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天正しぐれ供養
1579~1581年織田信長の軍勢が伊賀の国を攻め滅ぼした天正伊賀の乱。
その戦で亡くなった方々を供養するのが、名張JCが毎年行っている「しぐれ供養」です。
その中で行われる「天正みだれ太鼓」の激しい音を聞いていると、郷土をまもるため必死に大軍と戦った伊賀勢の想いが伝わってきます。
と同時に、地元の人でこの地に織田勢が攻めてきたことを知っている人がどのくらいいるんだろう、と不安になります。
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立派な並木道のある百合が丘
平成2年に竹中土木により造成された百合が丘ニュータウン。名張では、「桔梗が丘」「つつじが丘」に次いで3番目に大きなニュータウン。住宅地だけでなく、市民病院、看護学校、県立高校の他、企業の研修所を誘致。国道からのアプローチの街路樹も印象的です。
いつもは車で通るだけでしたが、住宅地内を歩いてみると、緑豊かな路地のようなスケールのみちを発見。敷地の南側・北側とも道路に面している贅沢なつくりのエリアもありました。ニュータウンに若い世代が多かった頃、この路地で子供たちが遊び、近所のコミュニティが生まれていたんだろうなと感じられました。
また道路舗装にも工夫が見られ、アスファルトとインタロッキングを組み合わせたり、街路樹をスポット的に配置した部分もありました。比較的新しいニュータウンなので、住宅地にただ住むだけでない、付加価値をつくることを意識した街づくりになっていました。住宅地に古墳公園も見つけました。時代を超えた共存に興味深いものを覚えました。
百合が丘といえば、神奈川県の小田急沿線にある百合ヶ丘ニュータウンの方が有名でしょう。ニュータウンに花の名前をつけるのは、いつからはじまったのかまた調べてみたいものです。
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北側斜面に造成されたつつじが丘
名張市の第2のベットタウン「つつじが丘」。資料によると、1976年に大倉建設により造成され、総区画数は約4,400区画、計画人口は約17,600人。 実世帯数は約3,550世帯、人口は約11,300人。商店街のスパニッシュ瓦が当時を偲ばせます。
つつじが丘といえば、「坂」。北側斜面を造成しているため、上野方面から国道368号線を夜帰ってくると、碁盤の目の街の美しい夜景が広がります。名張に戻ってきたなと思わせてくれる風景です。ただ標高が市街地より高いため寒さも厳しく、また坂がきつく一度ボール転がるとどこまでも転がっていきそうなくらいです・・・。写真のように坂の終わりが見えません。
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里山で野鳥を探す参加者
名張のニュータウンは、里山や雑木林を開発造成しつくられました。ただ幸いにも住宅地の周りにはまだ里山が残っています。
里山とは、人里遠い奥山ではなく、生活圏との距離が近く人間の手が加わっているものの、環境と適応し自立した生態系が成り立っている地域を指します。今までは、開発などの環境破壊から里山を守ることが叫ばれていました。現在では、里山に人の手が入らず放棄していることにより生態系を崩し里山を荒廃させていることが、大きな問題となっています。
ニュータウン「桔梗が丘」の裏側には、里山を整備した「東山ふれあいの森」があります。先日、地域の「野鳥の会」主催で野鳥に親しむ企画もあり、こどもと参加してきました。ボランティアの方のわかりやすい説明や塗り絵、かるたなどで、里山・野鳥に親しむことができました。「森へは、双眼鏡の他に感性を持って行ってください」との案内の方の粋な言葉が心に残っています。野鳥は目で見るだけでなく、心で見るということなのでしょうか。
アオサギがゆっくりと飛んでいく様をみて、地方で生まれて育ったのに自然のこと何にも知らないなあと痛感。住宅地だけで完結する生活でなく、周囲の環境も含めて楽しむことができたら郊外の生活がもっと楽しいものなると確信した一日でした。
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雪の中、松明の切出し
春の訪れを告げると言われる、奈良・東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)「お水取り」。
その行事に使われる松明の切り出しと調製作業が、名張市赤目町一ノ井の極楽寺で行われました。雪中、山から樹齢約80年の檜1本を切り出して境内に運びました。法要の後、長さ36㎝・幅9㎝の薪になるように鉈(なた)を振るいました。この松明は、3月12日に東大寺へ運び、翌年の修二会に使われます。
