どこに目をむけているの   近藤佐枝子

人と話していると時々思うことがある。この人は何と戦っているのだろうか?と…。
他人に向けて極端ないろんな感情を発信して、その反応に一喜一憂することに生活の大部分を費やしてしまう人が結構多かったりする。
 
私もそんな人間だったと思う。「こんなこと言われた」「こんなことされた」「こうしたいけど、こんな風に言われるだろうからやめておこう」とか。今思えば、なんだかちっちゃかったなと思う。
 他人とうまくやっていきたいとか、他人から好かれたいとかそんな感情を覚えるのは自然ことで、大切なことだと思う。でもそれは、自分が他人と接する時に心得ることであって、自分の行いを左右するものではないはずだと思う。

 なぜ突然、こんなことを書いているのかというと、先日「生きながら火に焼かれて」という本を縁があって読んだ。普段だったら絶対に読まないジャンルの本である。読み終わっても好きな本ではなかった。でも、なぜそんな本を読むことになったかをふと思っているうちに、前述したことに思いあたってしまった。

 この本は具体的には書かないが、家の名誉を汚した女の家族の命を、男家族が絶っていいと認められている(名誉の殺人と呼ばれているらしい)、ある国のある村の話である。もちろん実話で、そこから助けられた人の手記で話が進められていた。

 そこにあるのは世間様。世間体が悪いということは絶対に許されないという妙な自尊心。
怖いのは、この本に書かれていることはすごく極端な例ではあるが、私たちも同じようなことをしてないだろうかということ。

 教祖様は、「心で人を殺すな」とおっしゃって下さっている。世間が気になるばかりに、自分の大切な周りの人を、家族を、そして自分を傷つけたり、心で殺したりしていないだろうか考えてほしい。
私たちができる神様へのお礼は、み教えにそった生き方をしていくことで、人を助けるという神様の手伝いを少しでもさせていただくことだと思う。だから目を向けるのは世間様ではなくて、神様であり、和賀心であるのだと思う。
迷った時、困った時、自分がどこに目を向けているか考えてみたらいい。もめごとがあった時、傷つけてしまった時、自分がどこに目を向けていたか考えてみたらいいと思う。

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