おばあちゃんの話
(平成13年〜14年の「和らぎ」『ふれあい広場』に掲載しました、中西みつさんが97才当時にお話された内容を筆録したものを紹介します。)

(1)
 私の入信は、娘時代になりますが、私の兄が腸チフスに罹ったとき、隣の下駄屋の人が家内中で金光教の信心をされていて、その人に「お宅も信心されたらどうですか」と誘われ、初めて教会にお参りしました。教会は大世古(宇治山田)にあった教会で、田中先生という方がおられました。、この方は『西六の明神さん』(教祖直信の高橋富枝先生が開かれた、鴨方にある六条院教会)というおばあさんの先生がおられる教会で修行された先生です。
 兄はその後、病気回復のおかげをいただきましたが、私以外の家族は、誰もお参りをしませんでした。私は毎晩、隣の娘さんに誘われるので、夜の八時には日参させてもらいました。私が女学校の頃で、この頃のお願いと言えば、「成績がよくなりますように」というふうなことで、たいしたお願いもしませんでした。誘ってくださるからお参りもする、という感じでした。
 夫である中西豊吉との出会いは、家の近所に薬屋さんがあり、そこの人と私の父親が大の仲良しでして。そこのお嫁さんである「おちょうさん」が、身体がとても弱く、ほとんど寝たきりでした。母が私に「おちょうさんの様子を見てきてあげて」と言われて見に行くと、やはり寝ておられました。おちょうさんのところは、男の子2人で、ご飯は炊けてもおかずに困るだろう、ということで、おかずを届けに行くのが私の役目でした。その後、残念ながらおちょうさんは亡くなられました。
 その後、薬屋さんは、宇治山田から松阪に移られ、商売は大はやりでした。転居後、あまり行き来はありませんでしたが、おちょうさんにおかずを届けていた私のことを「みーちゃん」と呼んでいて、おちょうさんのご主人が「みーちゃんの結婚の世話は私にさせてほしい」と、父に話しました。その相手が夫の豊吉でした。写真だけのお見合いでした。
 豊吉が神戸で働いていた関係で、結婚式は神戸であげることになりましたが、実際に豊吉と顔を合わせたのは、結婚式当日が初めてでした。そして、式を挙げた場所は、なんと金光教葺合(ふきあい)教会でした。
 結婚するまで、相手が金光教の信者であることは全く知らず、ご神縁であったと驚きました。

(2)
 ここで少し、豊吉の話になりますが、豊吉は信心があって、神戸の葺合教会へ参拝していました。学生時代、卒業するまで先生の家に下宿していたそうですが、先生の家は窮屈で、はじめは大勢いても、みんな途中からやめて、他へかわってしまい、最後までいたのは豊吉ひとりでした。教会の奥様はとてもお話が上手で、その話が楽しみでお参りしていたようなものでした。
 豊吉は信心熱心で、毎朝必ず教会へ参拝してから会社なり、自分の店に仕事に行くような人でした。どこへ行っても必ず朝、教会に参拝してから、という人でした。近所の付き合い一つでも、信心に見合ったことをする人でした。
 豊吉の仕事は材木関係(神戸のカネモ)で、
ある時に山から筏で下り、材木を尼崎まで運ぶ時、台風で網が切れて、材木が全部流され
大きな損害を出しました。その時、豊吉は現場の近くにあった香川県の栗林教会へ飛び込んでその理由をお願いし、お届けしました。そのおかげで、ほとんどの材木を集めることができたそうです。
 その後、豊吉が大反対していた中で、尼崎に大きな製材所を作ることになりましたが、結局カネモが父さんすることになってしまいます。そこに、豊吉の大学時代の友人で、庄司さんという人が「うちに来て欲しい」と言ってくれました。庄司さんの家は東京の五反田にあって、一ヶ月ほどそこにおらせてもらいました。その庄司さんの関係で、今度は新義州(シニジュ)〔現、北朝鮮〕に行くことになりました。
(3)
 現在の北朝鮮と、中国の国境を流れる鴨緑江(アムノック川)沿いの運輸会社に、その支配人として豊吉は赴任しました。川の上流へ荷物を運搬する会社で、当時のお金で年間250万円くらいの赤字を出していましたが、豊吉が行くようになってから、だんだん会社が儲かっていきました。
 新義州では、小嶋てるさんというおばあさんのいる金光教新義州教会へ参拝していました。儲かってきたので、赤レンガの3階建ての会社を買うことができました。そのうち、取引先のあいさつまわりをしていると、豊吉のかつての友人が他の会社を経営していたり、その方の奥さんが、私の女学校時代の1年後輩であった、鈴木さんであることを知り、不思議と豊吉の仕事がしやすいようになっていきました。外地での出来事に、本当に神様のお働きとしか思いようがありませんでした。そのうち、鴨緑江に東洋一のダムができることになり、上流に行けなくなることから、会社を売却することになりましたが、それがとてもよい値で売れました。小島先生が「神が顔を洗ってやるぞ」とおっしゃったとおりのおかげをいただきました。

