願い事ってかなうの?   近藤 正明


 

 ある日、高校3年生の授業である男子生徒が「先生、金光教の神さまにお願いした事ってかなうの?」と訊ねてきた。授業の冒頭で唐突に浴びせられた質問に、私も一瞬言葉に窮したが、「願い事にもよるけど、どんな願い事や?」と聞き返した。「うう〜ん、みんなの前ではちょっと言いづらいねんけどなあ」とためらったので、そこで話を切って私が普段から感じていることを話すことにした。

  みんな、「苦しい時の神頼み」とか、「わらをもつかむ思い」って言葉知ってるよね。これって普段神さまを必要としやへんときは、神さまに見向きもしてへんから、こんなことわざで表現されるようなことになるんやなあ。でも、よくよく考えてみると、たとえばお正月に神社へ初詣に行ったとき、みんなはどんなお願い事するやろ?「受験合格祈願」やろか?「片想いの好きな人が自分の気持ちに気づいてくれるように」やろか?あるいは「将来お金持ちになれますように」やろか?それとも家族や友だちに病気で治療している人がいて、その人の回復を祈るかなあ?

 先生は、さっきの質問の答えを言うとするならば、「条件付きですが、願い事はかないます」って答えるで。でも、今から言うこと間違えんように聞いてや。

 願い事は「条件付き」でかなうねんけど、「欲」は原則としてかなわへんよ。「欲」っていうのは、自分さえよければ他人はどうなってもかまわへん、っていう種類のもんや。たとえば、「あいつが嫌いやから死んで欲しい」なんて神さまに祈ったとしよう。逆にその嫌いな相手も、「あいつが嫌いやから死んで欲しい」って神さまに祈ったらどうなるやろう?神さまは困りはると思うねん。神さまって、人間が苦しんでるのをみたら、自分のことのように苦しみはんねん。だからいつも人間みんなを平等に、「幸せになって欲しい」って思い続けてはるんが神さまの気持ちやねん。だから、誰か一人が祈ったことで、その人だけがいい目にあって、他の人が悪い目にあうってことは神さまの気持ちからしたら考えられへんことやねん。ということは、「自分さえよければ」っていう「欲」をかなえるようなことはないと思ってや。

 それに対して「願い事」っていうのは、他人が幸せになることをお祈りしてもしそれがかなったら、祈られた対象の他人もうれしいし、その願い事をしてた自分もうれしいやろ。こういう願い事は不思議とかなうことが多いねんよ。でも条件があるねん。「一心に願え」って言葉が『天地書附』にもあるやろ?「こんな願い事、神さま聞いてくれはるやろか?」って疑ったらあかんよ。あんたが人から頼み事されたときに、「君に任せてもほんまにしてくれるかどうかわからんけど、頼むわ」みたいな頼み方されたらごっついいややんなあ。それと一緒。神さまは目には見えへんけど、信じてる以上は必ずかなえて下さるって気持ちで、決して疑ったらあかんねん。一心になるってすごい難しいことやけど、この条件をクリアしてかつ、「欲」ではなく、それが「願い事」ならかなうよ。受験祈願でも、「○○大学△□学部に合格しますように」ってお願いしても、ただの欲やで。でも「受験に向けて健康で精一杯勉強させて下さい。そして将来社会のお役に立てる人になれるよう、自分にふさわしい大学に行けるよう、お願いします。できれば○○大学が希望です。」なんてお祈りすれば、「願い事」に近づくんや。とにかく、他人の幸福を先に祈れば「願い事」に近いし、「自分さえ」って気持ちが少しでもあったら「欲」やからね。先生もいまだにその辺がわかってへんことがあるわ。宝くじを買ってきて、抽選日まで神さまにお供えして「一等三億円が当たりますように」ってお祈りしても、一万円すら当たったためしないねん。神さまは、先生の心が「欲」中心ってことを知ってはるからやろなあ。まあとにかく、君のお願い事が何かは知らんけど、「欲」と「願い事」を勘違いせんようにねえ。それと、もし受験祈願なら、いくら願い事としてお祈りしても、努力なしにして合格はあらへんよ。

 なんて話をさせていただいた。彼らは時折笑いながら、あるいは頷きながら熱心に耳を傾けて聞いてくれた。でも一番理解しなければならないのは、話をしている私自身であったことはいうまでもない。



    バックナンバーへ