我を捨てるということ     近藤佐枝子

  役になりきるために、自分を捨てて監督のふところに飛び込める人」と共演した女優さんから評された俳優がいる。人気商売の芸能人にとって、自分を捨てるということが、ほめ言葉なのかどうかは私にはわからない。その証拠に、この俳優に対して「一人では何もできない人だ」とか、「スターのオーラがない」とか言う人がいるのも事実だから。でも私は、だから出演しているドラマや映画が好きなんだと妙に納得してしまった。 
 先日、彼のインタビュー記事を読む機会があった。その中でこう答えている。

・ 自分の演技が評価されるとしたら、周りの人がそれを引き出してくれているから。
・ うまくやろうとしてうまくいくなんて思っていない。
・ 自分ほど信用できない人はいないと自覚すると、かえって楽になる。そして駄目なときも逆にいいんじゃないか  と思えてくる。
・ だから監督にすべて委ねられる。
・ 自分にこういう役をやりたいとか、こういう役が嫌だとかはない。
  そして、ライターさんは自分が信用できないなど、聞いたらネガティブな言葉が彼の口から発せられると、不思   議と力強く聞こえると書いている。自嘲も気負いも冗談めかした様子もなく、ただありのままの自分を自然に受  け入れている様子にゆるぎなさを感じると…。
 私たちの生活をドラマや映画などの作品に、監督を神様に、彼を自分に置き換えると、何か見えてくるような気 がする。
 作品のため(生きていくため)我を捨て、監督に(神様に)すべて委ねること。自分ほど信用できない(お世話にならずには生きられない)ことを自覚し、役の好き嫌いを言わずすべて受け入れる(おかげの選り好みをせず、すべて受けきる)とかえって楽になる。駄目なときも逆にいいんじゃないかと思えてくる。そして、そこまでの域に達するとその姿は、言葉から受ける印象とは逆に力強く、ゆるぎなく見えるのだろう。
 付け加えると、ライターさんが彼の写真撮影に立ち会ったときの印象をこう言っている。
カメラを向けた瞬間に人形に魂を吹き込むように、生気や気迫に満ちる俳優さんはたくさんいるが、その逆で、何かが抜け落ちる。たぶんそれは「我」だろうと。

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