戦後60年に      教会長

 先月18日から21日にかけて、「沖縄戦没者遺骨収集奉仕」に参加させて頂いた。昭和47年、沖縄が戦後日本に復帰して33年になるが、昭和49年より金光教では福岡教会や、信徒会連合本部が主催して、遺骨収集奉仕が続けられている。3年前に信徒会主催の奉仕がいったん終了し、その後は沖縄唯一の金光教である、那覇教会や有志の奉仕団によって続けられている。「一片の遺骨がなくなるまで」をスローガンに、不慮にして戦火に散った人々の遺骨を拾わせて頂くことは、戦後60年もの歳月が過ぎ、平和ボケして風化しつつある戦争の歴史をまざまざと見せつけられた。

 「摩文仁の丘」(糸満市)にある広大な「平和祈念公園」の敷地内には、全国各地から応召されて沖縄の戦地に出向き、故郷を思いながら命を落とした人たちの御霊が、都道府県や地域ごとに祀られている、きれいに整地された石碑の後ろに、亜熱帯植物の鬱蒼とした密林がある。その中を奉仕団の方々と一緒に伐採しながら奥へ進む。中へ進むと珊瑚と岩礁でできた自然壕(鍾乳洞の小さいやつ)が無数にある。沖縄戦で米軍によって追いつめられた生き残りの県民や兵士は、ここへ逃げ込んだのである。

 壕の中へ入ると真っ暗で、人一人が腹這いになって進むのが精一杯くらいの通路を進んでいくと、少し広い空間がある。その付近の土を掘ると、砕骨が散らばっていた。初めて参加した私は、はじめ鍾乳石の破片なのか、木片なのか、識別がつかなかった。しかし、何度も奉仕に行かれた方から「石は冷たくて重いけど、骨は軽くて冷たくないねんよ」と教えて頂き、初めて遺骨に触れたときには、「60年もの長い間、こんな真っ暗なところで・・・」と何とも言えない思いがこみ上げた。慎重に石か骨かを識別していき、だんだん手の感覚が慣れてきて、冷たさがわからなくなってからは頬に当てて遺骨かどうかを判断していくようになった。
 
遺骨の他にも薬のアンプル、軍靴など、60年前の遺品が数多く見つかった。同じ班で奉仕したベテランの団員さんは、手榴弾のピンや薬莢、実弾などを発見され、そういったものを自身で手に触れたときは、とても「戦争が終わった」など言えないなあと痛感した。

 私は1日目と2日目午前中まで、その作業に参加させて頂き、2日目の午後は奉仕団本部で、遺骨の「お清め」奉仕御用をさせて頂いた。今回の奉仕作業で収集された遺骨だけでなく、県内各地で発見されたおびただしい数の遺骨が、奉仕団本部に集められていた。厚生労働省が、供養を那覇教会へ依頼したものだそうで、発見現場と日付が入った、大きな白い袋がたくさん並べられていた。そのうちの一つには「那覇市、新都心建設現場」とあり、それを開けると遺骨や遺品がたくさんでてきた。那覇の市街地も少し地中を掘ればまだまだたくさん遺骨が埋まっているということである。時間の許す限り、一片一片の遺骨を清めさせて頂いた。

 夕刻より奉仕団員全員が集まり、那覇教会長、林雅信先生をご祭主に慰霊祭が仕えられた。無念の死を遂げられた人々の事を思うと、霊様たちの立ち行きを心から願わせて頂くとともに、今の平和が恒久に続くことを祈らずにおれなかった。

 私たちが奉仕作業をさせていただいた摩文仁の丘から見える太平洋は、言葉にできないくらい美しい。その絶景の丘に、まだまだ多くの遺骨が眠っているのである。
 沖縄は今も、米軍基地の問題をはじめとして、太平洋戦争の多くの「負の遺産」を抱えている。私自身、戦争の「せ」の字も知らずに39年間生きてきたが、次の世代へ必ず戦争の恐ろしさと悲惨さを語り継いで行かなければならない。沖縄は、全国でも唯一といってよいであろう、戦争をじかに手で触れることのできる場所であることを実感した。沖縄へはたくさんの観光旅行者が訪れる。おいしい料理に舌鼓を打つのもよいだろう。美しいビーチで泳ぐのもよいだろう。しかし、この戦争の悲惨さ、平和の尊さを、沖縄へ旅行する方たちは必ず見て聞いて欲しいと願っている。


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