夏の思い出         近藤正明

 金光教三重県教会連合会の「ご献米」の行事が8月31日にクライマックスを迎えた。教祖120年記念に、ご本部に「ご神米」をお供えしようというこの企画は、とてもありがたく尊い行事と思い、無事成功と、豊作を祈らせて頂いていた。
私は5月に生まれて初めて、田植えを経験し、8月31日、同じく生まれて初めて稲刈りを体験した。その稲の一束をぐっと握って鎌を入れた瞬間に、意を決することがあった。「この稲穂がほしい」
金光八尾高校三年は、8月29日に恒例の本部参拝をさせていただいた。その際、講師の先生が「私は生まれて初めて、三重県の田で田植えを経験しました」という話から、教祖様の農民としてのご苦労や、その経験から生まれてきたみ教えなごを通じ、天地と人間があいよかけよで成り立っている仕組みを、生徒にわかりやすくお話してくださった。
図らずも講師の先生と一緒に植えた田の稲穂である。なんとか生徒にじかにその稲穂に触れてもらって、天地のはたらきの大きさを知ってほしい、という願いが沸々と高まり、連合会長・副会長にお願いし、ご快諾のもと、稲穂を頂いた。
その時にふと頭の中をよぎったのは、金光教教典に出てくる「すいかの初なり」のみ教えだった。
ある信者が教祖様のもとに、畑でなった初なりのすいかをお供えに参拝する道中、子供連れの婦人とすれ違い、すいかの経過を話すと、子供が「ぼくも金光様になりたい」とすいかをほしがり、ふびんに思ったこの方が子供にすいかをあげてしまう。てぶらで教祖様のもとにいかれると、教祖様がいきなり、「あなたがお供えしようとしたすいかは、神様が喜んでお召し上がりになっておられますぞ」と申され、感涙にひたったというお話で、形でなく、真心をお供えすることが神様の一番のお喜びである、という典型のお話である。
私は生徒たちに、この話を紹介しつつ、真っ先にご本部にお供えすべき稲穂を、すいかをほしがった子供のように先に頂いてきたこと、これらはすべて「ご神米」になること(「ご神米」の話は、高校二年生の時に授業で話されている)、今年のように冷夏になると、人間がいくら思いをこめて作っても不作になること、これはまさしく天地がお米を作ってくださっているのであり、人間はそのお手伝いをしているにすぎないことなど、生徒全員に稲穂に触れてもらいつつ、お話させて頂いた。
さらに昔の人の、籾がらや藁の使い道について触れ、天地の間にできてくるものには何
一つ無駄になるものはないこと、私たちが頂いたご飯が、血となり肉となり、不要なものは便になって排泄されるけど、それを田にまいてお米を作っていたことなど、機関銃のように語り続けた。
授業がすんでから、ある生徒が「先生、今日の話めっちゃ感動したわ。お米って不思議やねんなあ。」とか、「先生、あの稲穂、一本ちょうだい。ご神米と思って大切にするから」と言ってきてくれた。私はそのことで、「稲穂を先に頂いたことを、神様が喜んでくださったんや」と、話を聞いてくれた生徒たち、そして神様へお礼の気持ちでいっぱいになった。
私は本来の筋からすると、神様へのお供え物を先に頂いたご無礼者かもしれない。しかし神様は、私たちをいろんな形でお役に立つ御用にお使い下さろうと、思っておられる。私のさせて頂いた授業が、今後の生徒たちの生活によいはたらきとなるように祈りつつ、これからも私自身、さまざまな御用に使って頂ける人間になりたいと願わせて頂いている。

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