思うこと=祈ること   近藤佐枝子

 長男が修学旅行から帰ってきて、お土産を出しながら、「お母さんは喜ぶと思うわ」と言ってきた。長男は野球の遠征や合宿に行くと必ず、家族ひとりひとりに、決められた小遣いの中から、お土産を買ってきてくれるのだが、今回はすごく自信があったようだ。今までは、お父さんや弟には文房具であったりして、選びやすいのだが、母親である私が、どういうものを喜ぶのか、難しかったらしい。でも、「これだ」という物が見つかったのだろう、とても嬉しそうに手渡してくれた。袋を開けると、私の好きなプロ野球選手(H・TのF選手)の携帯ストラップだった。しっかりと説明書きも読んでくれていたようで、「裏側で携帯の画面を拭けるねんで」と教えてくれたりした。
 そんな長男の様子を見て思った。純粋に相手のことを思って何かをする時、そこには、相手に対しての祈りが生まれるということ。ただただ、相手が喜んでくれたらいい、相手のお役にたてたらいい、相手が助かってくれればいい。結果、相手主体の祈りがうまれるんだなと思った。それが自分と相手両方の喜び、感謝につながっていくんだと思う。
 同じ事をするにしても、見返りを期待してしたり、おしいと思ってしたりすると、そこには祈りではなくて欲が生まれ、使わなくてもいい余分な気を使ったり、人間同士のいらない駆け引きが引き起こされて、助かりからはかけ離れていくような気がする。
 どうせなら、喜びあいながら生きていきたいものだと思う。

 先日、二男の友達のお母さんから聞かされたことがある。それは「ひーくん(二男のこと)って友達とけんかして『ぶっ殺すぞ〜(子供が言い合っている言葉なので、乱暴ですが…)』とか言われても『僕には神様がいるがら大丈夫』って言うねん」ということだった。そのときは大笑いしたのだが、よくよく考えるとそのことは、信心の基本だと思って感心した。二男は二男なりに、神様を感じ、神様を思い、神様に祈り、神様を信じているんだなと思った。
 信心のけいこをさせて頂いているお互い。お互いを思いあいながら、その思いを神様に祈りながら、神様を含めたいい関係を築き合いたいものだ。

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