交通安全祈願   副教会長


先日歩いて買い物に行った帰り道の途中、交差点で右折車と左折車の衝突事故を見た。幸いなことに周りに車や人もなく、
運転手同士も車から降りて話をしていた様子で、大きな事故にはならなかったようだった。私もその交差点の数メートル手前
を歩いていたので大丈夫だったが、もう少し早くその交差点に着いていて横断歩道を渡っていたら巻き込まれていたかもしれ
ない。そんな状況だった。

 その時はまず事故に巻き込まれずにありがたいという気持ちが先立って、心の中でお礼をしいしい教会に帰った。そしてご神前
でその事故のことをご祈念させていただいた。大きな事故にならなかったことのお礼と、事故をおこしてしまった方々の今後の立ち
行きなど、思うがままに祈らせていただいた。それで十分だと思っていた。

 数週間後、親教会のご祈念会に参加させていただいた。信奉者の方々の信心体験発表がありその中のひとつがご自身の
交通事故の体験からのお話だった。一生懸命お話しされているのを聞いているうちに、自分が事故を見たときよりもなにか
ドキドキしてきて、色々思い返されたり考えさせられたりした。事故を見たことと体験発表を聞いたことこのふたつが合わさって
自分の思いが足りなかったということに気づかされた。

 事故は自分が気をつけてさえすれば防げるものではない。だからこそ新車購入交通安全祈願祭の祭詞の中で教会長が
「行き交う車とも運転の上に過ちなくあらしめ給へ」と願っている。それをしっかりと忘れずに自分も願っていかなければならない。
そして車に乗る時だけではなくて、歩行者として道を歩く時も、教会にいて外を走る車の音に気ついた時も、道行く車の
無事安全を祈れる自分でありたいと思った。


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