笑わせたい 喜ばせたい  近藤正明

新年を迎え、「おめでとう」という言葉を交わし合う。「おめでとう」と言い合う時、みんなにこにこ笑顔であいさつする。だれもが、新年を嬉しく迎えているから、あいさつの時、自然に顔が笑顔になるのだろう。

ところで、人が嬉しい時はどんな場面であろうか。何か自分にとって都合の良い物をもらったとき、あるいはしてもらったとき、だれでも嬉しいと思うにちがいない。

先日、テレビで「カツラが大好きな小学生」というテーマで、その小学生を取材していた。番組があった。彼は小学2年生。近鉄百貨店の包装紙や画用紙、絵の具などを使ってかつらをたくさん作り、家の中でかぶっていた。とにかく小さいときからカツラが好きで、それをかぶって家族の笑いを誘っていたらしい。その彼に「なぜカツラが好きになったの」と聞くと、彼は「人を笑わせたり、喜ばせるのが好きやから」と答えていた。そして「将来は?」の質問に「吉本に入ってお笑いタレントになりたい」と答えた。その彼の純粋な答えに、私はとても共感できるものがあった。そしてふと、こんなことを考えた。「笑わせる」「喜ばせる」ということは、与えきることで、自分に物質的収穫というものはない。しかし、「笑わせる」「喜ばせる」ことによって自分も喜ぶことができる。この道の神様の思いと同じだと思った。

『天地金乃神』という神様の心は、まさしく「笑わせたい」「喜ばせたい」という心である。『天地は語る』28節によると、「神は、人間を救い助けようと思っておられ、このほかには何もないのであるから、人の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる」とある。何かを与えることによって喜ぶことができる。世界中の人みんながそういう気持ちになれば、すごい世界ができるんやろうな、なんて思いながら、こんな「かつら好き」の小学生のような子供が、1人でも多く増えるような世の中になればなあと思った。私自身、少しでも人を喜ばせ、笑わせる一年にしていきたいと思う。80年記念祭は、そんな「喜び喜ばれ」の祭典でありたい。

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