認め合う   副教会長
  

先日、面白い写真を見ました。鉄道模型の線路を組み立てて電車を走らせた瞬間に、寝転ぶ子供たちの姿を写した写真です。最初は線路を組み立てるのに疲れて寝転んでいると思ったらしいです。でも何度か繰り返すうちに、子供たちはいつも見ている角度で電車が走っているのを見たかったようで、だから寝転んで見ていたということがわかったそうです。

 そういえば当時は深く考えなかったけど、うちの子供たちも小さい頃、寝転んで見ていたことを思い出し少し微笑ましく思いました。

 大人は自分が組み立てた線路に電車がどう走るかという目線で見るから、俯瞰で見る人が多数だと思います。そしてそう見ることが当然と思っていることに気づきました。鉄道模型を例に出しましたが、ひとつの事でも色々な見方ができればなにか新しい発見があるような気がします。

また、人のものの考え方も様々です。だからこその役割があるわけです。教祖様も「もし、五本の指がみな同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので物がつかめる。それぞれ性格が違うので、お役にたてるのである」(天地は語る304)とみ教え下さっています。

違った考え方を理解し合う、分かり合うことはとても難しいことなのかもしれません。大切なことは認め合うということだと思います。相手の考えを無理に理解しようとすることよりも、相手がそう考えていることを認めるということです。それが色々な見方ができるようになる一歩ではないかと思うのです。


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