新しい発見 〜日常の中から〜     教会長

  年末に、金光藤蔭高校の教員研修で本部参拝をさせていただいた。日帰りで、スケジュールも詰まっていた関係で、本部での滞在時間は1時間あまりと、せわしないものであったが、到着してすぐにお広前に参拝し、校長が教主金光様にお礼のお届けをした。
 前回の参拝では、その後本部職員よりお話しをいただいたのであるが、今回は限られた時間ということもあり、「立教聖場(りっきょうせいじょう)=教祖時代の広前」と「木綿崎山(ゆうざきやま)=教祖の奥城をはじめ、歴代教主の奥城がある、本部広前の東側にある緩やかな丘」を参拝することになった。
 
 私は普段と同じように、手を合わせて巡拝していったのであるが、いつもと違ったのは、一緒に参拝されている先生方からの様々な質問を受けたことであった。教員の大半も金光教の信仰とは無縁のところから、この学校に勤められたことが縁での本部参拝である。信奉者の立場とは違う観点からの質問に、自分なりに、相手にわかって頂けるよう願いながら、回答をさせて頂いていた。そこに私も何か心地よい新鮮さを感じていた。
 一通り参拝がすんで、ある先生が、「本部参拝に来るたびに、新しいことを発見させてもらえるわあ。」と言われ、私はなぜかとてもうれしさを感じるとともに、自分にはそういう気持ちがなくなっているなあということに気づかされた。

 私は昨年一年間で、10回以上本部に参拝させて頂いた。これは大変ありがたいことであるが、一度一度の参拝が、「一期一会」のごとく、その時だけにしかない参拝なのである。そのことを十分理解できていないままであった自分が少し情けなくなった。
 難波教会の初代、近藤藤守先生は、汽車も十分に開通していなかった明治15年〜16年頃に、月に2度3度と教祖様の元へ参拝され、たくさんのみ教えをいただかれた。それこそ、参拝されるたびに目から鱗が落ちるような新しい発見をされ、その度に大きな感動をいただかれたのであろう。

 同じ本を何度か読んでも、その度に新しい発見ができることがある。同じ映画を何度見ても新鮮な感動を覚えることもある。そんな時って、心が純粋に、なにかを求めているときではないかと思う。
 その先生の一言で、今年の私の目標が定まった。今年は、毎日日常の中から「新発見」できる喜びと感動を味わいたい年にしたいと思う。「日々がさら」の教えのごとく。


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