神様が与えてくださった「心」近藤正明

 人間が生まれてくる時は、「自分は生まれるのだ」という意識がなく生まれてくる。いつの頃からか、自我が芽生え、自分は生きているのだということを意識するようになる。死ぬ時も、死ぬ瞬間は意識があるのかも知れないが、その後のことは自分の意識外のこととなる。つまり、人間は生まれてくる時と死ぬ時は意識がなく、生きている間だけあれこれ勝手なことを言ったり、行動したりしているのである。金光教祖は、日柄方角の善し悪しを言うに及ばずという教えを残しているが、その教えの根拠として、生まれる日と死ぬ日を選べない人間が、生きている間だけ日柄方角の善し悪しをいうのはおかしい、という前述のことを例えにして、日柄方角の吉凶を否定いるのである。

 さて、生まれてしばらくすると、いつしか人間は「自我」に目覚め、自分にとって都合よいことを優先するように考える。と同時に、自分にとっての幸せとは何か、ということについて考えるようにもなってくる。他人に何かを与えることも喜び、という考え方も育つ。

「愛する」ということは、この「与える喜び」を一番感得できる感情ではないだろうか。世間一般にいう恋愛はもちろんのこと、親子愛、夫婦愛、師弟愛など、形はいろいろであるが、「相手が喜んでさえくれれば、あるいは相手が得るべき物を得さえしてくれれば、それが自分の喜び」という気持ちは、非常に不思議な感じさえする。

人はそういった様々な感情の元である「心」を神様から、肉体とともに「分け霊」(わけみたま)として与えられて生まれてくる。「自分さえよければ」という我執も、「この人のためならどんなことでも」という愛するという感情も、すべて神様が人間に与えて下さった「魂」つまり「分け霊」である。

 さらに、「他人の役に立つことが自分の喜び」とできる感情をもつ動物は人間だけである。せっかく人間として「分け霊」を与えられて生まれてきたのであるから、「自分さえ」という心ばかりに感情を注ぐのはよくない気がする。

 私自身、色々自分の思い通りに行かないことで、「なんでこんな目に」と思うこともあるが、そんな時こそ、「おかげは和賀心にあり」という原点に立ち返らなくてはならない。

 和らぎ賀ぶ(よろこぶ)心をいつも忘れず、自分の幸せを願うのと同じように、すべての人の幸せを願える心を持ちたい。

               
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