(4)
 その後、鈴木さんは現在のソウルに転勤になりました。隣の家が床下の暖房の修繕をしていて、監督さんが「もうよし」というのを、中国人の人が「もっと炊け」と聞き間違えて、炊きすぎて火事になり、押し入れを開けたら、すでに煙が出ていました。その時も、近所に新義州教会で信徒総代をされている方が、火事を教えてくれました。その人は、一人息子を中国から岡山の金光中学に入れられているくらいに、信心熱心な方でした。荷物をすっかり出してくれ、助けてくれました。家の方は、豊吉の弟がいた会社の専務さんが火事見舞いに来てくれ、近所にちょうど空き家があって、そこにごっそりと入れさせてもらうことができました。
 会社が高値で売れたので、東京に引き上げることになりました。朝鮮を出るときは、今までに集まったことのないような大勢の人が見送りに来てくれて「おめでとう、おめでとう」のことばが、あっちこっちで飛び交いました。東京での迎えもたいそうな歓迎でした。その後は、東京の鵠沼の別荘生活が始まりました。豊吉は株式会社日本塩業の仕事に就きました。


(5)
 何ヶ月か後、正月過ぎまで東京の生活をして、それから国(紀州と伊勢)へ帰りました。豊吉はまた、神戸から中国の大連へ転勤になり、大連教会の松山成三先生のお広前にお引き寄せいただきました。それから大連のさざなみ町へ2,3ヶ月おり、ソウトウ湾に転勤になりました。豊吉は、ソウトウワンと旅順とを結ぶ鉄道を敷くことを命じられました。塩を運ぶのにトラックで運んでいたため、不便で困っていたからです。ソウトウ湾に10年前からおられた、前任者の先山さんという人が、現地人からなかなか土地を買えないため、鉄道を敷くことができず「中西君、なんとかやってくれんか」ということでした。線路を敷くには、現地人から土地を買わねばなりません。長年の願いであった土地を買うことに成功し、技術者も呼んで、枕木や材料を集め、もういつでも鉄道を敷けるという状態になったとき、ソ連の宣戦布告により、逃げるのに大変な思いをしました。鉄道を敷くどころではありません。日本人の家を探して、物を盗んで行きました。恐ろしさに、木の蔭に隠れて身を守りました。
 大連より奥地にいた人は、子どもを現地人に預けたりして、辛い思いをしました。かわいそうでした。
 早朝、ソ連軍が来ない間に、旅順へ逃げました。旅順が安全ということでした。当時、子どもが6人おり、娘二人は荷車に乗せ、他三人は男の子のよういな髪型に切って歩かせ、一番下の真一郎は、背中におぶって逃げました。

(6)
 真一郎は大連生まれで、終戦当時3才でした。一人娘の和子は男の子に間違えられ「中西さんとこは、いいお坊ちゃんがおられていいですね」と言われました。逃げる途中で亡くなってしまう人もたくさんありました。どん底でした。終戦後、6人の子どもを引き連れて、元気でみんなそろって日本に帰られたのは、神様のおかげです。
 しばらく大連教会の松山成三先生のところでお部屋を借りて、お世話になりました。豊吉だけは、ソウトウ湾の塩田に塩を取りにいっていました。取れた塩は、ロシア人が全部持っていきました。それでも豊吉は、一番上の金額で三千円だけロシア人からもらうことができ、生活はそれで家族がなんとか食べていきました。
 ある日、ひょっこり新義州にいたころにいた朝鮮人の方と合うことがあり「中西さんにはずいぶんお世話になったから」と言って、たくさんの米を差し入れてもらえました。その時はどれほどうれしかったかわかりません。その方がいうには「中西さんと旅順に来てよかった。新義州に来ていたら、日本人は大変な目に遭っていたよ」ということでした。
 それから塩を取りに行った豊吉が、昨日帰ったというのに戻ってきませんでした。ロシア人に連行されたのです。

