紀伊半島のツキノワグマ(和歌山県)
 【紀伊山地野生鳥獣保護友の会】を主宰され、和歌山県で野生鳥獣保護活動にご尽力されている東山省三先生を、有田市のご自宅へ、夫婦で訪ねました。

 ご高齢(80歳)のため、会長の役は冨田雅之さんに変わられましたが、

 『高山に野生動物安住の森を!』
 『人の心に愛情を育てる森を造りなさい!
  野生生物の保護は、人の心そのものなのです』


と仰り、野生生物の生態に大きな影響を及ぼしている、観光道路ゴミ箱問題の改善や、奥山での堅果類の植樹、その木々の世話、また山に棲む生物たちへの餌運びや生息調査などを通して、今も鳥獣保護に心血をそそがれておられます。

 『全ては現場にあります。心眼を持ってすれば、
  他人に見えないものが必ず見えてきます!』

 『保護は机上で語るものでなく、足で稼ぎ手で行うものです』

 以下の内容は、東山先生の長年にわたる活動の、ごく一部を伺ったにすぎませんが、とても勉強になりました。


クマの太郎と遊ばれる東山先生
(生石高原の県保護施設にて)
和歌山県のツキノワグマ生息域、その変遷


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 ツキノワグマが生息する紀伊半島の高山帯は、ユルギ山系、長峰山系、白馬山系、笠塔山系、法師山系の5山系が、東西に半島を横断する形で、地図の上から下へ5段に並んでいます。

 また半島北部では、陣ヶ峰山系と鉾尖山系が、先の5山系とほぼ直角に交わる複雑な地形を示します。

 標高は、弥山(1819m)、八経ヶ岳(1914m)、釈迦ヶ岳(1799.8m)周辺を頂点とし、1200m以上の名のある山だけで、おおよそ50座を数える大脊梁山脈です。
 総称して大峯山系と呼んでいます。

 吉野から熊野まで、約120Kmにおよぶ大峯は奥駆道ともよばれ、険しい山並みは平安時代から山岳修験者によって歩かれてきました。


 紀伊半島の野生のクマは、標高800m〜1200mの高山帯に生息しています。
 銭谷武平さんの【大峯こぼれ話】という本に、クリが人間を助けたという興味深い記述がありました。
奈良県、洞川村の出来事です。
 『むかし、江戸時代には、大飢饉が度々あった。享保の頃、村人に飢饉を克服する一番の方法は、山に栗を植えることであると、栗の植林を説きまわる一人の男がいた。名を中山半之丞。

 最初は村人も乗り気ではなかったので、半之丞は自分で栗苗を育て、あるいは山に栗の実を種として埋めた。

 【桃・栗三年、柿八年】のたとえのように、早く植えた栗の木には実がなりはじめていた。村人をつかまえて話すよりも、拾い集めた栗の実が、何よりの説得材料になった。

 秋になると栗粥を食べながら、次第に多くなる栗の収穫を前にして、人々は半之丞の誠意に頭を下げた。村人は共同して、栗山を広げていった。

 安永七年(1778)中山半之丞は亡くなった。村人は、心から半之丞の死を悼んだ。

 しかし、月日のたつのは早いもので、彼の植えた栗のうちには、すでに樹齢が20年くらいまでになって、あちこちに栗林や栗山として育っていた。

 半之丞の死後、5年たった天明3年(1783)。この年も東北地方は冷害にみまわれ、多数の餓死者が出た。その翌年も春から夏に諸国は飢饉にみまわれた。

 洞川村でも、天明・天保の飢饉には、離村者もかなり多く出たらしいが、大部分の人たちは、クリの実を食べて救われた。

 山が高くて気温が低い寒村では、昔から、クリ、トチ、ホゾ(ナラ)、カシ、カヤの実などを拾い集めて利用してきた。他には、マタタビ、ワタカズラ、アケビ、クワ、ブミ、ヤマナシなども食べた』


東方出版(1997年)
 隣村の下北山村では、トチやカシ、カヤなどの実を食べていたようです。

『米を三年食わいでも、トチやカシでかつれやせん』
といって、山の糧は、動物たちのみならず、昔から山村の人々にとっては貴重な食料でもあったのです。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 中世期から江戸時代にかけて、朝野を問わず盛んに行なわれていた熊野詣の歴史書(新宮市史)には、江戸から海路を辿って船付けた海岸に多くのクマが遊ぶ姿を見たことから、熊野という地名で呼ばれるようになったと記されています。

 近年、紀伊半島南部の高温多湿の気候がスギ、ヒノキの植林に適しているために、半島南部から開発がはじまり、クマの生息域が徐々に半島北部に追いやられていきました。
 半島南部でのクマ目撃情報の激減が、それを物語っています。

 和歌山県では、昭和28年(1953)の有田川大水害を契機として復興造林が始まりました。

 その後、開発造林が加わり、キリ(和箪笥の材料)、カシ(建築用材)などの木が切り尽くされ、跡の裸山にスギ、ヒノキの針葉樹が植えられました。

 その過程で、クリ、ブナ、ミズナラ、クヌギなどの広葉樹も、雑木扱いにされるか、せいぜい木炭業に利用されながら、次々と姿を消してしまいました。

 平成4〜6年(1992〜4)の和歌山県におけるクマの目撃情報は、半島南部においては、たった2例を数えるのみで、他は半島北部から中央部に集中しています。

和歌山県におけるクマの駆除頭数と推定生息数
昭和20年(1945) 昭和35〜40年
(1960〜65)
昭和41年〜平成元年
(1966〜89)
〜現在
不明 (県が資料を公開せず) 推定駆除頭数、約80頭 約80頭駆除 約10頭駆除
100頭以上が生息 推定100頭 推定20頭未満 推定10頭未満
 復興造林に次ぐ、開発造林が行なわれると、当然、クマと人間に軋轢が生じます。県は自然林減少に伴う調和策として、成獣に10万円、子グマに5万円の奨励金を支給しました。結果、昭和30年くらいまでに約200頭のクマが殺害されたと思われます。

 和歌山県の奥地に、こんな話が残されています。
  【二つクマ捕っても、三つクマ捕るな】
裏の柿木で三頭のクマが遊んでいたら、2頭までは銃で撃っても、1頭は必ず山に返しなさい。むかしの人は、クマを絶やすなと教え、守っていました。
 クマは4歳くらいから繁殖します。交尾期は6月〜7月初旬ですが、10月ころに着床し、明くる年の1月〜2月末に出産します。子の数はふつう2頭ですが、和歌山県のクマは1頭の例が多く、最近の栄養不足が原因と思われます。

 クマは小さく産み(出産時は300g前後)大きく育てる動物です。そんなことから安産の守り神とされてきました。むかし、和歌山県には、クマにあやかって、撃ったクマの上を女性に跨がせる風習がありました。
 人間は約3000gで生まれ、20年後に20〜25倍の約70Kgとなりますが、クマは約300gで生まれ、4年間で300倍の90Kgに成長します。