しかし寒かった・・・。伊賀一ノ井松明講で750年以上前から続く行事。伝統を守るって本当に大変なことだと体感した一日でした。
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青蓮寺のぶどう畑
名張はぶどうの産地で、この時期になると道路脇に出店が並びます。特に青蓮寺湖地域と美旗地域が産地として有名です。名張・伊賀地方は、夏場は昼と夜の温度差が大きく、ぶどうつくりに適していたため発展してきたようです。
青蓮寺湖のぶどう畑は、戦後青蓮寺ダムが完成したころからつくりはじめたと言われています。今年で開園して40年とのこと。今では春はいちご狩り、夏はぶどう狩りと、名張・三重県を代表する観光名所となっています。また、ぶどう畑に近い百合ヶ丘小学校では、地元農家の方にぶどう畑を解放してもらい、ぶどうを育て収穫を楽しむ「ぶどう学習」なるものを毎年行っているようです。地域の人々と交流を持ち地元特産を理解する上で意義ある試みです。
そのぶどう畑、山野部にあるため畑を覆うビニールハウスが丘陵部なりにつくられ、全体が大きなドームのように感じられ独特の風景をつくり出しています。ぶどうを食べることを楽しむだけでなく、名張の穏やかな風景の一つとして楽しむことも出来るのではないかと思います。
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桔梗が丘の坂道
山林・丘陵地帯を切り開き造成されたニュータウンには、坂道がつきものです。フラットな道を探すほうが難しいかもしれません。その坂道には、歩行者が近道するためにつくられた階段が見受けられます。以前は子供たちの遊び場所になっていたのが嘘のように、今ではひっそりとしています。高齢者のために新しく手摺がつけられていますが、買い物などでその道を通る人はまばら。
ただ基本的に道幅も広く開放的なニュータウンにあって、両側が擁壁などで囲まれている坂道階段は、均一な街の中でも個性ある空間となり得ているのではないかと思います。バリアフリー上の問題が出てきていますが、それぞれのニュータウンの坂道階段を探して歩くことで、街の魅力として何か発見があるのではないかと思うのです。ひとつひとつに「さくら坂」みたい名称があれば愛着も湧くことでしょう。
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中央公園の大刈込
名張市のほぼ中央にある名張中央公園。公園内には総合体育館、野球場、陸上競技場、プール、テニスコート、児童公園などがあります。
公園を都市計画的に分類すると、規模の小さい順番に「街区公園」(0.25ha)、「近隣公園」(2ha)、「地区公園」」(4ha)、「総合公園」」(10~50ha)となります。名張中央公園は「総合公園」に分類され、住民全般の休息、観賞、散歩、遊戯、運動等総合的に使用することを目的と定義されています。少し運動公園という性格が強いと思われますが、憩いの場といえば平尾山カルチャーパークになるでしょうか。
名張全体の公園をみてみると、中規模の公園が少なくニュータウン造成時につくられた面積が小さい「街区公園」がたくさんあるようです。20、30年前は、どこの公園も子供で一杯でしたが、今は比較的大きな公園以外は利用者が少ないのが現状です。
今までは街区のための公園だったものを、街区外の人も行きたくなるような公園めぐりを楽しめるようなものにしてはどうか。ばらばらに存在する公園を点と点とを結ぶような工夫をすることで、生き返っていくのではないかと思うのです。そのためには、それぞれの公園に遊具を特徴づけることや、数台の駐車場などが必要となってくるかもしれません。市全体の公園も整備時期だと思いますので、ひとつひとつを考えるのではなく全体として特徴つけながら整備することが有効なのではないかと考えます。新しくつくることが時代的に難しくなってきている現在、あるものをどのように再生していくのかが大切になってくると思います。
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長瀬の流れ橋
名張川上流の長瀬にある流れ橋です。木材を組んだ床材をコンクリートの脚に置いてあるだけなので、洪水時に流されるように出来ています。流されても近くの大木と結びつけられたワイヤーと床材が巻きつけてあるので再び引き上げて設置することが可能なのです。ここでも自然に逆らわない姿が垣間見れます。今でも地域の生活になくてはならない橋として使われています。
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桔梗が丘ゴルフコース
