「成り行きにまかせる」          近藤佐枝子        

 

 4年程前からずっと頭から離れない話がある。2003年の今頃、ちょうど、星野監督率いる阪神タイガースが18年ぶりの優勝を決めた後だったと思う。友人に誘われてある講演会に行った。恥ずかしながら、先生のお名前も、話に盛り込まれていたエピソードも何も覚えていないのだが、ただひとつだけ忘れられない話があって、事あるごとに思い出してはそのことについて考えている。当時の和らぎにも書いていたことを思い出して読んでみたが、当時自分が感銘を受けたところが別のところで、今までずっと頭から離れなかった話については、軽くふれるだけだったということもおもしろいと思ってしまう。それはこんな話である。

 生きるということは、川に浮かんで流れているようなものである。場合によっては流れが速くなったり、荒れたりすることもあるだろうが、そのあるがままを受け入れ、流れにまかせて流れていけばいい。橋げたや岩にぶつかったりして痛みを感じても、「あ痛い!」と言っていればいい。自分でなんとかしようとあがいたり、流れに逆らおうとしたりするから不都合がおきてくる。

 この話を聞いた後色々な経験をして、納得できることが多く、この話を何度も反芻している。普段私たちは流されて(生かされて)いるのである。この流れのおかげで前に進んでいるのと同じに、人生も神様のおかげがないと前に進んでは行けない。しかしそのことを忘れ、自分の力で前に進んでいっていると思ってしまう。だから川が荒れたりした時(何か難儀なことが起こった時)に、自分で何とかしようと思ってあがいたり、この流れは間違っていると流れに逆らったりして、おぼれてしまうのである。あるいは、疲れて力尽きたりしてしまう。そうではなくて川が荒れても、いつもと同じように流れに身をまかせていればいつか荒れもおさまるし、荒れたところから抜け出せるということだと思う。

 そういう心持ちになるために、普段から稽古をしなくてはならない。それが日々のお礼・おわび・お願いであり、神様のおかげの中で起こってくる目の前にあることを、神様と共に精一杯こなしていくということだと思う。
 そして流れにまかせる(成り行きにまかせる)うちに神様から色々な意味での転機(タイミング)のおかげを頂いていくのだと思う。それが、流れが変わったり、別の川に流れていったりすることだと思う。そのタイミングのおかげを逃さないように、日々の信心の稽古をし、また神様からのメッセージを漏らさず聞くために、しっかりと神様の方に向かって、流れていきたいと思う。

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