吉二十四歳のときのことである。
 近藤藤守大先生が、突然、萬吉の自宅に訪ねてきたのだ。
 萬吉の母は神道金光教会上野支所(現、上野教会)の近藤伊三郎のもとに熱心に参拝していた。伊三郎は明治十九年に高阪松之助のもとで入信し、明治二十五年八月に上野支所を開設している。
 萬吉は遊び好きで親の手を焼かせた。親は萬吉を伊三郎のもとに通わせ、さらに藤守の薫陶を受けさせ、やっとまともになった。萬吉は藤守に頭が上がらない。
 その藤守が、わざわざこの山深い田舎に足を運んだのである。いったい何事なのか。
「おう、萬吉。元気かの」 
「はっ、はいっ」
「わしは以前から大本社に学問所を作って、教師を養成したいと思っておったのじゃ」
「は?はあ」
この前、大本社で山本豊というのに会うてのう。これは本部の佐藤範雄の親戚なんじゃが、すっかり意気投合してのう」
「はあ」
「自分が皇典科教授にあたるから、ほかに普通科を受け持つ人ができれば、先生の理想が実現できます、とまことに心強いことを言うのじゃ」
「はあ、それで?」
「わしは、心当たりがあるから、さっそくその人を訪ねてぜひともお道のために働かせる、と約束した」
ここまでくると、萬吉にも話が読めてきた。つまりその心当たりの人物とは自分なのだ。
「どうじゃ、君も道のため国家社会のため、大いに力をつくしてはどうかっ」
 藤守は懇々と説く。その熱心さにほだされて、萬吉はうっかり承諾の返事をしてしまった。しかし、あとで考えてみると、いかにも無理な話である。ことわりに行った。だが、相手は百戦錬磨の布教者近藤藤守である。逆に説得され、その気にさせられてしまった。


 その後、学問所は明治31(1898)年に「金光中学」となり、本科は金光教教師養成、正科は普通教育の学科を修める教育機関として、内務大臣の認可を受けます。
 金光教の独立に向けて、大きなエネルギーとなった学校設立は、藤守先生が悲願とされたことで、この願いが現在の関西金光学園に受け継がれています。
 その草創期に、上野教会に神縁を得た一青年、川合萬吉先生のことも、忘れてはなりません。

 

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