名張市には、桔梗が丘ゴルフコース、名張カントリー倶楽部、名張サウスカントリー倶楽部、グリーンハイランドカントリー倶楽部の4つのゴルフコースがあります。そのほか3つのゴルフコースが名張市に接してつくられています。
ゴルフコースは、バブル景気時代に建設ラッシュが起き、1988年に施行された総合保養地域整備法(リゾート法)がそれに後押しする形となりました。1990年代には日本のゴルフ場の総数は2,000を超える数にまで増加したといわれ、自然環境破壊に繋がるとの批判もあります。
名張も住宅地開発と共に山を切り開きゴルフコースが造成されました。以前、茶臼山に登って名張を俯瞰したとき、住宅地、工業団地、ゴルフコースが緑の中に浮かんでいる様子が印象的でした。車や近鉄電車で大阪方面からゴルフをプレーするためにやってくる人たちがたくさんいることを思うと、名張に住みながらゴルフコースに行ってないことが少しもったいないと感じてしまいます。練習して一度行ってみようかなと思っています。
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松明調進行事
関西では「お水取りがすめば暖かくなる」と言われています。お水取りとは、東大寺二月堂で行われている修二会(しゅにえ)の中の行法のひとつです。赤目町一ノ井の松明講の人達が調進するこの習わしは、750年以上前から続いており、現在、名張市無形民俗文化財に指定されています。
毎年2月11日に山より伐採された松明木は、3月12日に東大寺まで運ばれます。今年も3月12日に行われた松明調進に一般参加を含めて100人を超える方が参加しました。私も初めて参加してきました。朝6時ごろ極楽寺を出発、坂ノ下を経由し奈良県境の笠間峠を超えるまで歩き、奈良駅付近までバスで移動します。そこから再び東大寺まで歩き、11時前に到着しました。昔は、笠間峠から大和高原を超える約30kmのルートを運んでいたとのこと。今年運んだ松明は1年間保管・乾燥され、来年のお水とりに使います。途中山道で松明を少しだけ担がせてもらいました。結構重かったですが、桧のいいにおいがしていました。
今日、一般の方にも開かれた状態で事業が引き継がれているのは、準備・サポートするボランティアの方々のおかげです。近鉄電車を使って名張から東大寺まで運んでいた時期もあったようですので・・・。今も残る荘園時代の山道を歩くことで、奈良と名張の繋がりを体感できるいい機会でした。
詳しい案内はこちらから → http://www.e-net.or.jp/user/taimatsu/main.html
(「おきつもの名張 今と昔」参照)
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赤目四十八滝(布引滝)
赤目の滝は、古くは行者修行の地として知られており、信仰の対象の土地でした。大正14年(1925)国の名勝に指定され、昭和5年参宮鉄道(現在の近畿日本鉄道)の開通によって「名瀑」として世に広く知られ、多くの観光客が訪れるようになります。
現在でも、「日本の滝100選」「森林浴の森100選」「遊歩100選」に選ばれ、名張を代表する観光地。寺島しのぶがヒロインを演じた、映画「赤目四十八滝心中未遂」の舞台にもなっていました。
「赤目五瀑」は、四十八滝最大の滝「不動滝」、四方八方に落下する「千手滝」、白布のように落下する「布引滝」、「荷担滝」、「琵琶滝」と言われています。
子供の頃、滑らないように靴に縄を巻いて見に行った氷瀑の美しさは忘れられません。新緑・紅葉など季節によって楽しみ方があるので改めて訪ねるのもいいと思います。
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公団住宅「桔梗が丘第1・第2住宅」
名張のニュータウンは、基本的に戸建住宅が中心です。
その中で、桔梗が丘にはUR都市機構(旧住宅・都市整備公団)の公団団地が2か所あります。(1980年完成)
公団発足当初は、高度経済成長期に国の住宅政策の一環として公的資金を投入し、中産階級に良質な住宅を供給することが目的でした。大都市の急速な人口増加の中で、良質な設計の防火集合住宅を低廉なコストで大量に市民に提供した意義は大きいものがありました。
当時、首都圏や京阪神圏の郊外で多数の団地が建設され、多摩ニュータウンなどのニュータウン開発も行ってきました。しかし時代は変わり住宅過剰となった現在は、都市の再開発、ストックの再利用へとその役割が変わってきています。
