「偏見が生む誤解」             教会長

 3年ぶりに沖縄戦没者遺骨収集の奉仕参加のおかげをこうむった。戦後66年目の冬、沖縄は斎藤佑樹投手の来訪と読売ジャイアンツが史上初のキャンプを張ることに沸き返り、いつにもまして多くの観光客で賑わっていた。遺骨収集場所での作業と比較すると、平和の尊さを痛いほど感じることができた。

 ここ何日か、アメリカの国務省日本本部長による沖縄に対する発言が取りだたされ、まだまだアメリカ本国の沖縄への偏見は根強いことを証明する形になった。アメリカのみならず日本国内においても、もっと沖縄の歴史や現状への理解が必要だと、遺骨収集をさせていただくたびに痛感する。

 さて、堅い話はこのぐらいにして、あるパソコンサイトで、「こんな偏見やめて」と題して、下記のようなコメント集があった。私はこれらを読んで共感しつつ笑った。
「関西人だからといって、だれでもボケたりツッコンだりできると思わないで」
「夫がB型だと語ったとたんに、『それは大変でしょ』と言われた」
「公務員だからといって楽だと思わないで。しんどいこともあるんです」
「大学生というだけで、毎日遊んでいると思わないで。レポートに追われて大変なんです」
「北海道出身だというだけで、スキーが上手だと思わないで」
「いろんな年齢層の方が一同に会する食事の席で『あんた、若いからもっと食べられるやろ』と残り物を食べさせようとしないで。少食の若者もいます」
「一人っ子だからといって、わがままと決めつけないで」
などなど…。
 
 なぜ、私たちは偏見でもって物事を決めつけようとするのだろうか。
神様は私たちが生まれるときに、「分け霊=心」を与えてくださり、それが個性として発揮される。良好な人間関係を築く一番の障害は、こうした偏見ではないだろうか。もちろん、偏見をなくすことなど不可能だと思う。しかし、神様から見た人間は、100人いれば100種類なのだ。このことをしっかり心にとめて人付き合いをしたいものである。
「大阪のおばちゃんはみんなうるさい」
ある日、真昼の大阪環状線に乗って、おばちゃんたちを観察すると、実は静かなおばちゃんの方が多いことに気づかされた。

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