 母親と子グマは1年半〜2年のあいだ生活を共にして、四季折々の山の恵みを食べながら、いつごろ何処へ行けば、どんな食料を得ることができるのかという山の記憶を、親から子へ授けます。

 マタギに【イチゴ落とし】という言葉があります。キイチゴの熟すころ(6月〜7月初旬)がメスグマの発情期にあたるので、母親は、それまで連れだってきた子グマをイチゴのなっている谷に連れていき、子グマが食べる姿を見届けて子別れをします。

 マタギたちは、クマの子別れをイチゴ落しと呼びました。なんともオシャレな感覚ですね。
クマの子・太郎との出会い
 東山先生は、昭和51から鳥獣保護委員をされ、51名から成る和歌山県鳥獣保護員連絡会々長を務めながら、数多くの負傷鳥獣の救護を続けられ、現在もその任を継続されつつ、数多くの野生生物の命を助けておられます。

 そんな中で一匹の子グマと出会ったのです。ある日、県の指示で1頭の子グマが
連れてこられました。事情を聞いて、先生は強い憤りを覚えられたそうです。

 親グマと、もう1頭の幼い兄弟クマは撃ち殺したけれど、死んだ親の下で鳴いていた、この子グマは、どうしても殺せなかったと言うのです。


 『良心が引き金を引かさなかった!
  これが動物保護の原点です。
  誰の心にも、必ず良心はあります!』

 
その出会いが、先生に、野生生物の暮らす高山を何とかしなければと、決心させました。
 太郎は2ヶ月半にも満たない、体調30cmあまりの、ヒヨヒヨの赤ちゃんグマでした。

 平成2年4月12日、黒モジの木(爪楊枝の材料)を採るために、山に入った人が、三腰山の山頂から50mくらい下った標高1000mほどの山中の、直径1m余りのトガの古株の上に座っているクマを見届けました。

 近くのスギの木には、爪で引っ掻いた跡や、腰を擦り匂い付けをした跡も見られました。


平成2年2月ころ誕生


先生にジャレつく太郎
 平成2年4月12日には、役場から有害駆除申請が出され、4月14日に、早、県の許可が出ます。クマの発見者を案内に、8名の鉄砲撃ちが山に登りました。

 クマが座っていた古株に近づくとクマの気配がします。そこで上部の穴に銃口を突っ込んで、有害駆除のリーダーがやみくもに発砲し、親子2頭のクマを撃ち殺しました。死体を引きずり出そうとすると、親の下から子グマの鳴声が聞こえます。もう1頭、子グマが居たのです。

 猟師たちは、小さな子グマを、よう撃てませんでした。その子グマが、東山先生の所に運び込まれて来たのです。
 東山先生は県に対して、害獣駆除申請の書類を見せるように迫りました。しかし、県は業務機密のため公開できないと突っぱねたそうです。先生は地元の役場に出向きました、そこに申請書の写しが残っていました。

 申請書には、
 『今は害がないが、今後このクマが大きくなって人間に近寄ると、人間に害を及ぼしかねない。今のうちに銃器による駆除を必要とする』
と書いてありました。

 先生は、その写しを持って県事務所へ行き、
 『高山に出没しているのは人間の方ではないのか!罪のない動物を殺して、どちらが害獣なんだ!

と怒りをぶつけましたが、親子2頭のクマは実害の無い有害駆除によって殺傷され、全ては後の祭りだったと言われました。

お風呂で、ごしごし・・・笑


先生に甘える太郎
 結局、行く当てのない子グマは、東山先生に育てられることになりました。太郎という名前を付けました。

 先生は、県の依頼で京都府から譲り受けた、もう1頭の子グマも一緒に育てました。後から来た子グマは健太と名付けました。


 だんだん大きくなってくると、近所から苦情が出るようになり、仕方なく県の指示で太郎は和歌山城公園へ、健太は古座川町に移されました。

 その後、県は施設を生石高原に建設し、平成7年に2頭のクマが呼び戻され、現在も太郎が元気に暮らしています。


2頭仲良く、健太(左)と太郎(右)


幼獣のころの太郎(左)と健太(右)
 不幸にして健太は病気で死んでしまいました。幼獣のころは太郎の方が体も小さくひ弱な感じでしたが、成獣になると体格が逆転してしまっていたそうです。

 先生は悲しそうに仰いました。
 『手元で育ててやることができたら、元気でいたかも知れません』

死因を調査するために解剖してみると、健太は内臓の病気にかかっていたそうです。

 水槽内で死んでいる健太を引き上げ、育て親の東山先生が、健太を抱きかかえて泣いてている姿を、太郎は見守っていたそうです。
 『太郎、健太君が行くぞ・・・』と声をかけると、太郎は立ち上がって健太の方を見ていました。
 東山先生は、車を見送る太郎の顔を見ると、耐えかねて足元の草をむしって投げ、嘆き悲しまれました。

 その後、太郎は先生の姿を見つけると、
 『健太をかえせ!』
と叫ばんばかりに半狂乱で走り回り、3ヶ月ほどの間、先生を寄せ付けなかったそうです。


生石高原の施設にて

眠たいよお〜目が真っ赤です
 クマの冬眠は、熟睡しているわけではありません。年により幾分かの差はありますが、だいたい12月下旬ころになると冬眠に入ります。

 太郎の動作が平常の動きより緩慢になるのをみて、そろそろ冬眠を迎えたと判断します。この状態が始まる2週間前くらいから、紙やワラを寝床に集めて準備をするそうです。

 餌を食べると体温が上昇します。餌を食べなければ体温は上がりません。クマは冬の寒さをしのぐ為に、冬眠中はほとんど餌を食べずに過ごします。外気温度と体温の差を少なくするのが冬眠です。体温が上がらなければ冬の寒さを感じないのです。

 また、呼吸して酸素を取り込んでも体温は上昇します。通常クマの体温は37度位で、呼吸数は35回/分くらいです。

 冬眠中のクマは4〜5回/分しか呼吸をしません。冬眠中のクマは、呼吸を止めるために気張るので、目が充血して真っ赤になっています。
 クマは冬眠中に、何も食べないで過ごすのではありません。太郎は冬眠準備で弁当作りもします。

 熟した柿を前足で持ち上げて食べながら、足の裏にその柿を塗りつけます。歩く時は、肩の力を抜いて、前足の裏に粘着させた柿を落とさないようにします。厚さ3mmほどの干し柿の板を冬眠前の数日間で準備し、冬眠中、足の裏に蓄えた干し柿を舐めながら栄養補給をするそうです。

 幼いころ母親と死別したにもかかわらず、こんな知恵を自分で考え出すクマの賢さに驚きました。

 また、太郎を和歌山城公園に預けたことがありました。そこで太郎は餌を横取りに入ったハトを食べていました。太郎は鳥の味を覚えました。

 太郎が生石高原に来てから、東山先生が、偶然、雉の糞を靴に付けたまま太郎に近づくと、突然、靴を噛まれました。糞の匂いがしたので、和歌山城公園の記憶が蘇って、採食本能が頭をもたげたと考えられます。


