ご用を受けられるありがたさ      教会長 



 2月下旬、西近畿教区(兵庫県)の「巡教講師会」の講師に招かれ、生まれて初めて、先生方の前でお話をさせていただいた。人前で話し慣れている自分であったが、さすがに緊張した。聴衆は、ほとんどが私より年配の先生方ばかり。しかし、緊張しているとばかりも言ってはおられない。普段、学校のご用で取り組んでいる「金光教で教える」スタンスで、ありのままの自分で話をさせていただいた。


 どこの教会でも、若い世代の信心離れが著しい。しかし、これは金光教に限ったことではない。現代の若者たちが、宗教に触れる機会があまりに少なすぎる。その上、宗教教育という場が与えられていない。そのような中で、関西金光学園の三校では、高校3年間の間に、宗教の授業を通して、宗教全般の知識や、宗教文化にかかわること、あるいは、いのちを大切にする考え方を授業で学ぶことができる。この現状や中身を伝え、少しでも教会布教の場で活かせるヒントになればと、お話をさせていただいた。お役に立てたなら、これほどありがたいことはないが、私のような者に、そのご用を頼まれたことに対し、とても恐縮すると同時に、ありがたい思いでいっぱいになった。


 この2月のご用の依頼があったのは、12月中旬であったが、その電話のすぐ後、もう一本の電話がかかってきた。それは、3月に、静岡での講話依頼であった。同じ日に2つの講話依頼に、とても驚き、副教会長にも相談した。「あなたは今、そういうご用をさせてもらえという、神様からの思し召しがあってのことやから、受けさせてもらったら。」との答えに、2つの依頼をお受けすることにした。


 静岡でのご用は、信奉者対象のもので、やはり若者への信心継承をテーマにお話をさせていただいた。その後東京へ向かい、何かとお世話になったり、気にかけてくださっている日本橋教会と芝教会に参拝させていただくことができた。滅多にできることのない動き方をしたが、ご用を通して本当にありがたいご褒美を神様が下さったように感じている。


 ご用を受けるということは、様々なお繰り合わせをいただき、そして健康でなければならない。私たち、教会でご用させていただく者にとって、毎日の生活がご用の一部である。もちろん、辛い時やしんどい時もある。しかし、そこを乗り越えて、受けきらせていただいた時、思いもかけないようなご褒美をくださることを実感させていただいた。次はどんなご褒美がいただけるだろうか(笑)。

 

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