三重県には、名張市と桑名・四日市・津市に公団住宅がありますが、名張は関西エリア、それ以外は東海エリアとして売り出されています。桔梗が丘の公団住宅は、採光とプライバシーを考慮した雁行配置で計画されており、今の視点で見ても住環境への配慮がなされているように感じました。現在、賃貸/3LDK/68㎡/約45,000円で入居募集しています。
近年団地を遺産として見直そうということで、写真集や本も出版されています。団地は、郊外の風景として、なくてはならないものなのでしょう。
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大屋戸の沈橋
名張川は、奈良県の御杖村を源流としています。市街地で青蓮寺川・宇陀川と合流し、市中央部をU字型に蛇行して流れます。その後、奈良県・京都府県境の山あいを進み、木津川・淀川へと合流し、やがて大阪湾へたどりつきます。
この名張川に、いくつもの橋がかかっています。
その中で気に入った橋のひとつに、大屋戸の沈橋があります。大水の時に水面下に沈むように鉄筋コンクリートでつくられた橋で、流木などがひっかからないように欄干がなく、橋の端部も薄く作られています。
この橋を取り上げた理由は、飾りのないシンプルな構築物が、川の流れに負けない力強さを持ちながら落ち着いた風景をつくっていること。橋を渡るときに川との距離が近く、水を身近に感じられることです。並行して架かっている大屋戸大橋からは、感じられない感覚です。
また、自然に抗うのではなく、大水のときは沈むことを前提つくっていることに、コストを含めて先人の知恵を感じます。川を支配してしまうのではなく川と共に生活する、大水も受け入れる人間の謙虚さが、風景にも表れているのではないかと思うのです。
この橋は今も現役で、大屋戸地区と名張市街地との近道として地元の人に利用されています。市街地からそれほど離れていない場所でありながら、構築物がこの沈橋以外見えないという風景は、貴重なものだと思います。残してほしい風景のひとつです。
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蔵持工業団地付近
名張市には現在、蔵持・八幡・滝之原・三ツ池の4つの工業団地があり、トステム、コクヨ、ノーベル製菓などの工場が稼働しています。大阪のベッドタウンとしての街から、働くことのできる街へ変わりつつあるようです。働くことのできる街・・・、「自立した街」を目指す名張市の長い間の念願です。
名張は、古くから初瀬街道が通り、伊勢参拝客、大和めぐり客の宿場町として栄え、その名残は明治時代中期まで続きました。しかしその後、鉄道の発達が宿場町の繁栄に大きな影を落としました。関西線が上野(現在の伊賀市)の北側を通ることになったため、名張は交通の要所しての立場を失いました。その後「陸の孤島」のような状態を脱するのには、大阪まで直通する昭和5年の参宮鉄道(現在の近鉄)開通まで待たなくてはなりませんでした。この永い空白の時代が、古い宿場町から近代的な工業都市への移行・発展を中断を余儀なくされます。そのため、この後遺症からなかなか立ち直れず、昭和に入り戦後になっても確たる近代的な産業を持てない状態が続きました。
明治から大正にかけて名張の代表的な産業は製糸工業でした。大正中期からは、製材業が代表的な産業となり、現在の木屋町付近は材木屋の町として栄えました。そんな中、当時から現在に至るまで続いている企業もあります。明治45年に高北新治郎が創設した、現在東証2部上場の高北農機です。高北農機は、「高北のスキ」で全国の農村に名声をはせた農機具製造企業です。高北新治郎は全国を回って農機具使用の指導にも携わり、昭和39年、名張市初の名誉市民に選れています。
そして、昭和40年(1965年)に開通した大阪と名古屋を結ぶ「名阪国道」と、昭和48年(1973年)に開通した津・大阪を結ぶ「国道165号線」の2本の幹線道路開通が大きな転機となります。上野では名阪国道沿いに工業団地が造成され、名張でも、昭和44年(1969年)に蔵持、昭和58年(1983年)に八幡工業団地が造成され、工業化の基礎が出来たのでした。
このような流れで工業化が進んできたわけですが、八幡工業団地が造成された頃は、大阪に通勤する人がほとんどだったように思います。思ったようには誘致が進んでなかったのでしょうか。それが30年ほど経って状況が変わってきたのでしょう。昨年は、新しい工場誘致のニュースもありました。
景気が厳しく税収が伸びない中、工場誘致は地方自治体の大きな課題になっています。今後とも環境に配慮しながらの誘致が期待されます。
(参考:名張の歴史/中貞夫著)
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観阿弥まつり(2009.11.1)
今年で40回目を迎える観阿弥まつりに行ってきました。
なぜ名張で観阿弥まつりなのか?
