人を助けるって  近藤佐枝子

 

 四月になり、新しい年度がスタートしました。新小学一年生の子が、大きいランドセルを背負って登校している姿を見ると、癒されるようななんともいえない気持ちになります。

 私はここ2〜3年、友人に対する接し方について色々思うところがあって、ずっとご祈念してきました。ひとつひとつは取るに足りないことなのかも知れない。ただ、それが積もり積もっていくうちに、自分の心が苛立っていくそんな経験をしました。加えて、頼ってもらえるのはとてもありがたいことということはわかっているのです。ただ、何にもかも頼られると、大丈夫かなと思ってしまうわけです。自分が手を出しすぎると、私がいないと結局なにもできなくなってしまうのではないかと、今考えれば随分偉そうなことを考えていました。

 そんな中、今年の新年会に頂いたみ教えは

「たとえ、人にたたかれても、決して人をたたいてはいけない。人に難儀をさせるな。よい心にならせてもらえばありがたいと思い、すれ違った人でも拝んであげよ。できるだけ人をたすけるようにせよ」

というものでした。

私が、苛立つこの心は悪い心なのだろうかとか、人をたすけるってどういうことなんだろうかなど、ご祈念しながら考えました。

そして三月ちょっとしたことが起こりました。彼女を別の方で支えている人がいるということがわかったのです。この方は、気持ちよく彼女の言われるとおりに手伝っているのです。すごいなと思いました。同時に自分が恥ずかしくなりました。

人を助けるということは、頭でするのではないということだと思いました。こうしたらこうなるとか、やりすぎじゃないかとか考えないで、自分のできることをさせていただけば、あとは足りないところで神様が働いてくださるということです。私がやりすぎてはいけないなんて余分なことは考えずに、そこを神様にお任せすればいいと思ったのです。

 そして、苛立つという心を否定するのではなくて、苛立ったときにこそ思い替えをするチャンスだと思えばいいんじゃないかということに気付きました。苛立ったときそれを合図にして「お役に立てて嬉しい」と自分に言い聞かせていこうと思ったのです。

 まだまだ信心のけいこ中です。教祖様のご信心に少しでも近づくように日々精進していきたいです。

 



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