心を荒らさず亡ぼさず      教会長

 新年、明けましておめでとうございます。本年も、名張教会「和らぎ」をどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は一年間、自分でもようやったなぁと思えるくらい、忙しさ続きでした。
その上、自分が受け持つ仕事・御用の中で、のっぴきならぬことも起こり、気持ち的には浮き沈みが激しい年でした。
  そんな中リアルに実感したことは、あたりまえのことなんですが、何事も「心をこめる」ってこと。忙しい(心を亡くす)からと言って心が荒れる=つまり「慌てる」と、一つひとつきちんとこなすべき事ができなくなるってことでした。
コレといった大きな失敗はなかったのですが、「ここをもっとこうしといたらよかった」とか、「あそこでもうちょい角度を変えて発言しとけば…」「あの時、あのことにもう少し心をこめて取り組めば」など、反省しきり。今年は何をするにも「心をこめて」を目標に過ごしたいと思います。

 それにしても、昨年一年を表す漢字の「偽」。あまりにも情けない。そういや、「情」の字は「こころにエキスを与えて澄みわたった」という意味があるそうで。やはりこころが濁ると、人心だけに為し得る「偽り」が平気になるんやろか。
 先般、テレビで、ある歌手の方が「世の中、知識だけを持っている者は滅ぶ。知識だけの者は機械=ロボットと同じ。文化・教養を持ち合わせなければならない。文化や教養とは、『礼儀・作法をわきまえた者』である。」などと話しをされているのを聞きました。
 教養を辞書でひくと、「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は、時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」とありました。
 金光教の信仰に置き換えてみたらどうでしょう。み教えや教義はたくさん知識として持っていても、その中身を体現できているでしょうか。この歌手の話を聞いて、私自身が「金光教を知っているだけで、本当に信仰しているんやろか」と、自問自答しなさいと、神様から釘をさされたような気がしました。

 今年は上のような意味での「教養」を身につけるけいこをしたいと思います。また、気持ちを切り替え、快=「こころのしこりをえぐりとる」の文字で象徴できるような一年を目指したいと念願しております。



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