「観阿弥創座之地」の記念碑の裏面には、次のような申楽談義の一文が刻まれています。
此座の翁は弥勒打也
伊賀小波田にて座を建て初められし時
伊賀にて尋ね出したてまつりし面也
諸説があるようですが、南北朝時代、能楽の大成者・観阿弥が妻の出生地名張市東部小波田の地で一座を起こしたと言われています。
そのゆかりから、息子・世阿弥と共に足利義満に取り立てられ能楽を発展させた功績を後世に伝えるために、「観阿弥創座之地」記念碑・能楽堂が整備され、毎年11月に、地元の子供による狂言や愛好家による仕舞などが行われています。子供の狂言「以呂波」には、会場から笑いも起こっていました。
○○ゆかりの地としてのまちおこしは各地で行われていますが、お題目だけではなく、地道に活動されている関係者の方の努力と積み重ねが大切だと改めて感じます。そしてこども達が小さい頃に伝統文化を体で経験したことは、継承していく助けになっていくでしょう。地域から新興住宅地の子供たちにも、少しずつ理解が広がっていくことを期待したいです。
(参考:名張市HP)
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馬塚古墳(2009.9.9)
名張市には、市東部の美旗地区や市西部の赤目地区などに多くの古墳群があります。
古墳といえば美旗地区しか知らなかったのですが、調べてみると名張のあちこちに古墳があったようです。その古墳の形式も地域によって違い、美旗地区では平地に盛土をしたもの、赤目地区などでは自然の山地を利用したものとなっています。時代による形式の違いではないかと言われています。
美旗古墳群には5基の前方後円墳と1基の円墳からなり国の史跡に指定されています。この古墳群は造られた年代・世代が違っているので、それぞれが個性あふれた魅力ある姿を見せてくれます。その中でも、馬塚古墳は典型的な前方後円墳で、後円部の径約100m・高さ約15m、前方部は長さ約60m、幅は接合部で40m、端で100mに広がっています。周囲には幅7mから広いところで25mの濠があります。
古墳時代は3世紀~7世紀といわれ、ほぼ大和政権時代に相当しています。そのころの都は奈良盆地の南側飛鳥地方が主でした。伊賀地方と大和地方とは山ひとつ越えた隣接地で、有力な族長を配し、伊賀地方の安定を図ったのではないかといわれています。そのことが山深い伊賀地方に古墳がたくさん造られる要因となったのでしょう。
(参考:名張の歴史 中貞夫著)
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新田水路(2009.8.23)
この水路は、江戸時代藤堂藩によって小波田野と呼ばれる台地を新田開発するために引かれた水路です。
水路水源地を調べてみると、前青山町の高尾から水路を貫通させているとのこと。そのことによって安定した水利を確保したようです。そのルートは、国道165号線のすずらん台入口付近にコンクリートの小さな水路が道路の上部にかかっていることからもうかがえます。
また、水路に並行する形で通る初瀬街道は、藤堂藩の政策として、苦しい新田開発事業を宿駅にて補足させようとして元々のルートを変更して今の場所にしたとのことです。その結果、街道沿いに旅籠や商店が並ぶようになったといいます。現在も街道沿いは、当時の面影を残しています。
稲の穂が黄金色に染まる美旗・新田の田園風景を貫通するように流れる水路を歩きながら、江戸時代に形つくられた風景に想いを巡らしました。
(参照:三重県の歴史散歩 他)
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シャックリ川(2009.8.9)
「シャックリ川」という変わった名前の川があります。名前の由来は、川の流れが曲がっているのでしゃくれている川だとか、川のほとりに立つとしゃっくりがでるから・・・などの説があるようです。
こどもの頃、「川に行く」といえば、この細くあまりきれいとはいえないシャックリ川でした。食用カエルを捕まえてバケツに入れて持って帰った記憶もあります。当時、現在のように道路が延長されていなかったので桔梗が丘エリアと蔵持エリアは、このシャックリ川で切断されており、まさに新興住宅地と農村部との境界を流れていました。
あまり存在感のない川ですが、新興住宅地・工業団地の側を流れるだけに生活の環境を受けやすく、川のよどみが近年の名張の歩みを映し出しているようです。
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比奈知ダムを見上げる(2009.8.2)
比奈知ダムは、1998年に竣工した、高さ70.5mの直線重力式コンクリートダムで、水力発電もおこなっているようです。名張川流域に設置されたダムとしては、高山ダム・青蓮寺ダム・室生ダムについで4つ目ということになります。
このダムは個人的に思い入れのある場所なのですが、見るたびに切なくなってきます。それは、学生時代に建設中だったこの場所を、卒業設計の敷地に選んだ場所だからです。ダム湖のほとりに能舞台を中心とした文化施設を点在させ、名張の水が大阪に流れていくように文化を発信していこうという趣旨で計画したものでした。
