本年は難波教会初代、近藤藤守先生が亡くなられて90年のお年柄である。1月20日には、ご本部木綿崎山にある藤守先生奥城において、墓前祭が執行された。その前日、難波の道の手続きにつながる教会で組織されている「親光会」の総会が開催され、現在本部教庁で御用下さっている、金光浩道先生の講話を拝聴した。
浩道先生は、現教主金光様の長男としてお生まれになり、昨年金光教教師に補任された。
個人的には学生時代、金光教学生会で共に活動した関係もあり、畏れ多いことながら、今でも親しく接してくださり、ありがたいことと恐縮している。
先生となられてのお話を頂くのはもちろん初めてのことであり、とても楽しみにしていた。
生まれてずっと、四代金光様、現教主様とともに生活されている中で、祖父である四代金光様の印象は特に強く残っておられる。有名な「父母も 子どもとともに 生まれたり
育たねばならぬ 子も父母も」の四代教主様のお歌は、浩道先生誕生に際して詠まれたお歌であったらしい。また、「人間が作ったもんなんて、何一つないんじゃ。」と、終始お礼を申されての生活は、まさしく私たち全教信奉者にご理解され続けた、お礼が土台=神様を現す生活そのものであられたとのことである。
数年前、弟さんの病死という不幸に出会われ、健康であることが当たり前でいて、当たり前でないということに気づき、大勢の人々から祈られて、今いる自分を感じるようになり、この祈りのパワーの源を知りたいと思い、39才の2005年に学院での修行に入られた。
長年、プロのロックミュージシャンとして活動を続けられ、今まで「ニュートラル」に生きて来られた先生は、「神様に向かい放題」「本部広前のお下がりとしていただくご飯は食べ放題」の学院生活を、素直に受け入れられることができたそうである。その中でのご自身の求道の方法は、「『神(の存在)を疑えばきりがない』=世の中疑ってかかればすべての事物を疑える。疑えるものを消去していって、一つだけ残ったもの…それは『今日、自分の命がある』ということ。人間の根本は命であり、一日の始まりは、今日の命があることにお礼を申すことからだ」とお話下さった。また、「神様は人間一人ひとりに、とびきりの修行を与えてくださっている。だから、起きてくることに無駄なことは何一つないのだ。」とも言われた。
音楽と信仰、これは古来から「芸術と宗教」というくくりからいうと共通性があるのは既知の通りであるが、先生はその両方を経験されていることから、三つの共通点を挙げられた。それは、「毎日神様(音楽)を感じ、それを消化していくこと」「各自が自由に生み出せるもの」「卒業、最終形がない」ということである。そして最後にこうお話された。「音楽も金光教も、グローバルに考え、ローカルに活動することが大事だと思います。私の夢は、『今度のアメリカの大統領、金光教の信奉者なんだって』と世界中で話題になることです」と。どうしようもないくらい、頼もしくありがたい気持ちにならせていただけたのは、私だけだったのだろうか。
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