カ・ミ・サ・マを実感する  教会長

新年明けましておめでとうございます。本年もますます大みかげの年となられますよう、お祈り申しあげます。


 昨年より、金光教大阪センター主催の「現代社会問題研究会」の研究員のひとりとして、御用を頂いている。この研究会は、長年にわたって進められてきた関西金光学園三校の宗教教育の教育課程、授業内容をもとに、金光教信奉者はもとより、未信奉者が「本教信仰に基づくこころの教育」について、理解を深めることのできる読本の編集を進めていくことを願いとして、設立された。
 私も含め、三校の宗教科教員6名がそれぞれの学校で展開している、授業内容を検討していく作業が進められていく中、見えてきたことは、「天地の中に生かされて生きる、ということに気づく」「生かされて生きるということの不思議なはたらきに感謝する」というテーマが必ずといってよいほど含まれており、さらに「いのちの大切さ」を訴えていく内容となっている。このテーマが「山頂」にあり、その山頂をめがけて登っていく登山道を各教員が切り開いているというイメージが浮かんだ。

 ところで、私がいつも気になるというか、どうしてよいかを迷うのは、永遠のテーマとでもいうべき、若い人たちに『神様』という存在をどう伝えるか、ということである。授業では極力、いわゆる「金光教用語」は使用しない。また「神様」という言葉もやむを得ない場合を除いては発することはない。とはいえ、先述したテーマ「天地の中に生かされる」の「生かされる」→「生かす」はたらき=神という構図は、信仰を持つ者ならば当然理解出来うることであるから、このことを伝えることが、私にとって永遠のテーマである。
 このことについて、興味深い記事を見つけたので、それを引用し、皆さんも自分にとっての「神様の存在」とは?ということを考えて頂ければ幸いである。

 カ・ミ・サ・マ。
 全日本フィギュアスケート選手権のリンクで、村主章枝選手が手を合わせてつぶやいた、その様子に打たれた。聞き取れなくても、唇の動きがそう読めた。故障を抱え、五輪出場をかけた舞台で演じ切れたことへの感謝の所作であった。
 彼女の脳裏にどんな神様がいたかは知らない。一人ひとりに神様がいていいと私は思う。給食で「いただきます」と手を合わせる仕草を「宗教色が強い」と批判するのは自由だが、あいさつまで禁じる学校があると聞くと違和感を覚える。靖国問題も、人によって異なる「手を合わせたい神様」とそうでない神様が一緒に祀られていることが、問題を難しくしているのだろう。
 「神様などいるのか」と嘆きたくなる出来事が続くここ一年だった。107人が犠牲になったJR福知山線脱線事故や耐震データ偽造は、科学技術への信頼を揺るがした。
 科学技術も神様の贈り物だそうだ。ギリシア神話によると、速く走る脚も鋭い牙も持たない人間をあわれんで、プロメテウスが「火」を与えた。人間は火を使って生き延び、道具を作り、暮らしを便利にする知恵を身につけた。そこから科学技術が育った。
 時には使い方を間違う。原爆はその最悪の教訓だ。ソウル大の胚性細胞をめぐる不正も、教授は自分自身を「全能の神」と錯覚したようにみえる。
 能力の及ばない状況で、人は神様と向き合う。現実は変わらないと知っていても祈り、感謝せずにいられない。それほどに人間は、か弱い存在である。その自覚が大切だ。


毎日新聞平成17年12月28日付 科学環境部 本村有希子記者の文章より引用


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