実意丁寧に病気とつきあう    副教会長 

 先日持病の検診に行った。あまり結果がよくなく、そして主治医の先生から病気についての新しい情報を聞かせてもらい、日々の投薬治療の大切さを懇々と説かれ、少し落ち込んで帰ってきた。
 ふと思って持病のことをインターネットで調べてみた。実は病気がわかったときに、当時の主治医の先生に自分で調べるように言われ調べて以来、全く検索していなかった上に、ブックマークすらされていなかったことに自分でも驚いた。調べてみると知らなかったことがたくさんでてきた。普段気になっていた病気とは直結しなさそうな小さなことが、病気が原因で体に表れるサインだったということなど、自分に思い当たることが多くて、いかに自分が自分の病気のことを知らなかったのか思い知らされた。私は病気と向き合っているつもりが、全く向き合っていなかったのだと思った。そしてそのサインは神様がずっと送り続けて下さっていたんだと、それなのにそれに中々自分が気づくことができなかったということがわかった。

 そのことに気づくと、この時にこのタイミングでこのことに気づかせて頂いて本当にありがたいと思った。薬を飲んだり飲まなかったり、病気を軽んじたりとこのままダラダラと病気とつきあっていたら、神様から頂いた大切な体を自分の勝手な判断で傷つけていたかもしれない。そして、自分の体に表れるサインを見落としていたかもしれない。だから、自分にとってしんどいことであっても、そのサインにさえ感謝していきたいと思った。
その上で実意丁寧に、自分の体と自分の病気と向き合っていきたい。

 武者小路実篤さんの言葉にこういうものがある。
「尊敬すべき幸福な人は、逆境にいても、つまらぬことはくよくよせず、心配しても始まらないことは心配せず、自分の力のないことは天に任せて、自分の心がけをよくし、根本から再生の努力をする人である」
 この言葉に大切な事を教えてもらった。逆境という言葉はぴんとこないかもしれないが、信心生活に大切なのは天に任せるご祈念と、再生の努力としての信心の稽古だと思う。この病気を通じて、この信心実践に取り組みたいと思った。




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