沖縄戦の実相

 太平洋戦争さ中の、1945(昭和20)年4月1日、アメリカ軍が戦況を有利に進めたいと、かねてから上陸、占領をもくろんでいた沖縄本島への上陸作戦が始まった。
 読谷、北谷にかけての海岸線に上陸した米軍は、その日のうちに北飛行場(読谷)と中飛行場(北谷)を占領した。守備軍は上陸地点での戦闘を避け、地下壕陣地
に立てこもり、持久作戦をとった。

 沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般市民の犠牲者数がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍の無差別砲爆撃による犠牲のほか、日本軍
による住民殺害が各地で発生した。
 日本軍は、沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕からの追い出し、米軍に察知されないように、乳幼児を殺害したりした。その他、食糧不足から住民の食料を
強奪したり、戦闘の足手まといを理由に、自害を強要したりした。住民は逃げ場を失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓死や追い詰められた住民同
士の殺害なども起こり、まさに地獄の状況であった。

 沖縄戦では、米軍は6月23日までの約3ヶ月間、陸・海・空から猛烈な爆撃を行った。「鉄の暴風」といわれるほど激しく砲弾を撃ち込まれ、地形が変形した。特に激戦地と
なった沖縄本島南部の喜屋武半島一帯では、わずか1ヶ月間に680万発の砲弾が撃ち込まれた。これは住民一人あたり約50発に相当する。犠牲者は22万人を上回ったが、
そのうちの約10万人が沖縄の一般市民であった。

 現在でも、沖縄県内には約3000トンの不発弾が地中に残されており、戦後69年を経た今日も、処理作業が続いている。
(「沖縄平和祈念資料館の資料」より)