「おもしろい」   近藤佐枝子

 
 最近、中学2年生の長男と、同じテレビ番組や映画を見たり、同じ音楽を聴いたりすることが増えてきた。時には、「お母さんこれ絶対読み、面白いで」と小説を持ってきてくれたりもする。こんなふうにお互いに、面白いと思う物を交換しあったり、それについて話したりするのが、とても面白くてたまらない。
 同じ物を見て、同じように思うことももちろんだが、へぇそう思うのかとか、そこに興味をもつのかなどと、違う感じ方をしたときに、目から鱗というか、そんな思いが強くなる。

 以前、ある障害をもった方のドラマを1クール、一緒に観たことがあった。長男はその主人公の事を「面白い」と表現した。最初、私はショックだった。本人には言わなかったが、なにか間違えていないか、そんな感想でいいのかと思った。しかし最終回に近づくにつれて、私が間違っていたということに気づいた。長男は主人公のことを「好き」で「可愛い」とも表現した。長男のいう「面白い」は、滑稽に思ったり見下したりという思いは微塵もなく、主人公の性格や言動に共感し、感動した褒め言葉だったのだ。 
考えてみれば、「面白い」という言葉は特に最近は褒める事にしか使わない。それがわかっているのに、対象が障害をもった方だったために、私が別の受け取り方をしてしまったのである。とても反省させられたし、自分の傲慢さに気づかされた。

  このように、子どもから気づかされることがたくさんある。だから、同じ物を観たり聞いたりしたときに感じたことは、なるべく隠さないで正直に表現していきたいと思う。お互いに影響し合えるのは、とてもすばらしいと思うから。
長男は今、再びそのドラマのDVDを持ち出して第1話から観ている。


 

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