 クマは何時、何処で、何を食べたかと云うことを必ず覚えている動物なのです。この事件が、奥山に、クリの実やドングリの餌置きをするきっかけになりました。山に餌があれば、里の方へ出てくることをしないからです。
クマの追跡調査
 平成7年(1995)2月ころ生まれた幼獣の追跡調査をしました。性別、雄。生まれた場所、有田郡清水町上湯川、近井周辺。

 東山先生は、このクマのことを懐かしそうに説明してくれました。
 『クマが初めて姿を見せたのが生後4ヶ月ほどで、ちょうどネコくらいの大きさだったよ。
  このクマを追っての2年間は、非常に思いで深い日々でした。
  ほんとうに心に残るクマでした。
  でも、すでに自然界では生きられないクマになっていました。
  結局、捕獲して、動物園に送りました』

 このクマは、親が密猟によって殺され1才未満で孤児(みなしご)グマとなっていました。生まれた近くの室川谷を回遊し人前に姿を見せ、近くの木に上り逃げようともしない、人喜ばせの子グマでした。
 この子グマは、残飯の入ったビニール袋は、人声のする所、車の音のする所、ゴミ箱にあることを知っていて、道路沿いのゴミ箱に乗っている姿がよく見られました。

 観光道路沿いを回遊し、あるポイント(ドラム缶のゴミ箱)を中心に行きつ、戻りつしていました。山の食べ物を採るすべが身についていなかったのです。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 左図の実線および破線は、平成7年に発見したクマの回遊の様子を2年間にわたって追跡調査した記録です。

 追跡調査は平成7年6月3日の目撃情報から始まり、翌平成8年5月18日に捕獲するまでを実線で示しました。

 破線は発信機を取り付けた後、5月24日に放獣し、10月23日に再度捕獲するまでの記録です。
 (後に、この子グマは放獣不可と判断し、県の計らいで高知県の動物園に送りました)

 では、2年間のクマの行動がどんなふうであったのか、仔細に記録を追ってみましょう。

 平成7年6月3日、清水町、上湯川の室川の林道付近で、最初に子グマが発見されました。
 杉の切り株の皮を剥いて遊んでいました。近くに親が居るはずと目をやると、40〜50m先で、やはり切り株に座っている親グマが居ました。

 この親子のクマで、非常に興味深い目撃例があります。母グマが子グマを教育する現場に出くわした、森林調査官の報告です。

 ある日、森林調査官が、高さ数メートル程のちょっとした崖を、必死で攀じ登っている子グマを発見しました。親は崖の上から、子グマをじっと見おろしたままです。

 20分くらいして、待ちくたびれた様子の母グマが腰を上げ、森の奥へ移動をし始めます。

 すると子グマは、それまで真っ直ぐ登ろうとしていた崖を、母グマが移動した方向へ、斜めに、へつるように登り、とうとう母グマに追いついて、2頭連れ立って、山の中へ消えて行きました。

 子グマが崖下にいる間じゅう、母グマは決して手をかすことなく、子グマが自力で登るのを待っていたそうです。

 平成7年7月5日、林道上で子グマを見ました。しかし、親グマの姿は、見当たりませんでした。

 10月8日、子グマが、林業の作業場に姿を現します。

 10月24日、少し上流の室川林道脇で、午前7時30分ころ子グマを発見。子グマは山手に駆け上がって逃げることをせず、そばの木に登って、下を向いて遊んでいました。

 密漁で殺された母グマと別れ、この時は、すでに野生本能を失っており、人が近づいても平気なクマに、なっていたと考えられます。

 子グマは、平成7年〜8年の冬を室川林道付近で冬眠したようです。

 平成8年4月29日、観光道路(高野ー龍神スカイライン)で残飯の入ったビニール袋を下げている姿が、観光客に発見され大騒ぎになりました。

 幼くして親離れした結果、山の物を食べる習慣が失せてしまい、人の声、車の音の近く、道路沿いで、餌を求めてうろつくクマになってしまったのです。

 5月6日、9日と粉河町・上鞆淵の道路沿いで発見。

 5月17日、ユルキ山付近の道路上をトボトボ歩いている姿を見かけました。

 5月18日、美里町・鳶ヶ巣山(394m)付近の民家裏に出没し、捕獲檻で捕えられました。
 捕獲した子グマの奥山放獣は県職員を中心に行なわれました。この時、無線機を背中に付けて追跡調査を実施しようという試みがなされたのです。

 県職員は、子グマが最初に目撃された室川林道付近へ放獣したのですが、たった2時間あまりで、清水町の町中に現れてしまいました。

 結局、先生が2回目の放獣をすることになり、清水町上湯川の、40年の経験をもつベテラン猟師のところへ相談に行きました。

 猟師は、何か起こったら責任が重いから安易には言えないと、始めのうちは口を閉ざしたままでした。

 東山先生は、あなたならどう思うか、考えだけでも教えて欲しいと頭を下げました。

 すると猟師は、先生がそこまで仰るならと、城ヶ森山(1269m)に放てば、中津川の国有林へ入るはずだと、言ってくれました。

 クマの通り道はちゃんと決まっているのです。クマの回遊路を知らないものが奥山放獣など、できる訳がありません。

 クマを捕獲して、麻酔銃で眠らせ、安易に奥山へ放獣するようなことは、してはならないのです。
 せっかく放獣しても、直ぐ山から出てくるようでは、地元の反感を招くばかりです。奥山放獣は、慎重にやらなければ効果がありません。

 平成8年5月22日、背に発信機を付け、清水町下湯川の標高500m位の林道上に放獣しました。

 5月23日、清水町役場の向かいの山で発信音をキャッチ。

 5月25日、龍神スカイラインの白口峰(1110m)付近で発信音。

 5月27日、龍神スカイラインを横切り、奈良県側で発信音。

 観光道路沿いの、ドラム缶のゴミ箱を漁っている姿が発見されます。

 5月29日、高野町、湯川付近で発信音をキャッチするも、発信機が脱落してしまいました。

 6月3日、高野山、女人堂付近で目撃。

 6月5日、ドラム缶のゴミ箱近くの木に登っている姿が、再び目撃されます。

 7月4日、牛廻山(1207m)の西方、龍神村で人間に近寄って遊ぶクマを確認。龍神スカイラインに沿って南下移動してきたものと考えられ、ます。

 8月22日、再び北上した子グマが、花園町の林道上に座っている姿を、近所の住民が見かけます。

 10月18日、奈良県大塔村宇井で、標識の入った、この子グマが発見されます。

 10月22日、さらに北上した子グマは、とうとう紀ノ川の川岸近くまで移動し、橋本市の横座で発見され、23日に捕獲しました。

 この時点で、東山先生は、子グマを山に放しても、また道路沿いをうろつくのは目に見えていると考えられ、動物園へ送ることを決心したそうです。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 この子グマの移動経路からは、幼くして親離れし、自然界で生きるすべを教えられなかったものの哀れさが、うかがえます。

