偶然という橋を架ける 近藤 佐枝子

先日、長男が野球の大会で「努力賞」というものを頂いた。監督が推薦してくれた様なのだが、試合に出る、出ないは関係なしで、チームのために頑張った選手に与えられる賞のようだ。長男は練習試合や、地元の試合に代打で出るくらいで、大きな試合などには6年生の中で一人だけレギュラーではなかった。そんな中でもランナーコーチなどに一生懸命取り組んでいた様子で、そう指導してくれた監督やコーチ、マネージャーさん達に本当に感謝しているし、長男もとても喜んでいた。
 それと前後して、あるblogでひとつの言葉を見つけた。『運命は努力した人に偶然という橋を架ける』という言葉だ。これを書かれた方も、あることがきっかけで、この言葉を思い出したそうで、なにかの映画の台詞だったかなぁと書かれていた。ここでの「偶然」という言葉には、深い意味があるのだろうけど、私は本人の欲とはかけ離れたところにある結果、と受け取らせてもらった。
 だから長男も野球がうまくなりたくて努力した結果が、努力賞という偶然という橋を架けてもらったのだろうし、他のチームメイトもそれぞれ色々な形で、偶然という橋を架けてもらっているのだなぁと思うと、ありがたい気持ちで一杯になった。
 
このお道を信仰させてもらっている私たちも、おかげという橋を架けて頂くのには、やはり努力は必要なのだと思う。しかし、その努力は自分本位から出た我であってはいけない。努力という言葉を言い換えれば「信心の稽古」になるだろうか。そういう限りは、ある程度の辛抱や大変さは不可欠だと思う。そういった中で神様に向かいながら、軌道修正して頂きながら、ある時は背中をおしてもらいながら、信心の稽古をしていけば、思わぬところで偶然という橋を架けていただけるのだと思う。

でも神様からしたら偶然ではなくて必然なのだろうなぁ…。

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