しかし、結果できたものは、このスケールに負けてしまい、惨敗でした。今思い出しても悔しいというか情けないというか・・。なので、子供が親水公園で遊んでいる中、ふとみるダムの雄姿には、正視できないものがあります。しかし別の見方をすると、自分を奮い立たせてくれる場所とも言えるので、定期的に訪れるのもいいのかもしれません。
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名張でも、ファミリーレストラン、カー用品店、カーディーラー、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、紳士服、本屋、電化量販店、消費者金融などロードサイド店舗と呼ばれる店舗が国道沿いに並んでいます。何もなかった子供の頃を考えると信じられない光景です。(名張は立地柄、関西圏と東海圏の店舗が混在していることが特徴のようです。)
郊外に住宅地ができたことにより店舗が車での便がよいロードサイドに集中し、中心地の商店街が衰退、シャッター通りの出現・・・、いわゆる空洞化が起きました。
しかしそのロードサイド店舗も、車の流れとともに移動するため、取り残された店舗は閉店することになりゴースト化する危険性もあります。名張でも、国道165号線を東から西へとその中心を時間と共に移動しているため、以前中心だったエリアは廃墟のような状態になっています。
ロードサイド店舗の画一的な風景にも問題がありますが、それ以上にそれら店舗が閉店となった廃墟のような状態は、規模が大型なだけに街の風景に与える影響は大きく心配されます。広域に広がっていくのではなく、よりコンパクトにまとまっていくイメージが求められるように思います。

国道165号線沿(2009.07.20)
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名張藤堂家邸跡で名張藤堂家の系譜をみて、子供の頃から感じていた上野と名張の少しぎこちない関係とでも言えるでしょうか、互いに意識し合っているその根元のひとつがわかったような気がしました。
戦国の世をたくみに生きぬけてきた藤堂高虎は、実子に恵まれなかったため、養子として迎えた高吉を後継者と思っていたようでした。しかし、その後実子の高次が生まれたため、高虎死後、高吉は藤堂家の家臣となり名張に移封され(1636)名張藤堂家が誕生したとのことです。しかし高吉を脅威に感じた本家(上野城)からは冷遇され、対立は続いていたとのこと。そして、本家の家臣に甘んじていた名張藤堂家が独立を働きかけた「享保騒動」という事件にもつながっていきます。そのため後は上野城の監視下におかれることになったといいます。
冷遇にも腐らず、名張の町の発展の礎を築いた高吉。藤堂家ということでひとくくりにしていた自分の無知に恥ずかしくなったとともに、江戸時代からの怨念が今なお何らかの形で残っていることに驚きを隠せませんでした。

名張藤堂家邸跡(2009.07.12)
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名張の市街地はいくつかの川が合流する位置にあたるため、昭和34年の「伊勢湾台風」に代表されるような大きな水害にたびたび遭ってきました。その解決策と水の確保のために昭和39年に青蓮寺ダムが着工され、昭和45年に運用開始してからは大規模な水害も少なくなったと言われています。
青蓮寺ダムは、ダム形式:アーチ式コンクリートダム、堤頂長さ:275m、堤高:82m。名張川及び淀川沿岸の洪水調節や、伊賀盆地の新規灌漑、大阪市・大阪府・尼崎市・西宮市等の阪神圏と名張市への上水道供給、発電(2,000kW)を目的とした多目的ダムとのことです。アーチ式コンクリートダムは、外観が美しいことが特徴で観光地となっているダムも多く、代表的なものは日本最大の黒部ダムとのことです。青蓮寺ダムも周辺のぶどう畑と共に名張の観光地してシーズンには多くの家族づれが訪れています。
また、このダムが淀川水系の上流に位置し、大阪の上水道供給を担っていることは、あまり知られていないことだと思います。今年下流の大阪では「水都大阪2009」ということで多種にわたるイベントが開催されるようです。下流だけで盛り上がるのではなく、上流での水の育みを忘れないでほしいですね。

青蓮寺ダム(2009.07.04)
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ニュータウンとそれまであった風景との境界に興味があったと以前書きました。開発当時には、風景から切断された荒々しさがあったものです。久しぶりに見た風景が20年前とは見違えるようになっていたので写真を撮りました。開発から40年~30年ほど経って、昔からの田園風景となじんできた状況がうれしくもあり、少しさみしい気もします。ニュータウンも時間をかけて風景の一部となってきたようです。

下三谷と梅が丘の境界(2009.06.28)
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名張を一望に見下ろす視界を体験できるのが、標高535.8m名張市最高峰の茶臼山です。奈良県の室生・山添に隣接しています。古くはこの山を越えて奈良から伊勢へ向かったということ。松明調進もこの山を超えて東大寺まで運んだと言われています。