 子グマが動いた回遊経路の殆どが、観光道路や林道に沿っているのです。観光客の捨てた残飯や、民家の軒先で餌を拾い食いしながらも、懸命に生きた証が、ひしと伝わってきました。
 東山先生は、言われました。
 『山から出てきたクマを、ただ撃つな、殺すなと言って、麻酔をかけ、クマ避けスプレーを浴びせて、奥山へ放獣するだけでは、問題は解決しません。
 子供達の通学路や遊び場にクマが出没したり、山仕事の場にクマが出て危いから、早くクマを殺せ!と言うのは当然のことです。
 また、遠く、都会から、自然を大切にしろ、野生生物を守れと、声高に言われるのも、もっともな事だと思います』

  では、どうすれば良いのでしょうか。

 先生は、この子グマの行動から、観光道路に置かれているゴミ箱が野生生物を呼び寄せていると気づかれ、その改善に全力で取り組まれます。

 また、観光道路が野生生物の回遊路を分断し、クマたちが道路を横切らざるを得ない状況を、何とか改善できないものかと、関係各省庁に訴えます。
観光道路問題

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 こんなことが有りました。道路の巡視員が、観光道路わきのドラム缶のゴミ箱の中に入っているクマを見つけました。

 しかし、巡視員はそのことを鳥獣保護員にも、道路管理の県事務所にも報告せず、ドライブインの店員に話しただけでした。

 東山先生は言われました。
 『野生生物の保護の心が全く感じられません。声高に保護を訴えるのならば、道路管理の長、鳥獣保護の長たる県知事に速やかに報告して、なぜそんなことになったのかを検討し、対策を講じなければなりません』


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 東山先生は、現場に直ぐ飛んで行きました。

 まず、ドラム缶が回転式になっていることが問題です。簡単に中の残飯を取り出せるからです。

 そして、ドラム缶の下の臭いを這いつくばって嗅ぎました。

 案の定、中に溜まった雨水が染み出して、アスファルトの上を流れ、広範囲に残飯の臭いを運んでいました。

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 野生生物に餌を与えないで下さい、ゴミは持ち帰りましょうと書かれた立て看板の真下に、ドラム缶のゴミ箱が放置してありました。

 鳥獣保護などと、何をかいわんやであります。

 野生生物のことを感じ取ることができない人に、いくら保護を訴えても、どうしようもないのです。

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 東山先生は、観光道路沿いのゴミ箱を収納式の物に変えて貰うため、道路公団に足跡が付くほど通われたそうです。

 しかし、まだ不十分です。観光客が土・日曜日に集中しますから、当然、ゴミも溜まります。

 ならば、できるだけ早くゴミを片づけるように、月曜日にゴミ収集をすべきなのです。

 週明け半ばまで、ゴミが溢れていては、その匂いに惹かれて、やはり動物が近づいてしまいます。

伊山地野生鳥獣保護の会より
 観光客にゴミを捨てるな、持ち帰りなさいと言っても限界があります。では、できることから対策を講じなければなりません。

 ゴミ箱の設置場所も、アスファルトの上に置くのではなく、万が一雨水が流れ込んでも臭いが広範囲に行き渡らないように、土の上に置くべきです。

 外から中の見えないゴミ箱、臭いを出さないゴミ箱、迅速なゴミの処理、そういった感性、思いやりが、野生生物の採食行動を本来の姿にさせ、人間の近くに出没させないことに繋がるのです。

注)現在は、ゴミ持ち帰り運動が行われており、ゴミ箱は撤去されています。
 観光道路の構造も、野生生物にとって、非常に厳しい環境を強いています。

 高野ー龍神スカイラインは、ほぼ紀伊半島の真っ只中を北から南へ、標高800m〜1000m付近を縦断しています。

 ここは本来、野生生物たちが紀伊半島の山脈に沿って東西に回遊する通り道でした。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 尾根伝いに移動してきた野生生物の眼前に、否応無しに、このような道路の側壁が立ち塞がります。

 これでは、動物達は道路に沿って移動してあたりまえですね。

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 道路手前は和歌山県、崖の向こうは奈良県で、観光道路が開通した当時に、この崖を登るクマの姿が目撃されています。

 せめて一ヶ所でも、二ヶ所でも、尾根つづきの場所を設けることで、どれだけ動物達の移動がスムースに行なわれる事でしょう。

 今ある道路を潰せとは言いません。

 トンネルを掘って迂回路を造り、野生動物と人間の接点を無くしてやることで、彼らが安心して移動でき、自由に採食行動をする事が可能になるのです。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 紀伊半島のクマが、観光道路や林道で東西南北に分断され、ますます孤立化している現状は、彼らの種を滅び去る大きな原因の一つです。

 奥山の開発が人間の幸福のため必要なのであれば、その片方で、全ての野生生物の幸せにも、心をくだくべきです。

 これ以上、野生生物たちを苦しめることなく、彼らの将来をも、しかと見据えて行動しなければならないと思います。
クマが山から出てくる理由
 東山先生は、クマの出没調査と、その対策に当たって、常に五つのWを念頭において活動されています。

 『クマが里付近に出没する原因は何か、それを究明し、適切な対策を講じれば、クマが出てくることは極端に少なくなるでしょう。』

 『現場に行き、足で稼ぐ地道な活動しか方法はありません。これが野生生物保護の原点です』

 先生の、クマ出没調査における、克明な記録から数例を抜粋させて戴きました。
 金屋町・糸川地区、修理川地区 平成8年10月8日


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 金屋町、鳥獣保護員Mさんからクマの足跡を見つけたという住民情報があるとの一報を受けました。

 A地点(日高の中津村へ抜ける船津街道上)で奥地へ向かったクマの足跡を確認。道端に地蔵尊が祀られていました。

 地蔵尊にアンパンの供え物が置かれてあったので、これがクマを呼んでいるのかはっきりしませんが、山奥に食べ物の供え物を放置することは、野生生物を呼ぶ可能性が考えられます。

 地区区長から、供え物は持ち帰るよう、地域住民に通達をしてもらいました。
  上記調査から一週間後、近所の修理川地区でも、マタタビ採りに山へ入った人から、マタタビの蔓(つる)が引きづり降ろされているのを不審に思い、谷川を見回ったところ、岩陰にクマの足跡を発見したと通報がありました。

 鳥獣保護員、役場職員らと現地調査に出かけます。足跡は確認できなかったのですが、周辺を調査すると、マタタビの現場から少し上がった杉林の中で、死後一ヶ月くらい経過したと思われるイノシシの、いき倒れ死体を見つけました。

 内臓や足の肉は殆んど食べられており、頭と皮だけの姿でした。周辺の木々に、縄張りを示したと考えられるクマの爪痕がありました。イノシシを食べに、クマが通っていたのでしょう。イノシシの遺骸は始末しました。

 金屋町修理川、糸川地域は、白馬山の山頂周辺のクマ繁殖地に近いことと、最近、この山頂で林道工事が行なわれていることも、クマが出没する原因と考えられます。
南部川村 平成3年11月24日
 夜半、猟犬が吠え立てるので、人家横の畑に出ると、ゴミ処理器内から『ウオッー』と声を上げてクマが飛び出した。人との距離は2mあまり、人も逃げましたが、クマも裏山へ走って行ったので事なきを得ました。