(7)
 はじめ、旅順の常宿に行きましたが、そこもロシア人に取られて、明けなければならなくなりました。そこで、旅順教会で大連の先生が来られる時にお泊まりになる部屋に入れてもらいました。6畳の部屋でした。誰も入れられないけど、中西さんならと言ってくださいました。少しの間で、そのうち旅順にいる日本人はみな、大連に送ると言われて、客車ではなく家畜車に乗せられて大連に連行されました。大連では、日塩大連支店の部屋を使わせてもらいました。ところが、そこの中国人がすごく威張って、勝手に部屋に入り込んで来たりして、とても嫌な思いをしました。
そのことを教会にお届けすると「うちに来なさい」と言われ、大連教会の松山成三先生のところにおいていただきました。30畳くらいある広い部屋を、本当に自由に使わせていただき、友人やら何やら、何家族も一緒に生活させてもらう状態でした。冬になると寒くて仕方ありません。旅順の教会も寒さで困っていたため、それならいっそのこと、一緒に住もうではないか、といって、30畳の部屋を幕で仕切って生活しました。人が大勢の方が寒さも和らぐのでは、という考えからでした。
 朝、台所で一回ストーブを入れた後は火の気がなく、みんな一日こたつに足を突っ込んで過ごしました。燃料が高いので、おふろはあっても沸かすことができません。シラミがわいて往生しました。みんなが一部屋で一緒に寝ているので、シラミはうつってきます。シラミ退治に熱いお湯をかけたりしました。いろんな大変な目に遭いました。そんな中、引き揚げが始まりました。しかし「中西さんは塩を作れ」とロシア人に言われ、3年間帰らせてもらえませんでした。

(8)
 豊吉は腕にロシア語で書かれた腕章を巻いて、仕事に行きました。旅順教会の先生のお母様も、とてもよくしてくださいましたが、亡くなられました。
 旅順教会に赤ちゃんがいたのですが、月数が足らずに生まれたため、栄養失調で亡くなられました。赤ちゃんが小さいので、お風呂に入れるのが赤ちゃんのためによいということで、一日に何回もお風呂に入れてあげました。旅順教会のお母様は怖がられて「中西さん、頼みます」とよく言われていました。
 豊吉の月給は3000円でした。とてもそれでは食べていけません。会社にある中国人の食事(こうりゃん)を、皮を剥いて食べました。とうもろこしの粉をストーブで焼いて食べたりもしました。お米はとても高くて食べられませんでした。
 ある日、豊吉が朝鮮人に会って、中西さんによくしてもらったからと言って、お米をいっぱいくださいました。あのときの白いご飯の美味しかったことと、今思うとぜいたくになったと思います。豊吉の給料は先述の通りですが、塩がたくさん取れ、ボーナスを1万円もらったことがありました。家まで世話をするから、と言ってくれました。引っ越しをして少しの間、会社の上の部屋を使わせていただきましたが、何かよほどのことがあったのか、豊吉がロシア人とけんかをして、家を出て会社もやめてしまいました。同じように残っている日本人がいて、そんな関係で貿易会社に転職しました。しかし、その頃引き揚げが始まっていて、子どもも女の子が多いからということで、舞鶴に帰ってきました。
 この船の中でもいろいろなことがありました。病気で子どもが船の中で亡くなると、船の帆布でその子を包み、海に投げて、子どもの周りで汽笛を鳴らしながら3度回りました。それを拝みながら、船はまた日本に向かいました。親御さんの気持ちを思うとたまりませんでした。さらに予防注射をしていない人から天然痘を発症・伝染し、舞鶴に着いてからも、1週間船から下りることができませんでした。