茶臼山は、名張について改めて調べよう思った時から一度行ってみたい場所でした。それは、名張のまちを眺望することでまちの輪郭を感じてみたいことと、名張と奈良を遮るこの山々を実感として感じたかったからです。実際頂上から眺めてみて、蛇行して流れる名張川が旧街の形をつくり、そして開発から40年ほど経ったニュータウン群が緑豊かな自然に包み込まれている様子を改めて感じることができました。ただ、それぞれのニュータウンは個としては成熟してきたものの、完結してしまい、それぞれが関係性を持ち得てないない現状が鳥瞰することでより見えてきます。
また頂上にあるテレビ塔群は、この山で遮断されている大阪からの電波、名古屋からの電波を中継しているとのことです。まさに、この山は関西との「壁」なんだなと痛感しました。名張は関西系のテレビが見ることができる三重県では特殊な場所なのだと改めて関西圏に住んでいるということを認識しました。ただデジタル放送になれば関西系の電波が届かないとの話もありなんとかしてほしいものです。
今日は梅雨の中休みということで視界良好、すばらしい景色でした。(実は昨日もやってきたのですが視界が良くなく、いい写真がとれなかったため2日連続の茶臼山です。)次回はハイキングで登りたいなと思います。

茶臼山山頂より名張市街地をみる(2009.06.28)
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鉄道の歴史とともに近代の名張の歴史を少し振り返ってみます。
JR関西本線(湊町-名古屋)は関西鉄道として誕生し、名古屋~湊町間が開通したのが明治33年(1900)でしたが、残念ながら名張は通らず北側の伊賀上野を通っていました。そのため私鉄の伊賀軌道が大正11年(1922)伊賀上野~名張間を開通させていますが、明治初期まで伊勢参宮の宿場町としてにぎわっていた名張も沿線から遠くなったため人・物の流れが薄れ、一端寂れてしまったようです。しかし、近畿日本鉄道の前身 大阪電気軌道と参宮急行電鉄が昭和5年(1930)大阪~伊勢を全通させ、名張にも鉄道の駅がやっとできたことで、大阪からの遊覧地として知られるようになりました。その後は、昭和40年代の桔梗が丘を代表とする宅地開発によって大阪のベットタウンとして生まれ変わります。
住宅地を開発してコンスタントな乗客を確保するという方法は、すでに大正の末から小林一三が阪急電車の経営で考え出した方法だといわれています。沿線に住宅をつくれば、そこから毎日大阪に通勤する人、あるいは通学する人が自動的につくり上げられてゆく。そのようにして日本の大都市の私鉄は成長してきました。まさしく住宅地の成長は近鉄電車の成長に直結するものでもありました。桔梗が丘の場合、街の成長と共に駅が新しくなり、特急が停車するようになりました。
しかし最近、名張からの近鉄電車乗客数が減っているといわれています。都心回帰による人口減だけでなく、大阪への通勤より上野方面の通勤が多くなったという事実が原因にあるようです。大阪まで通っていた団塊の世代の方が退職し、その子供世代は大阪まで通勤することを選ばなくなっているとのこと。確かに大阪まで毎日通うのは仕事の内容にもよりますが、疲れますよね・・・。大阪のベットタウンとしての性格が今後益々薄まっていくのかもしれませんね。

桔梗が丘駅のホームに入る近鉄電車(2009.06.20)
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いろんな場所を旅をすると、時間が止まったような場所に出会うことがよくあります。それは時代の動きに影響されない場所ともいえます。おそらくニュータウン開発がおこなわれる前の名張は、そのような場所だったのかもしれません。しかし名張は長い歴史の中で陸の孤島といわれながら、節目節目にそれぞれの時代の動きに影響され、その痕跡を残しているようです。それは、名張が奈良・京都・大阪から伊勢へと向かう中間点にあるからでしょうか。父天武天皇の即位とともに伊勢斎王となった大来皇女が、父の菩提を弔うために建てたといわれる昌福寺(夏見廃寺)がこの名張の地だったということからもそう感じます。
その昌福寺(夏見廃寺)は飛鳥時代後半(7世紀末~8世紀前半)に建立されたと推定される古代寺院跡です。天武天皇にとっては名張は、壬申の乱において吉野から大津へと兵を進めた地であり出陣・凱旋の地だとも言われ、大来皇女にとっては、飛鳥から斎宮へ至る想い出の地だったようです。
天智天皇死後、大友皇子と大海人皇子が争った古代日本の最大の内乱とも言われている壬申の乱がこの名張も関係していることは、歴史好きな人間には誇らしく小学生の頃行われた遺跡調査見学会には参加していました。連日新聞でも発掘調査の様子が全国版で取りあげられていましたね。
現在遺跡は公園として整備されています。古代ロマンに浸っていた気持ちを残念ながら現実に戻してくれたのは運動公園の中にある立地条件からくる子供たちの歓声でした。

夏見廃寺の遺跡(2009.06.13)