 南部川村では、以前は正月用の串柿作りの盛んな地域でしたが、今は、それも行なわれず、ほとんどの家の横や、裏の段々畑には、熟した渋柿の実がぶら下がっていました。見回ると、どの木にもクマの爪痕が残っています。

 各家々に近い畑には、ゴミ処理器が設置されていますが、処理器の裾が土中に埋め込まれていない不完全な状況が数多く見られました。ゴミ処理器に蓋は付いていますが、生ゴミの臭いが裾から広がってクマを呼び寄せたものと考えられます。

 渋柿の実を放置することなく収穫することと、ゴミ処理器の設置改善を対策として、地区の人々に徹底していただくようにお願いしました。

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 集落に放置された渋柿の熟した実と、生ゴミはクマの格好の餌場と化しています。

 高山生息域を奪われたクマは、生き延びるために餌を求めて里に下りて来て、残飯や渋柿を食べ回る、集落依存型化になってしまったのです。

 人工食に味を覚えたことで、ますます人間居住域に接近しつつある現在、奥地集落の野生生物に配慮した環境整備が必要です。

日高郡美山村、寒川東谷 平成6年8月19日

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 奥地(一軒家)で養蜂をされているM氏宅の蜂箱を狙ってクマが出没しました。北海道のヒグマの成獣は一度に7〜8箱、本州のツキノワグマの成獣で3〜4箱を壊すといわれます。
 ここでは2箱を壊して食べました。食べ残しの状況からすると子グマのようです。

 寒川地区は、地場産業として、シイタケ栽培用のボタギ生産や、シキビ、ビシャクの切花の出荷が盛んな地域で、昔から自然林とともに暮らしてきました。

 おのずと和蜜採集も各所で行なわれており、クマにとっても採食行動には、格好の地です。

 東谷での被害地は山の中腹に位置し、高山帯では人工林化が、かなり進んでいます。
 対応策は、奥地一軒家ですから、犬を放ってクマの追い出しを試みましたが、猟犬でなかったので犬が逃げ回ってしまいました。

 電気柵を張り巡らしたのですが効果なく、家の裏手に赤色回転灯を設置しましたが、その夜もクマが出てきました。

 結局M氏は、カーバイトを利用した爆音発生器を取り付けました。夜通し鳴るので眠ることができず、一晩で使用を中止しましたが、その後の出没は無くなりました。

 クマに対して爆音響による追い払い効果のあることが立証されました。
 M氏が、東山先生に言われたそうです。
 『若いころは、奥山に豊かな自然林があって蜜も沢山採れました。このごろは蜜もあまり採れませんし、クマの被害が出るようになっています。変わり果てた山の状況では、クマも山で棲めなくなって里に来るのも当然です。環境の変化を考えずに蜂を飼う人間の方が無理なんでしょうね』

 東山先生は、M氏の言葉に感激され、今後に備え、トウガラシ濃縮液スプレーと、腰吊り南部鈴を渡し、今後とも、人と野生生物の共生に協力をして貰うように、お願いしたそうです。

 里に出てきたクマを、ただ危険だからと言って殺すのではなく、共に生きて行く工夫が望まれます。金銭的にも、地元の負担は重く、単に、一町村の問題ではなく、全県、全国の野生生物保護のあり方として、問われるべきだと思いました。
那賀郡桃山地区 平成4年11月5日、10日
 和歌山県でのクマ出没地としては北端地方の出来事です。平成4年当時は、クマ出没と聞けば駆除が行なわれ、クマは狩猟獣で捕獲禁止が行なわれていない状況でした。

 富有柿の産地でもあり、柿の収穫最盛期で出荷を急ぐ農家からは有害駆除による捕獲依頼も申請されています。

 和歌山県では、平成元年、鳥獣保護員総会で、クマの捕獲を避けて奥地へ追い込む対応を打ち出していました。

 地元鳥獣保護員から相談を受け、現場に行きました。クマの糞の中にスズメバチが未消化のまま出ているのを確認しました。また、クマの食べ残した柿や、クマの寝床も見つけました。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 現場調査の結果、クマの出てくる方向や、回遊路が掴めたので、地域の農家に3日間だけの約束で、柿の収穫作業を中断してもらい、手前から奥山の方向へと、2頭の猟犬を使って追い込み作戦を行なったところ、クマの出没が止みました。

 クマ保護のため、幼稚ではありましたが足で稼いだ調査を行い、地元の人々の協力を得て、成果を見ることが叶った、忘れられない出来事です。以後のクマ保護への大きな手掛りとなりました。


 猟友会那賀支部とは、日本キジ養殖で、平素から協力関係にありましたが、この件を通じて、さらに深い信頼関係を構築することができたのも、嬉しいことです。
清水町杉野原、大谷の奥杉伐採現場 平成8年10月22日

紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 大谷の杉伐採現場に一週間前ころから、毎日クマが出て来るので撃ち殺して欲しいと申し出があったと、地区の鳥獣保護員から連絡を受けました。

 事情聴取では、まず現場に置いたチェンソーが誰かに山中へと持ち去られて困っていたという話が出ました。チェンソーを見ると、起動用のプラスチック製取っ手に、クマの咬んだ痕が残されています。

 たまさか昼食時で、作業員がオカズの目刺を直に掴んで食べるのを見ました。そして、弁当箱を蓋でカチカチとたたいて残飯を地面に落としました。これだ!と確信しました。

 残飯を捨てることでクマを呼んで、指先に魚の臭いが付いた手でチェンソーの取っ手を触り、臭い付けをしていたのです。
 常識では、食事の前に手を洗うのですが、野生生物の生息する奥山で作業する山林作業員、土木作業員の方々には、食前よりも食後の手洗いの必要性があること知らされました。

 人間本位に、クマが出没すれば危険だから撃ち殺せの声、遠く都会からは可哀想だから撃つなの声、いずれにも理由があります。

 野生生物の保護を声高に叫ぶ私ですが、客観的な見地から無責任な保護は言うべきではないと考えています。
有田郡広川町〜金屋町糸川〜清水町栗生 平成11年6月16日〜7月15日
 広川ダムの桜公園にクマが出没するとの通報で現地調査をしました。

ゴミカゴも設置されておらず、ゴミ投棄の様子もありません。道端に小屋が建っています。町役場職員に尋ねると、花の季節に、地元婦人会により、うどん、おでん等の炊き出し販売をする小屋とのことでした。


 流し台からの汚水が、小屋からパイプで導かれ、石敷きの溜まり場へ流れる仕組みになっています。

 花の季節から1ヶ月半も経過していましたが、気度の上昇により、石敷きの隙間に入り込んでいた汚物が腐って、周囲に臭いをまき散らし、この悪臭がクマを呼んだものと思われました。


 石灰、防腐剤、消臭剤の散布をしておけば、悪臭が漂うことなくクマも出て来なかったと考えられます。小屋の排除はできません。ならば、少し配慮すれば問題とはならなかったはずです。

