沖縄日記'23 その3

           
昨日につづき、摩文仁での作業でした。朝から生憎の雨雨地面はヅルヅルで危険度が増します。
今日は頼もしい助っ人が加入。うちの卒業生で、沖縄県立芸大に進学した三人が参加してくれました。みんな沖縄戦のことはなんとなく知ってるけど、生々しい戦跡を目の当たりにするのは初めてです。
                      
 現場で作業を開始するやいなや、一人が「これって骨とちゃいます?」。見ると明らかに骨…しかし骨格が明らかに太すぎるので、一応ベテランの参加者に見てもらったら、戦中か戦後すくに、崖の上から投げられた(あるいは飛び降りた)牛か馬の骨と判明あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)そのあと、立派な頭部が出土しました。

作業地域は、高低差50メートルの断崖の下で、切り立つ岩礁めがけて、多数の人が飛び降りた場所。家畜も一緒に投げられたそうです。今も無数の遺骨があちこちに散乱している可能性が高いです。家畜の遺骨があるということは、ご遺骨がある確率がとても高い地点でもあります。

作業途中、30キロ砲弾が岩に突き刺さっているのも発見。あまりの生々しさに学生たちは声も出ない様子でした。

昼食後、私は昨日次男と不発手榴弾を発見した近くをもう一度捜索することに。すると一緒に作業してくれていた方が、作業終了制限時間30分前に、深い薮の中に壕があるのを見つけ、中に入ると………

骨盤と左大腿骨がありました。近くにいた人を呼び、薮を大急ぎで切り開くと、同一人物のものと思われる遺骨が、日本製手榴弾とともに出ました。この場所でどのような最期を遂げられたのか、定かではありません。しかし、間違いなく66年前にこの場所で亡くなられた方のものです。一同手を合わせ、来年また同じ場所に来ることを霊様に約束して作業を終え、合同慰霊祭に参列しました。

初参加の次男や卒業生たちにとって、この上ない生きた研修になったと実感しています。

これは初日の作業で出たアメリカ製手榴弾。
その現場から20メートルほど放れた場所から出たご遺骨。写真右にあるのは、筒型の日本製手榴弾です。

夜は慰労を兼ね、今日参加できなかった二人も含め、沖縄での再会を喜び、食事会とカラオケを楽しみました。来年も日があれば参加したいと言ってくれ、とてもありがたく感じましたわーい(嬉しい顔)


渡沖経験のある方は周知のことですが、沖縄では一部のスポーツ紙を除き、全国紙がありません(というか、販売されていません)。あるのは「琉球新報」と「沖縄タイムス」の二紙だけ。昨日(20日付)の琉球新報には、遺骨収集第一日の様子が、今朝の沖縄タイムスには、第二日の様子が写真入りで掲載されました。

沖縄県民ですら、この種の奉仕活動があること自体知らない方がいらっしゃいます。そんな中ほぼ連日、都市部の工事現場から不発弾が見つかったり、大量の遺骨が発見されます。大量の遺骨が出てくる原因は、終戦当時、あまりの遺体の多さに、火葬されることなくそのまま掘った穴に死体を入れた場合が多いからだそうです。

私が初参加した平成17年には、那覇新都心開発の現場から、大きな布袋10包分以上の遺骨が発見され、私たちのグループに、遺骨を清めて慰霊してもらえないかという依頼を、県がされてきました。その時、私は初めて遺骨が、何を語ろうとしているのかを考えさせられました。

今日のフライト前に見た、夕方のNHKニュースでも、遺骨発見報道がされていましたが、こちらは戦前、旧病院の建物の跡地から出てきた遺骨で、どうも旧陸軍が行った、生体実験後の遺体だった可能性があるのだそうです。

平和の尊さを、この平和な時代に生きる私たちだからこそ、しっかりかみしめ、後世に伝えて行かなければならないと思います。



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