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突然ものすごい音がなって土煙がたち、小高い丘の頂上がなくなったこと今でも覚えています。あるニュータウン造成工事のため山を崩す爆音でした。当時次から次への開発された新しいニュータウンと昔からある集落との境界は、切断されたような荒々しさがありました。ニュートラルな新しい街よりいろんなものが混在している境界を歩くのが好きでした。
名張は、昭和40年代後半から大阪へのベットタウンとして発達し、桔梗が丘、つつじが丘、富貴ヶ丘、百合が丘、梅が丘、すずらん台・・・、最近のものでは希央台などたくさんの新しい街が生まれ、人口も約3万人だった街が約8万5千人になりました。しかし、現在高齢化が進んでいることから「ニュータウン」とはほど遠く「オールドタウン」となっている場所も少なくありません。これは名張だけの話ではなく、全国のニュータウンで起こっている現象です。
ニュータウンの街?名張から、ニュータウンの将来への指標となることがひとつでも出来ればいいのになあ・・と漠然と思っていますが、現状は厳しいようです。
桔梗が丘西より桔梗が丘を望む(2009.06.6)
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子供の頃歴史が大好きで、小学校の図書館で「マンガ日本の歴史」を何度も読んでいました。その中で、鎌倉時代の「荘園と悪党」を語る部分で「黒田荘」の様子が出てきていました。登場人物は確か名張太郎という名前だったような・・子供心に全国区だ!とひそかに喜んでいたものです。東大寺の支配体制が弱体化し、武家勢力が浸透し始める時代を描いていました。
近鉄電車に乗って大阪から名張に戻ってくる時、山深い奈良との県境を超えると、視界が全面に広がり明るく気持のよい田園風景となります。この一帯が奈良東大寺の荘園として発展していた「黒田荘」を偲ばせます。この気持ちよい空間体験は、大阪より都市・住宅地・山間部と電車に乗って移動してきたからこそ得られる視界の楽しみだと思います。同じ風景でも、見方によって違いますね。実際、現地に行ってみると、電車の座席からの視点とは違った印象でしたから・・。
毎年3月に行われ春の訪れを告げる東大寺お水取りの「松明の寄進」も荘園時代から続いているようです。現在も笠間峠を超えて東大寺まで歩いて「松明寄進」する行事が続けられているとのこと。一度参加してみたいなと思っています。

田園風景(2009.05.30)
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あまり知られていませんが、名張を流れる名張川は、奈良県・京都府の山あいをぬけ淀川に合流し大阪湾へと流れ込みます。基本的に三重県の河川が、伊勢湾・熊野灘など東・南側に流れている中では、西に向かって流れるこの川は、特殊だと思います。名張川がいくつかの川と市街地で合流し、蛇行しながら奈良県にぬける手前に、この薦生(こもう)の桜堤があります。
30年ほど前、薦生で木工所を創設した祖父が多くの親族を招いて花見を盛大に開いたことをおぼろげながら覚えています。今では、あまり訪れる人も少なくなりましたが、その頃名張で花見といえば、薦生の桜堤でした。花見客で一杯となった堤を、競い合って段ボールで滑り降りたことを思い出します。現在では、運動公園が花見の中心となっているようですが・・・。今年の桜は例年より早く、訪れた12日は葉桜の様相でしたが、ひと組の花見のグループがのんびりと詩吟を楽しんでいました。今となっては花見の穴場ですね。気持よさそうでした。
堤からのんびりと流れる名張川をみながら、電車で1時間の大阪との距離を、川・水という視点から見てみることもおもしろいのでは・・・・と想いにふけるひと時でした。

薦生堤を望む(2009.4.22)
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名張・桔梗が丘で事務所を開設するにあたり、改めて地元を知らないことに気づく。
大学進学と同時に名張を出てからは京都・神戸・横浜での生活、結婚を機に地元に戻ってからもベッドタウンの名のとおり、大阪の職場との行き帰りが精一杯では仕方がないか・・・・。
今改めて、ある程度はひと通り揃うようになった街を見渡して、子供のころは本当に何もなかったなあと思いにふける。砂ほこりがたっているイメージが思い浮かぶ。
ただ、小さな街にも勢いがあったと子供ながら感じていた。新しい家がどんどん建ち、新学期になるたびに転校生がやってきて新しい友達が増えた。個人的には一時期人口増加率が日本一だったことが小さな誇りだった。
しかし今やかつて開発された街も高齢化を迎え街の活気がなくなり、都市部の土地価格下落でUターンする人が続出と、20年前から思えば急激に姿を変貌させている。
今自分にできること
それは子供のころの街の記憶と仕事柄建築というフィルターを通して、名張の今昔に迫ること、
自分の中の「小さな誇り」を取り戻すことだと思っている。
(2009.2.14)
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