紀伊山地野生鳥獣保護の会より


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 このクマ(仮称・花園と呼びました)は、その後、広川沿いに転々と出没し、山越えして隣接する金屋町糸川から修理川に現れ、川原のキャンプ地や、宇井苔地区の集落ゴミ集積場、林道工事現場を巡り歩き、1ヶ月後には清水町に出てきました。

 直線距離にして20Kmあまりを、足早に移動したのです。野生本能を喪失したクマといえるでしょう。

 さっそく現地調査に向かうと、地元ではキャンプ禁止を呼びかけており、トイレ設備も無い川原です。
 山間部からの清流が有田川に注ぐ絶好の環境ですが、ダム放水の危険も考えられる場所でした。

 地元民からは、
 『金を落とさず、糞落とす!』
と、キャンパーたちへの反発や苦情も多いのです。

 ゴミや、食物のカスや、余り物の食料を持ち帰らず、放置すれば、野生生物を呼び寄せることになるのです。

 キャンプ地の完全閉鎖、または安全なキャンプ場の設立など、関係省庁、町村役場が、早急に手を打って、地元民からクマの恐怖を取り除くことが必要です。
 このクマを捕獲するために、キャンプ地の奥に捕獲檻を設置し、檻内には、食パンに蜂蜜を塗ったものを置きましたが、クマは入りませんでした。

 クマは、キャンプ地やゴミ集積場の残飯の臭いで現れたのですから、蜂蜜より、和食弁当の方が効果があったと思われます。

 掴まえる相手が、生ゴミを漁る、野生本能を喪失してしまったクマなのだ、という認識に欠けていたから捕獲に失敗した、と言われても仕方ありません。

 クマが通った周辺の山々では、ヤマモモが実り、ビワもなっていましたが、それらの木々には爪痕も残していなかったのです。このクマからは、クマ本来の採食行動が、全く見受けられませんでした。

 また、こういった檻が、山中に放置されたままになっている場合もあります。他の健全な野生生物が入ってしまうかも知れません。役目が終わったならば、至急片づけてもらいたいものです。


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 キャンプ禁止の看板も設置されていない、いわゆる無法地帯で、キャンパーたちが捨てたり、川原に埋めた生ゴミの臭いを嗅ぎ、野生生物が集まってきます。

 奥地民家(生ゴミの管理)、工事現場(弁当の残り物を捨てる)、川原に残る残飯の臭気、それらの周辺を回遊するクマが増えています。

 山の汚れは、人の心の汚れです。古来、日本人の心に伝えられてきた、山遊ぶ心が、遊山の精神が、ずさんに変わったことが、野生生物に大きな影響を及ぼしているのです。
有田郡清水町久野原 平成11年9月23日


紀伊山地野生鳥獣保護の会より
 高野山に上る国道480号線沿いの山手墓地への参道でクマを見かけたという報告がありました。

 ここは、以前から、よくクマが出没する場所でした。
 ちょうど、お彼岸で、40あまりある墓石には、サツマイモ、ミカン、カキ、クリ、袋入りの菓子などが供えられていました。

 地区区長との話し合いで、お供え物の持ち帰りに協力して貰うようお願いしました。
 先祖を敬う墓参の心持に水差すような、お供え物の持ち帰りを口にすることに躊躇しましたが、クマの出没が地域住民にの安全を脅かすことを考えると、止むを得ませんでした。

 むかし山が豊かなころは、山中が故に火災を案じ、線香の火の後始末には十分注意をして来ましたが、とうとうお供え物も持ち帰らなければならないような環境になったのですね・・・・・・、お年よりの呟きを聞いて心が痛みました。
 今一度、先に書いた、子グマの追跡調査の記録を思い出してください。
 平成8年4月29日の昼下がりに、高野ー龍神スカイラインの道路沿いで、残飯の入ったビニール袋を抱えて、無心に残飯を食べていた子グマのことを。
 一目見ようと立ち止まる人だかりに囲まれても、この子グマは逃げようともせず、残飯を食べ尽くすと、そばの木に登って観光客を見下ろし、無邪気に遊んでいたそうです。

 母親がククリ罠に掛かり密漁され、孤独のクマとなりながらも、懸命に生き延びてきたこの子グマを、誰が責められましょうか。

 日本に生息する野生生物の最大・最強のクマが、動物園やクマ牧場の檻の中で生きている可哀想なクマと同じになってしまっている現実を、どう思われますか?


 この子グマは【和歌】と名付けられて動物園でくらしています。【太郎】も県の施設で生活しています。彼ら以外で、数多くの子グマたちが、有害駆除として殺されて続けている現実を、黙って見過ごしてはならないと思います。

 東山先生は、仰いました。
『野生生物の保護は、人の心の問題です。彼らを苦しめているのが人間ならば、苦しむ動物に向かって手を差し伸べ、彼らを救ってやれるのも人間なのです』
佐渡島のトキ


紀伊山地野生鳥獣保護
友の会のシンボルマーク
 東山先生は、2002年の年賀状に印刷されている、紀伊山地野生鳥獣保護友の会の、シンボル・イラストを示しながら、

 『この絵は、母親クマと、その背中で無心に遊ぶ子クマを描いたものなのですよ。クマの母子の愛情は、人間のそれに、決して劣ることはありません。いえ、クマだけではありません。全ての生き物の母子、親子の愛情に優劣はありませんね。野生生物の保護は母が子を、親が子を慈しむ心、そのものだと思います』

と、言われました。
 東山先生は、長年、和歌山県の鳥獣保護員をされていますが、過去25年間で300件をこえる負傷鳥獣救護にあたり、その半数の150件余りを自然界復帰させました。

 鳥獣が負傷する原因の多くは、交通事故、農薬害、高層ビルへの激突、河川や用水路の改修工事に伴う影響など様々です。特に交通事故の場合は獣医に頼らねば再起困難な重症が多い中で、県の助成は15万円程度と、餌代にも事欠く状態でした。

 助かる命も消え去ってしまうことが、鳥獣保護員として忍び難く、殆どがボランティアで、率先して受け入れて来られたのです。
 特に、大型獣の受け入れには保護施設の檻が必要でしたし、食べ物が異なり、市販で入手できないものもありました。また、動きが止まると体温が下がるので保温の工夫など、思いがけない苦労の連続でした。
東山先生は野生鳥獣の保護活動を通じて、佐渡でトキの保護を続けられていた、宇治金太郎さん、カヨさんご夫婦と知り合いになられ、宇治さんを、何度も訪ねました。

 越後の民謡に
『鳥の内で憎い鳥は、サギとドウ(トキのこと)と子スズメ、佐渡へホーイ、ホイ・・・』と云う一節があります。


 トキは水田を荒らす害鳥として捕殺しまっくっていました。当時、メスのキジが80銭、オスが1円に対して、トキは20円の値がつけられていました。

 ニホンオオカミ、カワウソが絶滅し、本州最大の野生獣のツキノワグマが、人間に危害を加える動物として嫌われ絶滅の危機に瀕しています。

 増えたら殺せ、少なくなったら保護せよと騒ぎ立て、そして、また増えたら殺せ・・・・・・これが日本人の、我々の根性なのでしょうか!?!

