文さんの思いとは?  教会長
  

  文治さん(=教祖様。ここではあえて「文さん」とします。)は、まじめではたらきもの。村人から「文さん」と呼ばれて慕われていました。1846(弘化3)年、文さんは33才になりました。文さんの住む大谷村では、本来は女厄である33才は、男も厄とされ、縁者を招いて宴会を開き、厄を払うという習慣がありました。しかし、文さんは「宴会を開くと、呼ばれた方も気を遣う。それなら私は『お四国巡り』をしたい」と思いを持ち、村人4人とともに四国遍路の旅に出ました。

江戸時代には、いわゆる「レジャー」として定着していた四国遍路ではありましたが、文さんは「遊び半分で行くくらいなら家で拝んでいる方がましだ」との信念で、険しい山寺も遙拝ですますことなく、本堂まで丁寧に参拝したということです。すべて歩いて参拝する「歩き遍路」なら、約1600キロ、最低40日以上かかります。

 そんな文さんの思いを少しでも追体験できないかと思い、「お遍路さん」に行かせてもらうことにしました。とはいえ、限られた時間で行かなければなりませんので、いわゆる「マイカー遍路」の「一国打ち」(四国のうち、一県を一度の旅ですべてお参りする)成就を願って、1泊2日で徳島を旅しました。

 徳島の札所は、全部で23ヵ寺。鳴門・徳島の市街地にある札所も多く、比較的お参りしやすいのですが、一部山間深くにある札所もあり、車でも行くのが大変でした。また、ロープウェイを使ってお参りする札所(21番の太龍寺)もあり、文さんが当時、どんな思いを持って、この山奥まで参拝されたのだろうと、深く感じさせられました。
 文さんは17才の時、伊勢参り(おかげ参り)にも行かれました。暮らしぶりが決して裕福ではなかったであろう、文さんの青壮年期に、伊勢や四国へお参りされたことは、後生の生き方や信仰の中身に大きな影響があったことは想像に難くありません。

 お参りした札所は、八十八ヵ寺全体の四分の一に過ぎず、しかも車という快適な乗り物による参拝で、歩き遍路をされている方を見ると、本当に頭が下がります。今後も時間があれば、土佐、伊予、讃岐の札所を巡らせてもらい、畏れ多いこと極まりないのですが、文さんに思いをはせることができたらなあと願っています。


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