結局のところは自分      副教会長

 よく行くスーパーの近くの家に、庭でブロック塀を相手にキャッチボールをしている男の子がいる。そのスーパーがオープンした当時はまだまだ小さくて、子ども用の音が鳴るボールを転がして遊んでいた子が、今では小学校低学年位だろうか。しっかりとグローブと軟球を使って、しかもサイドスローでバッチリと決めていた。庭といってもそんなに広いわけではなく、対人でキャッチボールができるわけではない。そんな中でボールを手にして以来、少しずつ練習を重ねるうちにこんなにも成長している姿を見させて頂くのは、他人であり、名前も知らない、そして時々見かける私でさえ感慨深いものがある。
 そんな姿を見ると、信心の稽古も同じではないかと思った。与えられた環境に感謝し、その中でいかに自分が稽古を積めるかということではないかと思う。そして進み具合に応じて、子ども用のボールが段階を経て軟球になっていくように、神様は色々なステージを用意して下さるのだろう。だから結局のところは自分がそれにどう取り組んでいくのか。大切なのはそこではないだろうか。
 先日臨床心理士の友人から、母校でワークショップを開くので受講しにこないかという誘いがあった。正直興味深い内容だったのだが、参加できる日程ではないのでお断りした。自分の中で色々な葛藤があったが、参加するべきであれば日程のお繰り合わせを頂けるだろうし、定員もあることだからきっと私より受講するべき人がいるのだろうと思うことができた。結局のところは自分がどう受け取るか。そう思えることで次に友人と会う機会にどんな話をしてくれるのか、俄然楽しみになってきた。
 インターネットのTwitterで言葉を集めたアカウントがある。今日みた言葉は「相手のことが許せない時は、相手のことより、相手を受け入れられない自分の器の小ささに目を向ける」という言葉だった。言うのは簡単で行うのは難しいだろうけど、努力したいと思った。結局のところは自分がどちらを向くか。相手を責めるよりも、最終的に心穏やかなような気がする。
 
神様は私たちに色々なメッセージを色々な形で送って下さっているのだろうと思う。それをどう受け、どう取り組み、どう自分のものにしていくか。そこが永遠のテーマかもしれない。
 ただただ、神様のお心にそうような受け方ができるように、日々稽古を積み感性を磨いていきたいと思う。

                        

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