 美しい日本の自然、野生生物の豊な国土を、子孫にどうして伝えられましょう。あまりに情けないことだと思いませんか。


日本最後のトキと
故・宇治金太郎氏
 ニホンオオカミは、明治38年1月28日に、大台ケ原の北、奈良県吉野郡東吉野村(当時の小川村)鷲家口の猟師から、8円50銭で、アメリカのアンダーソンが買い取ったのが最後で、その後は絶滅したというのが定説になっています。

 参考までに、アンダーソンが買ったニホンオオカミの毛皮と頭骨の標本は、ロンドンの大英博物館に収蔵されています。


 −−−【大台ケ原・大杉谷の自然】(1975年、ナカニシヤ出版)菅沼孝之・鶴田正人 共著より。


宇治カヨさんと
東山先生
 金太郎さんは亡くなられましたが、東山先生は、その後もカヨさんを訪問して、金太郎さんとトキの思い出を語らっては、カヨさんを勇気付けられておられるそうです。

 ある時、カヨさんが、先生に言われました。
 『トキに食べさせるドジョウも少なくなり、真野湾で捕れたコアジを食べさせました。コアジの頭だけ落として、私がお爺さん(金太郎さん)に渡すと、トキは喜んで食べる。私はトキに、一度も食べさせたことはありません。』

 どうしてですか?と尋ねる東山先生に、カヨさんは、
 『東山さん、あなたはクマを育てた人ですから、保護の心はよく知っているはずです。私は、自分でトキに餌をやって、お爺さんとトキの幸せを横取りするよりも、お爺さんがトキに餌をやる姿を見ているだけで幸せでした。保護とは相手を幸せにしてあげる人の心ですね』と仰ったそうです。

 東山先生は、そのカヨさんの言葉に、深い感銘を覚えられました。

 この心こそが、金太郎・カヨさんご夫妻をして、人間年齢で優に百歳をこえる長命のトキに育て上げることができたのです。自然界の奇跡ですね。

傷ついた鳥を介護して


保護した鳥に餌を与える

カモシカの保護
 有田川で川遊びをしていた人が、白鳥の首に何かが巻きついているのを見届けて、連絡してくれました。
 望遠鏡で見ると、鉛の錘がぶら下がった釣り糸が、巻きついているではありませんか。

 野生のため捕獲が困難でしたから、餌付けをして呼び寄せ、振興局担当者の立会いのもとで捕獲して、障害物を除去してやりました。

 ところが、餌付けが災いしてか、この白鳥は居着いてしまいます。

 孫の手を引き、白鳥を見物に来る老人、先生に引率されて岸辺で白鳥と遊ぶ幼稚園児など、白鳥と人との触れ合いが深まりました。

 それならばと、宇部市の常盤公園から、白鳥を一羽買い求め、ペアーにして餌付けをしたところ、渡り鳥のマガモも集ってきました。

 春には雛もかえり、『来い、来いー』と呼べば、多くのマガモや、白鳥が近づいて来て餌をねだる、そんな自然の中の、野鳥公園の場が実現しました。


有田川野鳥公園


有田川野鳥公園
 子供らの情操教育には、もってこいの環境が出来上がったと喜んでいましたが、ある年(6年後)の年末に、6羽のカモが突然姿を消し、続いて2羽の白鳥も、何者かに連れ去られてしまいました。

 おそらくは、心ない人によって、鍋に入れられたのでしょう。

 優しさと、いたわりの心が失せた、人の心に乾燥化が進む現代社会が、思われてなりません。
 右の写真は合成写真ではありません。

 一斗缶に首突っ込み、飲まず食わずでやせ衰えたクマが、京都府亀岡市の桂川の支流の岩陰で、うずくまっている姿が発見されました。
 一斗缶の中に餌を入れ、クマが頭を入れると抜けないように返しを付けた罠に掛かったクマでした。

 一部の人間は、自分の欲望のために、ここまでするのです。日本古来のマタギの伝統など微塵も見られません。


一斗缶に頭を入れ苦しむクマ
 野鳥公園のカモを捕らえ鍋に入れて舌鼓をうつ人の心、己の欲望のためには手段を選ばない人の心、善悪の判断力、良心の伴わない人の心・・・・・・。

 豊かさが過ぎると贅沢に走り、心に緩みが生じると欲望が頭をもたげ、人は理性を失って凶悪化します。

 昨今の殺伐とした世相を見るにつけ、今、保護(捕獲)・教育(からしスプレーを吹きかけ、奥山放獣)すべきは、ツキノワグマではなくして、我々人間の方なのではないでしょうか!
みのりある高山の実現を

造林計画の下見


春と秋の下草刈りと肥料やり

鹿の獣害防除網の設置



 東山先生は、自然林の造林計画の概要として、以下の要点を述べられました。

 自然環境の復元には計画的かつ、克明な事前調査が必要です。調査後の造林実施から、現在に至るまでの過程は、以下のとおりです。

1)環境変化による野生動物の動向調査

 野生動物は、豊な自然の中で、標高を保ちながら稜線に沿って、横方向に回遊移動します。高山の開発当初は、苗の背丈も低いので人工林内に日差しが入り、山菜を求めて横切る野生動物の姿も、数多く見られます。
 時が経つにつれ、杉、桧の成長により人工林内は暗くなり、野生動物の通路を遮断するので、回遊の方向は山麓に転じていきます。

2)野生動物の出没状況調査

 上下に表す図は、山の木の実の、豊作・凶作によるクマ出没状況の違いを表したものです。

 平成2年と4年(遇数年)は木の実が凶作であったため、低山帯へのクマの出没が多く見られましたが、平成3年と5年(奇数年)は豊作の年回りになったので、クマの出没は減少しています。

 この調査により、野生動物の高山帯から低山帯への回遊路を探索し、造林地を設定しました。

3)適当な造林地の選定と確保

 ある地域の山頂に、林道建設の残土場のハダカ山を見つけました。山には地主がいて、それぞれ育林をおこなっています。無償で、かつ永久的に使用させて貰えるかどうか、地主への交渉を、努力と熱意で、辛抱強く懇願し続けました。


4)造林着手における諸注意

 苗木を植えることは、相当の技術が必要です。植え込みには、適当な間隔、適当な深さ、伸びた根を曲げない、・痛めない等、細心の注意が必要で、これが出来ていないと植樹後の発育に大きく支障をきたします。

 東山先生は、やむなく、素人のボランティアを諦め、植樹は山林作業専従者に依頼しました。

5)造林は、植えるのは一度、育林の道は遠い

 高山帯、特に山頂付近は、痩せ土、野生動物(シカなど)の食害、高山の強風、雑草の繁茂など、幾多の障害が付きまといます。自然林として自立するまでは、決して手を抜くことはできません。

 以上のように、事前調査に四年、造林開始から現在まで八年の歳月を費やし、毎年、春・秋の下草刈りと肥料やり、梅雨時の農薬散布などの地道な作業を行いながら現在に至りました。

