神様のレシピ   近藤佐枝子      

伊坂幸太郎さんの『オーデュボンの祈り』という小説を読んだ。
話としては、喋る案山子が出てきたり、鎖国している島が出てきたりと、なんとまあ…というような奇想天外な話だったのだが、私は作者の選ぶ言葉が好きで、最後まで楽しんで読むことができた。
 その中に「神様のレシピ」という言葉が出てきた。これは、未来を見通せる案山子の言葉であった。案山子は、ある人がここに来るということはわかっていても、結果その人がここでどうなるのかまでは見えないというのである。それでは見えていないと一緒ではないかといえば、そうではないのである。そのたとえに「神様のレシピ」という言葉を使っている。
 これは私の解釈であって、もしかしたら作者の思うところとは違うかもしれないが、神様は一人ひとりにレシピを渡している。すなわちそれぞれの生きる道というものである。

 料理する人ならわかると思うが、レシピ通りに料理を作っても、素材や調味料のちょっとした違いや、その日の天候や湿度、火力、水加減など様々なものが影響されていて、作るたびに味が違ったりする。人間の生きる道も同じであるということなのだ。生きる道が決まっていたとしても、ちょっとした状況の変化、気分の変化で違った方向に進んでいくかもしれない。だから先述のように、その人がここでどうなるかは見えないことになるのだ。
 これには納得したとして、ここから少し理屈っぽく受取り方を飛躍させてみた。プロの料理人は、材料や環境の変化があったとしても、きっとみんなが喜ぶような料理を作りあげることだろう。同様に私たちも、このお道でどんな変化があろうとも、神様に喜んでいただく生き方をめざしていかなければならない。プロの料理人がそのために修業を積むように、私たちも信心のけいこを積まなければと思う。
 お正月の福引で『たとえ、人にたたかれても、決して人をたたいてはいけない。人に難儀をさせるな。よい心にならせてもらえばありがたいと思い、すれ違った人でも拝んであげよ。できるだけ人を助けるようにせよ』というみ教えを頂いた。

 前の案山子風にいえば、このみ教えをいただいたのは、神様のレシピどおり。しかし、このみ教えを心にとめて一年間過ごし、どんな成長をさせて頂けるかまでは、見えないということだろうか。
 だからこそ、私は神様に喜んでいただくべく、少しでもプロの料理人に近づけるようにけいこを積んでいき、このみ教えの実践に励みたいと思う。


                              「和らぎ」バックナンバーへ