「神様を感じる場の力」   教会長
  

「先生、聞いてください。昨日、○○なことがあって…。」昼休み、昼食が終わるやいなや、駆け込むようにやってくる生徒たち。午後の授業が始まる予鈴の直前まで、賑々しい。
 金光八尾中学校・高等学校の「お広前」は玄関ロビー横にある学生食堂の隣に位置し、昼休みに参拝してくる生徒が多い。彼らは、何かの問題を抱えて、または興味本位でお広前を訪れるが、暖色の照明が柔らかく敷居が低く、畳の香りが漂う空間に癒しを感じ、用意された「お届け用紙」に思い思いの願いごとや感謝のことばを記し、宗教科教員と対話し、ともに祈る。

「近頃の若者は宗教離れが甚だしい」ということを聞いて久しいが、お広前に来る彼らを見るとそうは思えず、とても純粋な心で神に向かおうとする姿勢を感じる。 願いごとの内容は、「アイドルグループのコンサートチケットが当たりますように」「友だちと仲直りできますように」など、今どきの中高生らしいものが多いが、参拝生徒たちの願いごとが不思議に叶うことが多く、別の友だちを連れて参拝してくるということが普通にある。「教祖様がお取次を始められた頃のお広前って、こんな様子だったのだろうか」と思う。

 毎日参拝してくる受験を控えた高三の女子生徒がいる。彼女は決まってお届け用紙に「いつもありがとうございます」から書き始め、志望校合格祈願のことを記していた。しかし、残念ながら不合格通知が来た。翌日「先生、本当にごめんなさい。あれだけ先生にお祈りしてもらったのに、合格できませんでした。次は受かるように、しっかり勉強します」と報告にきた。私は彼女に対して、自分の祈念力の足りなかったことに申し訳ない気持ちになったが、彼女がお広前で感じる神様は、単なる現世利益的信仰の対象ではなく、感謝するべき対象としての神様であることを意識していること、そして共に祈る私たち教師への感謝の思いも持っていてくれていることに、感動した。私は「どうやって神様に心を向けたらよいのか」ということを自然に教え導いてくれる「場の力」が、お広前にあるのではないかと思わせられている。

 時には騒々しいとさえ思える本校のお広前は、本来あるべき教会広前の姿とは少し違うのかも知れない。しかし、未信奉者の生徒たちが「先生、聞いて!」と飛び込んできて、話したいことを話し、教師と同じ方向=神前に向かって祈る様子を見ていると、改めてお広前の魅力を再認識させられる。教会が社会に大きく開かれ、誰でも入りやすいお広前を築いていくためにはどうすればよいか、学校広前にそのヒントがあるような気がする。

(金光新聞1月27日号『フラッシュナウ』 教会長執筆文 一部改題)


  「和らぎ」バックナンバーへ