「違ったものがわかりあう」     副教会長
    

 

 先日「ぼくに炎の戦車を」というお芝居を観てきた。昨今の日韓の事情から上演が危ぶまれていたお芝居で、日韓の俳優たちが在日韓国人の演出家の元で、日本の植民地支配下の朝鮮を舞台にした群像劇だった。

 朝鮮文化や白磁を心から愛する日本人教師と、身分の低い放浪芸人集団である男寺党の親方との友情の物語を軸に、ナイトクラブを経営する日本人と韓国人のハーフの男の苦悩とその家族との葛藤や、朝鮮で一旗揚げようとした男の末路、男寺党の掟と悲劇などが描かれていた。

 物語が進んでいくと、男寺党の掟にしたがって親方が団員にした仕打ちに対して日本人教師が嫌悪感を覚え、友情に亀裂が入る。日本人教師と男寺党の親方は義兄弟の契りを交わしたほどわかり合えていたはずだった。

男寺党にとっては、人の施しを受けながらでしか生きていけない自分たちを守るための掟であるのだが、日本人教師にはそれを理解できない。親方が仲間を切り捨てたことに対する怒りが爆発する。生きてきた環境、文化、考え方その違いというものは大きいと実感する一幕だった。

その後この二人が互いに心情を吐露したり、友情を取り戻すための葛藤の場面は描かれていない。ただ親方が切り捨てた仲間のために、そして自分たちには心や誇りがあるということを示すために、成功したことのない綱渡りに挑戦する。そしてそれを見た教師が許すのである。

この流れに少し物足りなさを感じたのだが、後から考えると描かれなかったことが演出家の伝えたかったことではないかと思った。違った者同士がわかりあうということは、とても難しいことだと思う。全く違う生き方をしてきた者同士が、互いの立場に身を重ねることなんて簡単にできることではない。言葉で伝えるのには限界があるし、感情でぶつかれば誤解も生じやすい。だからこそ、違いを乗り越えるために自分の生き様や本気を見せる。そして違いを認める。きっと、日本人教師は団員に対する仕打ちを理解したわけではないと思う。ただそういう生き方を認めたのだと思う。それがわかり合うことに繋がっていくのではないかと思った。

ラストシーン、日本人教師がウィリアム・ブレイクの詩を引用して希望を謳う。この登場人物たちは今まで以上に過酷な状況にある。それでも希望を謳う。「心の闘いから一歩も引く気はない」どんな苦しみ、かなしみ、絶望がおしよせてもいつも胸に炎の戦車を抱いてそれらと闘い続けることを誓う。彼は闘い続けた先にある希望を見つめているのである。

その演出から私に伝わってきたのはやはり希望だけだった。そして登場人物たちの笑顔だけだった。彼らが過酷な状況にあるということをうっかり忘れさせられたようだった。と同時に、今の時代に希望や笑顔を表現することがとても大事だということがわかった。

 

 

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