(9)
 話が戻りますが、豊吉が塩を作るようにといって、ロシアに残されて3年間帰してもらえなかったという話をしました。その塩を運んでいるとき、ソウトウ湾から大連に行く途中で、乗っていた日本人全員が旅順の刑務所に入れられました。トラックの上で中国人と日本人のけんかが始まり、ひとりの中国人がトラックから転落し、日本人が悪いと言ったためです。豊吉も一緒に連行されました。家ではそんな事と知らずに、なかなか帰らない豊吉を心配して待っていました。私は大連教会の松山成三先生に「豊吉がどこへ行ったかわかりません」とお届けしました。そうしたら先生が「心配せんでええ。お祭りになったら帰る」と言ってくださいました。用心が悪いので、教会の玄関はいつも鍵がかけてありました。
 一回のブザーは大連のお客様、2回のブザーは旅順のお客様、3回は中西と決まっていました。お祭りの朝になっても豊吉は戻りません。お昼になっても、お祭りが始まっても豊吉は帰ってきませんでした。そして夕方、ブザーが三回鳴りました。3回のブザーは「うちやっ」と思って窓から覗いてみると、汚い格好をした人が広前に向かって立っていました。豊吉でした。和子(真一郎の姉)が豊吉にすがって泣きじゃくりました。うちからお広前に行く広い廊下に2人が座り込んでいました。親奥様がそこに来られて「あんたら、そこで何をしとんのや?早う神様にお礼申しなさい」といって叱りました。現在名古屋に住む娘の話によると、普段は物静かな親奥様が、その時とばかりは大変喜ばれ、ぱたぱたとスリッパの音を立てて廊下を走られていたそうです。お結界に行くと、松山先生がおられました。旅順の先生も出て来られて、色々な話をして、本当に先生のおっしゃった言葉通りのおかげをいただいたこと、今もよう忘れません。豊吉の服を熱い湯で消毒して、タオルで作った寝間着に着替えさせました。タオル、意図、靴下は会社にたくさんあり、それをもらっていたのでとても助かりました。きわどい中、、色々と神様のおかげをいただいて、無事、家族そろって舞鶴へと引き揚げることができたのです。

(10)
 豊吉が帰って来た日、それは大連教会も日本に引き揚げる最後の大祭でした。本当にありがたいおかげをいただき、家族がみなそろって日本に引き揚げることができました。舞鶴に着いた時、大勢の人が来ていて、その中に、大阪の守口で和菓子屋をしている豊吉の弟がいました。彼は、手作りのお菓子を持って会いに来てくれていましたが、ほんの目の前にいるのに、会うことも受け取ることもできませんでした。それは前にも触れましたが、船の中で天然痘の患者が出たからです。真一郎もはしかにかかり、陸軍病院に入れられました。兵隊さんがこどもたちに、芋せんべいをくれて、あまりおいしいものではありませんでしたが、それでも喜んでいただいていました。 その後、豊吉の生まれた、三重県紀伊長島町に帰りました。近くに家を借りてもらって住みました。荷物がないといっても、布団やらなんやらが部屋にいっぱいあり、親戚が「ようこれだけ持って帰って来れたなあ」と感心しました。豊吉の母が、田舎にいても就職できないからといい、私の兄が伊勢の河崎に来るようにといって、そちらに行きました。その際、伊勢教会にお参りをさせてもらったこともあります。
 豊吉は香良洲(現、津市香良洲町)で芋飴をを作り、津までそれを一斗缶に積み、自転車に乗って売りに行っていました。その後また、松阪に移ることになりますが、亡くなった和子と私が親戚を訪ねていて、そこに、金光教の提灯を見つけ、帰りにお参りしましょうねといって、ご縁をいただいた教会が松阪新町教会でした。そこへ老松園の杉本さんという方が日参されていて、豊吉は老松園の経理をさせてもらうようになりました。

(11)最終回
 豊吉はしばらく老松園でお世話になっていました。老松園の憲太郎さんもよく日参されて、夜12時ごろでしたが、お店を閉められてから、店の者に送ってもらってお参りされていました。ある時、老松園さんが立ち退きになって、行くところがなくて、松阪新町の信者さんが荷物を持って右往左往したということでしたが、現在も駅前通りで商売繁盛の大きなおかげを頂いておられます。その後、豊吉は「大河内林業」に移り、経理を任されました。そこで真一郎の姉、公子を仕込みました。公子はその当時、大変困難な簿記試験をパスし、就職にも大いに役立ち、現在でも大阪で兄妹の会社の経理をしています。豊吉から直に経理を教えてもらったのは公子だけでした。
 その頃はしょっちゅう、私たち夫婦は教会に泊めてもらっていました。その頃、松江先生(現、日永教会長)も学院を卒業され、新町の教会で修行されており、よくみなで頭を並べて休ませていただきました。老奥様のお母様も京都から来られて、半月くらいは教会におられ、信者さんがみな、お母様から話を聞いていました。京都のお母様は、連れ合いで大変苦労されましたが、玉水の先生から「子供の代でおかげになる」とよく教えられていたそうです。豊吉は毎晩夕食がすむと、自転車で教会へ参拝していました。先々代の正雄先生に頼まれて、手紙を書かせてもらったり、色々なことを相談してくださったりしておりました。ありがたいことに、家の方は、私たち夫婦が留守でも娘たちがよくやってくれ、何も心配することなく生活させていただくことができるようになりました。(おわり)



平成23年9月23日、市内最高齢者として名張市長からお祝いされている
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