何事も「ご用」として  教会長

  このところ、毎日いそがしい日が続いています。
 各教会での大祭シーズンに加え、式年祭、週末二度の九州への出講、そしてこの大祭の準備、
さらには落語会の宣伝活動、日々の学校ご用(付け加えて、吹奏楽部のアンサンブルコンサート
のピアノ伴奏)とありましたが、ありがたくおかげをこうむっています。

 私は「いそがしい」をあえてひらがなで書くことにこだわっています。それは漢字で書くと「りっしん
べん」に「亡」となり、「心がない」という意味になってしまうことになるからです。「いそがしくて暇が
ありません」こんなありがたいことはないと思います。使っていただけることを、心から喜び、そして
楽しむことをこころがけています。これが、いやいや引き受けたり、義務的に行動したりすると、ご用
を与えてくださっている方に対して失礼になるし、ましてや神様からのご用となると、ご無礼極まりない
ことになるでしょう。まさしく「心がない」状態です。

 今年に入り、人のお指し向けのおかげ、タイミングのおかげが恐ろしいほどにはまります。人間業と
はとても思えないことが連続して起きてきます。
 昔、重責を担われたある先生が、四代教主金光様に「私のような者がこの役に就かせていただいて…」
というような主旨のことをお届けされたら「(私の)『ような者』は要りません。『私』でよろしい。」と御理解
下さったという話を聞いたことがあります。「ご用」をありがたく受けさせてもらえば、必ず道がついてくるし、
不思議にたくさんの方が支えてくださるということを、実感させていただいております。

 そんな中、月末〜月頭の九州出講ご用では、ひとりでは滅多に行けないような素晴らしい場所に案内して
もらったり、普通ではまず直接会うことのない方々と巡り逢うなど、たくさんのプレゼントをいただきました。
神様からいただいたご褒美だと思いつつ、これからもますますお役に立つご用に、元気でお引き立ていた
だきたいと念願しています。


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