心に山をこしらえる  副教会長
 
 先日、比叡山延暦寺にお参りさせていただいた。失礼な話だが、最初はお参りというより、ある意味観光気分で仏像や建築物を観て楽しむつもりで行った。三つのエリアをすべて回り、とても楽しませていただいた。そんな中でひとつ考えさせていただいたことがあった。

 あるお堂の前に「修行中に尽きお静かにお願いします」という立て札がたっていた。そのお堂の中にこもり一心に修行されているのだろう。その方のご修行成就を祈りながら話す声も小さくなり、なるべく静かに歩こうとする自分がいた。
また、別の場所では列を組み、お経を唱えながら山道を歩く修行をされている方々がいた。後ろのほうの人は小走り状態だった。回峰行をされておられたのだろうか、思わず手を合わさずにはいられなかった。
どちらの修行をされている方々も世俗を離れ、ただただ自分と向き合ってお徳をつまれようとしている。本当にすごいことだし、私には到底真似できないことだと思う。

 私たちはそういう修行の代わりに、日々の生活の中で信心のけいこをさせて頂いている。不平不足を言わず、身の上におこってくることをすべて受け入れて感謝の気持ちを持って生活を送るということだ。しかしそれはものさしで測れるようなものではないので、ついつい忘れがちになってしまうことも多い。そんなことを反省した。
そしてお堂の前の立て札をみて、自分に足りないところはここだと思った。ついつい人に求めてしまう自分に気付いた。「静かにしてほしい」とか「○○してくれたらいいのに」とか。不自由を行としてとあるが、そこのところをしっかりと心がけていきたいと思った。
求める心を祈りに変えて日々信心のけいこに励みたい。そんなことを思わせていただいた比叡山参拝だった。
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