 その後、奈良県の大台ケ原山系にも新しい造林地を加えることが叶い、現在では、両方の造林地でシバグリ2000本が植えられ、約2000Kgの実が成っています。

 今しばらくの送り届けの後に、自然の中での自生に依存する予定です。

 注)

 植樹に関してですが、東山先生は、早くエサが手に入るようにと、大きな苗を植えられました。大きな苗は、素人が根付かすのは難しいそうです。

 ボランティアの一般的な植樹の場合は、3年苗を植えることが多いようです。小さい苗の植樹は、素人でも十分可能です。

 東山先生も、おっしゃってますが、植えた後の手入れは、苗の大小にかかわらず、とても手間がかかります。下草刈り、肥料やり、シカなどのj被害防止などなど・・・しっかり世話をしなければなりません。



 『クマさん、おなかいっぱい食べてね』

 全国から届けられる木の実の箱の中に、幼稚園の園児からのメッセージが入って
いました。


積み上げられたクリの実
 木の実は量ではありません。

 たとえ些少でも、野生生物を想って、それを拾い集め、届けて下さる方々の真心が、素晴らしいと思います。

講演中の東山先生


高山の餌場へクリの実を運ぶ

野生生物保護を訴えて
 復興造林に次ぐ開発造林の長い開発による環境変化から調和の対策が取られ、現在はその目的はほぼ果たされて来ています。

 けれども高山は時に極度な木の実の凶作が起こり、また林道開発や、高山への観光客の誘致などによる様々な問題が、新たに発生しています。
 そのため野生生物が影響され、人里近くに出没するところとなり、今なお駆除が後を断たない現状です。

 救えるものなら救ってやりたい、これが保護の心です。高山の人工林を元の自然林に復元することが望まれますが、それには非常に長い時間と膨大な労力を必要とします。

 さりとて、放置はできません。なんとか共存の道をと考える中に、食糧不足への対応が思われました。

 開発が山頂に達した人工林の間に、生息に足る必要絶対量の食料を補給してやることで、野生生物を高山に定住さすことができれば、農林被害を避け得るであろうと考えたのです。

全国支援者の名札を掛けた苗木


植樹ボランティアの皆さんと

造林地での実り
 はじめた頃は、近所の庭先で、カシ、ウバメガシの実を拾わせて貰ったり、時には街路樹の実を拾い集めて山に運びました。微々たる量でした。補うために、赤い編み袋に入ったクリも買いました。

 けれど、小さなダンボール箱の木の実を高山のブナの根元に置くと、2日後には一粒残らず食べ尽くされていました。周囲の地面には、鹿や猪の足跡がたくさん付いていました。

 これに確信を得、全国のご支援くださる皆さんにお願いして、毎年、約1500Kgの木の実を、高山へ運び上げています。

 クマだけでなく、全ての野生生物たちよ、皆でこのクリを、木の実を食べよ!そんな心持で、毎年4ヶ月(9月〜12月)のあいだ、野生生物の食料を補っています。

 紀伊半島のクマは秋(11月中旬くらい)になると越冬に備えて、堅果類(各種ドングリやクリなど、皮が堅く熟しても裂けない果実のこと)を食べるため、標高1000mくらいの高山帯へ登ります。
 その高山帯に豊富な餌があれば、里へ降りてくることをしなくて済むのです。

 努力の甲斐あって、周辺地域では農作物への被害が殆どなくなり、クマの出没は忘れたように消えました。

 多くの国有林は、野生生物が生息する高山帯や、山頂まで杉、桧の植林をしてしまい、彼らの採食行動に大きな影響を与えるばかりでなく、飲み水の問題や土砂災害など、我々人間の生活にも悪影響を及ぼしています。

 管理・育林の放置された森を伐採し、実のなる木々を植樹し、広葉樹林の中に針葉樹が点在する、潤いある森にしなければなりません。
 野生鳥獣保護で巡り会った、二頭のツキノワグマ、太郎と健太の救護が世間に知れ渡り、先生は、東中国クマ集会、西中国クマ集会、東北クマ集会などへ招かれ、飼育経験からの意見を話されるとともに、保護の在り方を講演されました。

 また、全国各地から講演の依頼も相次ぎ、地元和歌山県内はもとより、奈良県、大阪府、兵庫県へ出向かれ、野生鳥獣保護の講演をされるとともに、あちこちの小学校を巡回しながら、子供達に、森の恵みに感謝しつつ、自然を守ることの大切さを教えてこられました。

 『山の乱れと汚れは、人の心の汚れです!』

 『私は、近頃、年のせいか(笑)、騒然とした現代社会の人心が気になって仕様がありません。
  人間のために、飢え泣く野生生物たちへの、いたわりや優しい保護の心の欠如が、
  そういった社会にさせているのではないのでしょうか?
  心の優しさを、次世代に生きる幼い子供達に育てるための一つの方法として、
  木の実拾いを情操教育として発展させ、
  未来を明るい社会にしていかねばなりません』
太郎は今・・・

生石高原の太郎


お土産の柿を食べる太郎

尻を落として、ピーナツをむさぼる
太郎・笑
 東山先生のお宅を辞してから、冨田会長にご案内していただき、生石高原で暮らす太郎を訪ねました。

 冨田会長が持参された柿を与えると、『カポ・カポ・・・』と、ほんとに美味しそうに食べました。柿の実のヘタだけを器用に出して、それはもう惚れ惚れするような食欲でした・笑

 しばらくして、奥の掃除用の出入り口方からピーナツを入れて貰うと、柿は放ったらかして、ピーナツに夢中になってしまいました。お尻をペタンと地に下ろし、両足を投げ出して(笑)、次から次へ・・・・『太郎〜柿だよ〜!!!』、いくら呼んでも見向きもしません。

 よほどピーナツが好物なのでしょう。やはり、柿のヘタと同じように、殻をプイっと吐き出しては、山のように積まれたピーナツを抱え込んで、一心不乱に食べていました。

東山先生と太郎を描いた
教育用の絵本


太郎の故郷護摩壇山方面

太郎の檻の前で冨田会長とカミサン
 太郎を眺めていると、東山先生に戴いた教育用の絵本【クマの子 太郎】佼成出版社(1999年)の文章が思い出されました。

 『大きくなった太郎は、山の上の牧場に引っ越しました。牧場からは、遠くに母さんといた山が見えます。
  東山さんは、ときどき太郎に会いにいきます。
  「太郎、げんきか。おまえの好きなものを一杯もってきたぞ。たんとおあがり」
  太郎はむちゅうで平らげています。
  「山のクマにも、はら一杯たべさせてやりたいな・・・・・・」
  東山さんは、紀伊山地の山なみを見つめてつぶやきました


 太郎の故郷、護摩壇山の山々が、初冬の午後の空に浮かんでいました。カミサンが、ポツリと言いました。
  『太郎、あそこで暮らせたら良いのにね・・・』
  『そやなあ、餌はぎょうさん貰えても、檻の中だもんな。友達も居ないし・・・・・・』

 ひょっとして、今の太郎は檻に入れられているけれど、餌に不自由のない生活ができて幸せなのかも知れません。悲しいけれど、そんな考えが、ちらと頭をよぎりました。